豊臣秀吉と黒田官兵衛|なぜ信長・秀吉・家康のもとに“優秀な人材”が集まったのか?【戦国三英傑の採用力】
「人手不足」と「人材不足」は違うという。
“人手”不足は単に働き手が足りない状態をいい、“人材”不足はスキル(能力・技能・資格)が必要な状況にもかかわらず、それらを持つ者がいない状態を指した。前者は量的な問題で、後者は質的な問題だ。
コロナ禍以前は全国的に“人手”不足が注目されていたが、コロナ禍以降、激動する経営環境の中、“人手”は足りているものの、思い切った事業再構築などに挑戦する“人材”不足も深刻な課題となっている。
戦国という激動の時代、武将たちは権謀術数の限りを尽くして覇権を争ったが、この激戦を制するカギは武勇のみならず知略に通じた“有能な武士”たちをいかに確保し、定着させ、起用するかだった。
人材こそがすべて――これは現代ビジネスでも変わらない。
戦国三英傑と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとに、なぜ“優秀な人材”が集まったのか?
彼らを支えた重臣を中心にみていきたい。
「まずは人に好かれなければならぬ」
人手不足、人材不足が叫ばれて久しい。
両者とも早急に手を打たなければならない。が、より急ぐのは、突然、自社の命運を左右する状況が訪れたときに実力を発揮する、スキルとモチベーションを兼ね備えた人材の確保――つまり即戦力の加入だろう。
天正元年(1573)に北近江の長浜城主となった羽柴秀吉(のち豊臣、1537~98)は、若手家臣の育成とともに即戦力となる人材の確保を急いだ。
というより、一代で一国一城の主にのしあがった彼には、代々、仕える譜代の家臣がなかったから、優れた人材を外部から獲得(スカウト)する以外に方法がなかった。
10代前半で親元を離れた秀吉は、放浪生活の中で、生来の貧しさや暗さを意識的に捨てる。彼は常に明朗快活な人間を演じた。道すがら他人に猿と笑われれば、いっそう顔を猿に似せたという。
(まずは人に好かれなければならぬ)
秀吉は相手が誰だろうと敬意を払い、自己主張を控え、相手の意見を尊重するようにつとめた。そんな彼のもとには、多くの優れた人材が集まってきた。
前回取り上げた竹中半兵衛(1544~1579)の死後、入れ替わるように秀吉を補佐したのが黒田官兵衛(1546~1604)だ。
官兵衛は、永禄10年(1567)に播磨国御着(現・兵庫県姫路市)の小大名・小寺氏の家老職に就いた。この年、織田信長(1534~1582)は美濃を統一している。
やがて官兵衛は東で勢力を拡大する織田家に注目し、成果主義(実力主義)による人材登用、最新兵器(鉄砲)の大量取得、楽市・楽座政策などから信長が天下を統一すると予測する。一方、毛利元就(1497~1571)亡きあとの、西の毛利家は吉川元春(1530~1586)・小早川隆景(1533~1597)の2人を高く評価しつつも、総大将の輝元は大将の器ではない、と分析した。
「西の毛利か、東の織田か」
天正3年(1575)、西に毛利、東に織田という二大勢力に挟まれた官兵衛の主君・小寺政職(1529~1584?)は身の去就に迷っていた。
(大勢が定まるまで日和見に時を費やし、どうにか勝ち馬に乗れぬものか)
そんな政職に対して官兵衛は言う。
「殿、中小勢力が生き残るためには、常に旗色を鮮明にせねばなりませぬ」
官兵衛の先見性の凄さは、織田家が大坂の石山本願寺、甲斐の武田氏、越後の上杉氏などを相手に大苦戦している最中に、中国10ヵ国の覇王・毛利家ではなく、織田家につこうと考えたことだ。
やがて主君・政職を説得した官兵衛は、その使者として信長のもとへ派遣される。
このとき官兵衛が信長への取次を依頼したのが秀吉だ。
官兵衛は秀吉に対面するや、これから予測される織田家の中国征伐に役立つように、播磨周辺の情勢や調略方法を熱弁。出陣のおりには小寺家が先鋒を買って出ることなどを伝えた。
秀吉は満面に笑みをたたえ、まるで賢者をもてなすような態度で官兵衛の言葉に耳を傾ける。
(この男、できる)
そうみた彼は主君・政職ではなく、家老の官兵衛と親密な関係を結ぼうとする。
やがて信長から中国方面軍司令官の内示を受けた秀吉は、播磨の官兵衛へ書状を送る。
「今後いかなることがあっても隔心なく、相談したい」
さらに別の書状で秀吉は官兵衛に伝える。
「そなたを弟・小一郎(秀長)と同じように思っている」
これだ。
まだ数回しか会っていない官兵衛に対し、秀吉は兄弟同然だと言えた。
その後、官兵衛が秀吉に懸命に仕えたことは言うまでない。
「殿、これで殿の御運が開けたのですぞ」
天正10年(1582)4月、秀吉は3万の中国方面軍を率いて毛利方の清水宗治の居城・備中高松城を包囲する。やがて彼は安土の信長に出馬と援軍を要請。さらに高松城を水攻めにすることを決めた。
そして秀吉は5月8日の着工からわずか12日間で堅固な堤防を完成させると、足守川の水を引き込んだ。さらにそこへ梅雨の長雨も降り注ぐ。
5月21日、毛利方の吉川元春・小早川隆景を先陣とする援軍4万が高松城の約3キロまで前進してきたが、すでに高松城は湖上に浮かぶ島と化していた。
毛利方は目の前に広がる湖を前に為す術がなかった。いずれ信長の大援軍が到着することも容易に想像できた。彼らは秀吉との講和を決意する。
堤防に設置された見張り場に立ち、秀吉は思う。
(上様が到着するまでに講和が整えばよし。交渉決裂なら上様指揮のもと力でねじ伏せればよい)
戦況は圧倒的に織田方が優勢だった。だからこそ秀吉の講和の条件は、中国5ヵ国割譲と城将・清水宗治の切腹という強気なものだったのだ。
当然、毛利方は5ヵ国割譲など認めるわけにはいかない。また宗治を見捨て、切腹させたとあっては士気にもかかわる。
両者の交渉は難航し、膠着状態に陥った。
そこへ本能寺の変の急報がもたらされる。6月3日未明のことだ。
秀吉は慟哭した。彼にとって信長は父親以上の存在だ。いくつもの思い出が脳裏を去来する。
そして本能寺の変の一報は、秀吉に絶望的な現実を突きつけた。
秀吉が率いていた中国方面軍は新旧入り混じった混成軍団だった。それこそ中国征伐の過程で官兵衛の調略により織田方についた諸将もいれば、つい先頃まで毛利方に与した宇喜多家の大部隊もいた。信長の死を知った彼らが秀吉の首級を手土産に、毛利方へ‶返り忠〟を目論んだとしてもおかしくはない。
信長がいなくなってみれば、織田家の中国方面軍は、まったく一枚岩ではなかった。
四面楚歌――秀吉と官兵衛は、絶望を一気に希望に転換する〝起死回生の一策〟を模索する。
(急ぎ上様の敬畏の念に代わる、何かを創出せねばならぬ)
このとき中国方面軍には、新たなビジョンが必要だった。
そして官兵衛は秀吉に言う。
「殿、これで殿の御運が開けたのですぞ」
さらに官兵衛は信長の喪を伏せたうえで毛利方と和睦し、上方へ急反転すべきだと説いた。
「上様の遺志を継ぎ、殿が天下を平定し、乱世を終わらせるのです」
秀吉は、それまで主張してきた領土割譲の条件を緩和しつつ、「宗治が切腹すれば城兵の命は助ける」との条件を提示した。それを聞いた宗治は自らの意思で自刃を決意する。
「やるしかない」
「毛利は、まだ上様の死を知らぬ」
6月4日、湖上に浮かぶ小舟の上で自害した清水宗治を見て、秀吉は確信する。
そして官兵衛は中国方面軍の将兵に告げる。
「これより上様の仇・明智光秀を討つ。光秀を討てば、天下は羽柴さまのものになる。わかるな?」
もし、秀吉が天下人になれば、ここで彼に従った将兵にはそれぞれ輝かしい出世栄達が待っている。
(これほどの好機、一生に一度、あるかないか……)
「やるしかない」
中国方面軍の将兵は、梅雨どきの山陽道をわれ先にと怒涛の勢いで駆け抜けた。このとき彼らを突き動かした原動力は〝欲〟だ。
しかも、この〝欲〟には「上様の仇討ち」という大義名分があった。
秀吉と官兵衛は、途中、将兵に休息をとらせつつ、畿内の情勢や光秀の動向を探る。そして6月11日には尼崎に到着して光秀を驚かせる。中国方面軍のなかに毛利家の旗が混じっていたからだ。この旗は高松城を発つおり、官兵衛が小早川隆景から借り受けたものだった。
光秀は相当応えたはずだ。協力して挟撃しようとした毛利家が秀吉とともに攻めてきたのだから・・・。
6月13日、秀吉は摂津と山城の国境にあたる山崎の地で光秀と激突した。そしてこの天王山を制した彼は、そのまま勢い持続させ、翌天正13年4月、織田家筆頭だった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで撃破。秀吉はは天下人への切符を手に入れる。
突然、自社の命運を左右する状況が訪れたとき、〝起死回生の一策〟を打ち出す人材はいるか?
秀吉の傍らには、官兵衛がいた。(了)
※この記事は2018年9月に【日経ビジネスオンラインSpecial】に寄稿したものを【note】用に加筆・修正したものです。
【イラスト】:月岡エイタ
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