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授業でも何でも、僕は「早送りされない時間」を過ごしていたい。

オンライン元年、ZOOM元年とでも言われそうな2020年が終わりました。

自分もオンラインやらZOOMやらYouTube配信のお陰で、新しいチャレンジや、新しい仕事にも出逢えました。

その中で感じるのが、タイトルのこと。10分でも45分でも、ちゃんとその分の意味がある時間を過ごしたいと思っている。自分が提供する側なら、そういう時間にしたいと思っている。

そういう感じ方が、ハッキリと強くなってきています。いったい僕は、早送りされないものを手渡せているだろうか?


気付けば早送りか、ながら聞きばかり

ZOOMを使って、つまりその場に同席していても、こちらへの声かけが無かったりチャットが拾われなかったりする講座を見たことがあります。

画面も音も綺麗で、移動シーンとかは編集済みで、滅多に行けない場所と繋いでくれる。

でも僕は個人的には、「これならZOOMじゃなくてもいいよなあ」「これならリアルタイムで時間を使わなくてもいいよなあ」と感じたのでした。

ZOOMだけれど、テレビかYouTubeみたい。それはそれで、受け身で見ていられるよさもある。けれど。

だったら早送りか、料理でもしながら見たいよって。

この感覚、僕の中でどんどん強くなってきています。自分が今そこにいる意味を感じられないのなら、そこにいっしょに居たくはないよ、どうしてもその情報を受け取らないといけないのなら、早送りorながら聞きにしたいよって。


情報を受け取るだけなら、とにかく効率的にしたい

リモートワークで移動費と移動時間がかからなくなったことで、人と会うことが「わざわざ」「あえて」になりました。

何においても「わざわざこれをしないといけないのか?それならせめて効率的に行いたい」という思いが出てきます。

直接会うこと、ZOOMで話すことは、「目」も「耳」も「身体」も必要とする。

文書だったら「目」だけでよいし速読できるし、「耳」なら作業しながら聞けるし、動画は「目」と「耳」の両方が必要でも早送りできるし。

スキマ時間の使い方への提案として、これから、「ながら聞きされる」「流し見される」「早送りされる」用に特化したコンテンツもどんどん出てくるのでしょう。

でも従来のような聞くことがメインの研修なら、もうわざわざ足を運ぶのは嫌だし、できれば文字でさっと読みたい、またはながら聞きにしたい、動画なら早送りで済ませたい。完成品だけさくっと受け取りたい。

早送りをせずに僕らが味わうものって何が残るのでしょう。お笑い、音楽、映画やドラマ…?

ここに大事なカギがあるように思うのです。なぜそれらは早送りされないのか。

情報を受け取るだけ、ではなく、「リアルタイムで今そこにいる意味」「結果だけでなく過程をともにする意味」を僕らが感じるのは、どんな時なのか。


様々に感情が動くこと、過程に参加できること、あなたの一言で結果が変わること

完璧な授業や完璧なテレビ番組なら、相手を「お客さん」にしてしまう。もちろん「お客さん」の気楽さもあるのですが、情報を受け取るだけなら僕は早送り。

でも例えばお笑いや映画って、完璧に作られているのに早送りしない。

それは「笑い」があって、時に「なるほど」があって、感情が様々に動く。だから「次は?」と思うのかもしれない。人間は、感情が動く・動かされることを好む生き物なのかもしれない。

例えば授業は「面白いinteresting」を目指しがちだけれど、どんなに豆知識がふんだんでも「興味」だけで相手の関心をホールドし続けるのって難しい。

バラエティー番組とか(テレビが無いからほとんど見ないけれど)、まさにバラエティーの名の通り、たくさんの感情をその中に用意している。

受け身でも感情がころころ動けば参加していられる。感情が動く=その時間に意味はある。と言えるのだろうな。

あとはやっぱり、過程に参加できる、自分の発した一言で結果が変わる、ということが最強なのだと思う。小説なども想像することで過程に参加していると言えるのかもしれない。よいエンタメとは、その世界に没頭させてくれるもの。

過程に参加できて、自分の言葉で変わる(内容分岐がある)。これ以上に「自分の存在」を感じさせてくれるものって無いのではないか。大きなことじゃなくていいから、自分が世界に影響を与えられる感覚。これが生きる自信なのかもしれない。

オンライン修学旅行は改めて、そういう場だったのだと思う。「オンライン」と名前が付いてZOOMを使っていれば、今はどれも同じように見えてしまうけれど、本質はこの「あなたの声を受け取って変化しますよ」ということにある。

これこそが必要だとずっと思っていた。クラス全体を見ざるをえなくて、学習進度にも追われて、担任しながらだと出来ないと思ってしまったけれど。

正規の教員を離れたタイミングでその手掛かりに出逢えるとは、面白いものです。


もし動画になったら早送りされるような授業を僕はしていないだろうか?

小学校の授業で45分。あるいはイベントなどで僕が担当する20分。

仮にそれが動画配信なら、早送りされないだろうか。ながら聞きされないだろうか。僕は「45分」の意味を作れているだろうか。
(この記事も、文字数だけの意味を生めているだろうか)

教科書に書いてある、まとめだけ読めば足りる、何を言っても予定調和的に結論が決まっている、言われた通りにやるだけ、楽しくない、面白くない…

それなら結果だけ早く知ってさっさと終わりにしたい。そりゃそう思うよなあ。

授業をしている自分が自分で早送りしたくなる授業すら、たくさんあるような気がします。時間をともにしているのに、ともにしている意味がない。

でも映画とか、音楽とか、あとは例えばキャンプで火を囲んで誰かと話す時間とか、アラームより早く目が覚めてコーヒーを両手で抱えて窓の外を見る時間とか、心が伴っている時間を、僕は絶対に早送りしない。

授業でも、講座でも、オフラインでも、オンラインでも、一人の時間も、誰かとの時間も、そんな風に過ごしていたい。

「あなたも僕も今ここに一緒にいるから生まれるもの」が生まれるようにすることは、やっぱり僕の信念だなあと思うのです。

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