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言葉や文化を楽しむには「何それ?」と大袈裟に喚く前に身につけておくべきものが必要で、ソイツの名前が教養。その言葉や文化を受け容れ共有できるまでチューニング出来るかのベースが重視されるところまで整備するのが最低限の「心技体を整える」。〜橋本治な覚書(4)。

さて6月のうちにニ回分を脱稿する短期集中連載じゃないと
意味がない。「銀英伝参り」はもうすぐだし(今年のサブテーマは決めた。「1ディナールの価値もありません」で行こうかと)。


言葉や文化を楽しむには「何それ?」と大袈裟に喚く前に
身につけておくべきものが必要で、ソイツの名前が教養。
その言葉や文化を受け容れ共有できるまでチューニング出来るかの
ベースが重視されるところまで整備するのが最低限の
「心技体を整える」なんだけどね。
(無教養で井の中の蛙もんほどつまらなく喚いてつまらない質問で終わらせようとするから。これがイメージできるから磯野貴理子とか青木さやかを記憶のデータの底からに排除したくなるのはまたそれはそれで自明の理だし)

共有できる文化基盤―即ち“教養“のことである―これがない
限り、駄ジャレという遊びは成立しないからである。

橋本治『デビッド100コラム』
[88=デビッドマッカラムを知っているか?]
(河出文庫版,1991.03)p266

 逆に文体は個性が出やすいので、そうした「個性」を
一時的に剥ぎ取るために使えるのも本来のワープロこと、
ワードプロセッサの使い道ではある。

 私が(『花物語』という掌編小説集で)ワープロを使っていた理由は、
自分の文章から「自分の体臭」やら「個性」やらを放逐するためです。
その初め『桃尻語訳枕草子』のデジタル翻訳を計画したのも、根本に
おいてはそのためです。

橋本治『橋本治という生き方』
(朝日新聞社,2005.06,914.6/ハ)p44


で、結局それはひいては本来ある言葉をちゃんと活かすか、
無視して殺すか、といふ文化的な資質の問題と取捨選択、
って話には当然なるのである。

 我々はそのものを消滅させてしまったのてはなく、そのもの
をさし示す言葉を消滅させてしまったのである。
 そのものは存在しても、それをさし示す言葉が存在しなければ、
そのものは存在出来なくなってしまう。

橋本治編著『アルク日本語ブックス3 消えた言葉』
(アルク,1990)p7.はじめに


まあ幾度も語ってますが、本質的な「バブル脳の後遺症」の
一端になりがちな「ワンみずほ」にはなりたかない、が行動
の根底にあるしなるのが「臥薪嘗胆」してきた私の世代にある
基本的な理念です。

大概人は「3年2ヶ月の過酷な一人旅」なユニコーンの「大迷惑」
のテーゼに耐えられない。~カネカ騒動とその後の「真景カネカヶ淵」
なカネカに基づく「大迷惑」。|torov

そういった時に文壇にまともに上がらせてもらえず無冠の
時期を長く過ごした橋本治の言葉が非常に力にもなるし、
今でも効き目が高いわけで。


 その目の前にあったのが森茉莉主義や「次郎長三国志」
や「北京原人」や熱湯風呂、といった前時代的に共有できる
文化基盤を兼用すらさせられない心と態度でしか生きてない
人達の「因循姑息の音がする人々」で教養もお遊びもそこ
にはありえなかったのが何よりもの不幸だったわけですが。

「そんな話は聞いたことがない」だけで団塊ジュニア世代の人の多さを
捌けず未来の支持層を振り落としてふんぞり返って勝手に消滅していった
落語家、銀行員、弁護士(このニコイチで寓話が急速に陳腐化したと
例に上がるのはいつものことだが「一杯のかけそば」)、そしてバブル脳で
突き抜けたいつまでも病人の証であるシケモクタバコから離れなれなかった
「働いていることで全く尊敬はおろか可視化すらされないグラムミテクレナンボな人達」に「興味はありませんので」とオルタナティブな道を行った
人の言葉にやはり「ぬくもりという名の獣道」があるなと。


 私の中にアカデミックな要素があるのは
(中略)
名残で、「どういうわけか、知りたいことはある」というのも、その時の名残りです。私の「よくわかんないけど、これだけクリアしとかないと、自分としても困るな」というフィールドワークは、そこからスタートします。

『TALK 橋本治対談集』
(ランダムハウス講談社,2010.01,910.2/ハ)p006.まえがき

 他人まかせの末になにか問題が発生してしまったら、「一体その問題は
ここから発生したのか?」のフィードバックが出来なくなる。

橋本治『橋本治という生き方』
(朝日新聞社,2005.06,914.6/ハ)p192

それで「全然別の方向に行く努力」を開始してしまった。
目指すポジションはムラ社会の外の流浪芸人である。「そんな話は聞いた
ことがない」だけで、論理的整合性を問題にしてもらえないところに
いたってしょうがない。
 それがすべてである。

橋本治『橋本治という生き方』
(朝日新聞社,2005.06,914.6/ハ)p138-139

「行くところまで行く」というのは体力がいることだから、
「行くところまで行く」ぐらいのことをしてしまうと、思考のピントが
合わなくなる。合わないところを合わそうとして、「あ、そうなんだ」の
一言に凝縮出来てしまえば、それがきっと「行くところまで行った」に
なるんだろうと、そんな風に考える。

橋本治『橋本治という生き方』
(朝日新聞社,2005.06,914.6/ハ)p230

それが「旅の準備」をして行き着いた上で、共有体験が出来ていると一言「アレね」「あそこね」で済ませることが出来る代物になる、ってヤツ
なのかもね。


言葉や文化を楽しむには「何それ?」と大袈裟に喚く前に
身につけておくべきものが必要で、ソイツの名前が教養、
といふことで橋本治な覚書(4)をお送りしました。







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