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5月19日 ドラえもん映画を5作品見終えて

 楽しかった。

 やっぱり『ドラえもん』はいいものだな……と改めて認識した。
 冒険物語はどんなキャラクターが、どんな葛藤を抱いて、どんな異世界を旅するのか、が重要になってくる。そこまで物語を構築したり、キャラクターを移動させるのは大変だけど、『ドラえもん』は秘密道具の力でさっと物語作法上の問題を解決してしまう。私たちがのび太たちキャラクターをよく知っているということも大きい。物語の前提となる世界観構築の問題をさっとショートカットし、秘密道具の力でパッと異世界へ旅立ってしまう。この旅立ちの下りが、毎回15分以内で開始する。このスムーズな展開がいい。
 時にタイムマシンで、時にどこでもドアで、冒険がしたいと思った直後、ただちにそれが始まってしまう。登場人物の葛藤など特に掘り下げないまま、そういうのは「後回しだ」と言わんばかりに。とりあえず……というノリの軽さでありとあらゆる異世界へ旅立ってしまう。
 旅の途中には、普通は様々な困難があり、それによる「停滞」があるはずだが、それも秘密道具の力でさっとスキップしてしまう。タケコプターがあれば距離的な問題や、踏破困難な地形があってもスキップできてしまう。
 『のび太の日本誕生』では種を植えたらただちに実る作物が登場していたが、常にあれくらいのノリだ。植えたらただちに実る。冒険に出たいと思ったらただちに冒険に出る。冒険旅行に付きものの、長い移動の道のりも、困難な強敵も、みんな秘密道具が解決される。
 このような作り方だから、冒険の退屈な部分がパッとカットされて、もっとも楽しく、ダイナミックな瞬間だけが次々と迫る作りになっている。そんな作り方だから楽しくて当然。冒険物語の楽しいところだけを抽出して凝縮したような作りになる。

 ただ、簡単に物語が運ぶがゆえに、失敗も多い。登場人物の葛藤が掘り下げられなかったり、物語の全体でそれが解消される展開になっていなかったり(『のび太の南極カチコチ大冒険』)、物語の途中でテーマそのものが変わっていた例もある(『のび太の宝島』)。
 物語の描き方も、ただただ通俗的な異世界をただ被せただけ……というものにもなりやすい(『のび太の宝島』『のび太の宇宙探索記』)。『ドラえもん』ならではの個性、独自性にはなかなか巡り会えない。『のび太の日本誕生』や『のび太のパラレル西遊記』を見るとわかるが、藤子不二雄はきちんと考証という下地を作った上で、ファンタジーを展開させている。のび太たちがただ異世界へ行った……というだけではなく、『ドラえもん』独自の「驚き」を提供している。『のび太の新恐竜』でようやく藤子不二雄の手法に辿り着いた感じがあり、巨匠への挑戦がいかに難しいかがわかってくる。
 『のび太の南極カチコチ大冒険』のようにラブクラフトを下敷きにして、尖った世界観を作り上げるという手法も、アレはアレでなかなか楽しかったが。

 今回視聴したのは「新シリーズドラえもん」のほう。『新・のび太の日本誕生』を除けばほとんどがオリジナル作品。藤子不二雄が一切関わらない作品群である。
 こうして何本かざっと見てみると、作品構築に苦労している跡が見て取れる。『のび太の宝島』はそもそも海賊の考証が甘い上に、途中から物語のテーマが別方向へ行ってしまうし、『のび太の宇宙探索記』はありきたりなただのSFアニメ。何人ものプロデューサーや脚本家や映画監督が知恵をひねり出しても、なかなか藤子不二雄が描き出したような独創とワクワク感には行き当たらない。
 そう考えると、藤子不二雄がいかにストーリーテラーとして長けていたか……。巨匠の背中はそうそう見えてこない。

 それでも、それぞれで何かやろう、新しいことを見出そう……という試みは毎回感じられた。『のび太の南極カチコチ大冒険』では個性的な世界観が作られたのだが……私が注目したのは、それぞれのキャラクター達の動き。特にドラえもん。目を細めたり、髭を風に晒したり。今回見た5作品の中では、『のび太の南極カチコチ大冒険』のドラえもんが一番可愛かった。
 そうそう、『のび太の南極カチコチ大冒険』はしずかちゃんやカーラといったヒロインも可愛かった。特にカーラの洗練されたデザインは、藤子不二雄のキャラクターでは絶対にあり得ない。現代の描き手の意地を感じた。
 『のび太の南極カチコチ大冒険』はメカのデザインもよかったなぁ……。あんな高密度なディテールはシリーズ全体を通してもなかった描写。『ドラえもん』じゃない別作品を見たという感じもあった。監督や脚本家は毎回変わるのだから、あれくらいの角があったっていいでしょう。監督が毎回変わる『エイリアン』や『ミッション・インポッシブル』のように。『のび太の南極カチコチ大冒険』は保守的な『ドラえもん』のイメージを壊してやろう、新しいものを作ってやろうという意思が感じられて良かった。そこでラブクラフトをぶつけてくる……というのも一つの挑戦だ。もともと『ドラえもん大長編』は色んなものを引っ張ってきて「ドラえもん化」するということをやってきたので、ラブクラフトを持ってくるというのもドラえもんのセオリーだ。
(ラブクラフトをぶつけてくる……というのは現在のハリウッド『ゴジラ』でもやっていること。同じ手法に行き着いているのが面白い)
 のび太が可愛かったのは『のび太の新恐竜』。恐竜の卵を見付けて、「ドラえも~ん」と駆けていくあのはつらつとした姿。まだまだ可愛い小学生の少年だということを再認識させる。メガネを外した時の、女の子のような顔もまたいい。のび太は実は美少年だった。あんな「少年」としての自意識が曖昧な彼だからこそ、体を張って最終的に何かを成そう、という瞬間に感動が宿る。
 『のび太の新恐竜』といえば、藤子不二雄考案の秘密道具をほぼ使わなかったこと。いつまでも親(藤子不二雄)に甘えず、自分たちの『ドラえもん』を作るんだ、という意思の表れで良かった(【桃太郎印のきびだんご】をわざと「品切れ」状態にさせたり……。あれも「使わないぞ」という意思を感じるところ)。
 『のび太の新恐竜』は巨匠の背中を追いかけ続けて、ようやく見えてきたな、と感じさせる一本だった。

 私はやはり冒険物語が好きなのだけれど、その原典を辿ると、出てくるのは『ドラえもん大長編』。私自身を構築する原典はなんだったかな……とか普段考えないけれど、『ドラえもん大長編』を見ると、「ああ、そうだった」と我に返るような気がする。私が好きだったものの原点に戻る機会になっていて良かった。

 が、藤子不二雄はずっと子供向けの物語を作った作家だった。だから軽く見られやすい。
 例えば宮崎駿もいまだに「子供向けの映画を作っている人」ということで、映画評論家達からは低く見なされている。『風立ちぬ』が公開された時、小さな子供を連れて観に行ったのに、肝心の子供はぜんぜん集中して観ない。それどころか『風立ちぬ』にはラブロマンスも描かれる。なんだこの映画は……というような批評が、当時たくさんあった。「宮崎駿=子供映画の人」という感覚の人がまだ多数派で、宮崎駿の映画だから、とりあえず子供を連れて観に行こう、でも子供が集中しないから「ダメな映画」……そういう見方をする批評家が多いことに驚いた。『風立ちぬ』が子供映画ではないことくらい、大人であればすぐにわかるだろうに……。
(宮崎駿次回作でも、『風立ちぬ』の失敗を繰り返すであろう。「小さい子供を連れて行ったのに、子供が集中して観ない。だから今回の作品は失敗作だ」という評論家達が一杯出てくるだろう)
 藤子不二雄作品も、子供向け作品だから軽く見なされやすい。軽く扱われやすい。しかし、新シリーズに入って、現代の作家が一生懸命その後継を作ろうとするが、なかなかうまくいかない。制作に参加した人達は、みんなそれなりの実力や実績を持った人達だ。それでもうまくいかない。それくらいに、藤子不二雄が描き出したものは奥行きがあった……ということだ。藤子不二雄のような作品は、そうそう描けるようなものじゃないんだ。

 しかし世間はそのように見てくれない。子供映画は、子供も見るし、その親も見る。普通の映画よりも何倍も稼ぎやすい。深夜アニメ発の劇場版よりもよほど稼げる。稼ぎやすいフランチャイズ映画だから、一周回って「稼がなければならない」という使命を課せられている。
 そこで、有名というだけで下手クソな俳優が重要キャラクターを割り当てられたりする。実写俳優とアニメ声優は畑が違う。演技の構築方法が全く違う。実写と同じ論法でアニメをやると、下手に聞こえてしまう。……日本の俳優の場合、本当に下手クソな人は一杯いるんだけど。それが重要なシーンに入ってくると、シーン全体が台無しになる。『のび太の新恐竜』ではシーンが盛り上がる度に渡辺直美の下手すぎる演技のせいで、気分が冷める。タイムパトロールのジルは、恐竜博士に続いて小野大輔さんに演じてもらうべきだった(そうしたほうが2人のキャラの繋がりが強まる)。
 ああいった「タレント声優」は普通に声優と呼ばれる人達よりもギャラは圧倒的に高い。というのも、出演料が「広告費」から賄われるからだ。有名人が呼ばれるのは「実力」ではなく「広告になるから」なのである。
 どうせ幟旗にしかならないのだったら、地味にモブキャラでもやっていてくれたらいいのに……。一般の人は、声優が誰かとか以前に、そもそも「声優ってなに?」という世界だから、モブやガヤだけでも「出ている」という事実さえあれば満足するでしょう。人寄せパンダは身の丈を理解してほしいものだ。
 ああいった素人同然のタレント声優を使わなくてはならないのは、『ドラえもん』という作品が舐められているから。「作品」というより、「フランチャイズ商品」としての性格のほうが強い。作品である以上に、「興行的に失敗してはならない」という宿命を背負ってしまっている。
 ああいったタレントを起用する以外に、広告を展開する方法を見いだせない……というのもアニメ映画の抱える課題もあるのだけど。

 藤子不二雄を甘く見ちゃいかんのである。
 でも作り手は藤子不二雄の偉大さがよくわかっている。失敗を積み重ねつつも、いかにして『ドラえもん』というコンテンツを刷新できるか。その挑戦の後が一作一作に見て取れてよかったし、『のび太の新恐竜』に向けて極まっていく過程も見ることができた。ドラえもんの子供世代は成長しているのだ。
 ドラえもんの子供たちがこの後、どのように成長していくのか……それを見ていくのもきっと楽しいだろう。

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