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8月4日 80年代への愛と逆襲のドラマ 『ストレンジャーシングス』

 Netflixオリジナルドラマ『ストレンジャーシングス』を第1シーズンから第4シーズンまでまとめて視聴! 一ヶ月くらい時間をかけて、ゆっくり見ていたから、最初のほうはもうあまり憶えてないのだけど……。

 第1シーズンのお話は1983年。舞台はインディアナ州の田舎。マイクを中心とする、ダスティン、ルーカス、ウィルという4人の少年達が主人公。ある夜、ウィルが家に戻らず、そのまま行方不明になってしまう。それと入れ替わるように、街にイレブンと名乗る謎の少女が出没するようになり……。
 ウィルが行方不明になったが、警察はアテにならない。少年達は自分たちでウィルの捜索を始める。その一方、マイクはイレブンと知り合い、恋を育むのであった……。

 というお話が第1シーズン。主人公達は12歳の少年達。ウィルの捜索を続けていく最中、小さな田舎町には怪しげな研究所があるらしいことに気付き、その研究所から脱走したらしいモンスターが人を襲うという噂が囁かれ、そんなゾクゾクするような不気味さが描かれる一方、超能力少女イレブン=エルとの初々しい恋が描かれる。
 少年の冒険譚、モンスター映画的なゾクゾク感、それに恋物語のドキドキと、色んな要素が合成された作品だ。

 そんなドラマのクレジットを見ると、一番に出てくるのはウィノラ・ライダー。え、ウィノラ・ライダーが出てるの……行方不明になるウィルの母親役? え、ウィノラ・ライダーってもう50歳!? そうだったのか……ずっとティム・バートンの初期作品に出ていた女の子のイメージだった。もうそんな年になっていたのか。

 私が4人の子供たちの中で一番好きなのはダスティン・ヘンダーソン。第1シリーズの頃はまだ歯も生えそろってなかった。可愛いでしょ、この子。笑った顔がなんともいえない。ヒロインよりこの子のほうが可愛い。
 演じるのはゲイテン・マタラッツォ。

 主人公はこっち。マイク。第1期の頃は「カエル顔」とクラスメイトにバカにされていたが、第4期になるとすっかりイケメン。演じるのはフィン・ウォルフハード。

 ヒロインのイレブンことエル。謎の超能力少女。マイクと出会い、恋仲になっていく。
 シリーズ全体を通してのツッコミだけど……髪型がひどい。もっと似合う髪型にしてあげればいいのに……。
 第4シーズンになると、なんと巨乳になる! 第4シーズン後半、上着を脱いだら思いがけない巨乳が出てきて、ビックリした。たった4年ほどの間で育つもんだなぁ……。シーズン1の頃はオッパイの気配もなかったのに……。
 演じるのはミリー・ボビー・ブラウン。

 超能力少女の元ネタって、どうやら『AKIRA』らしい(そういえば『AKIRA』も82年生まれだ)。そう言われて見れば、シーズン4に出てくる、超能力を持った子供たちが集まっている部屋の光景なんて、まるっきり『AKIRA』だ。
 話を遡ること1960年代頃、この頃は「ドラッグカルチャー」隆盛の時代で、色んな科学者や文化人、アーティストがLSDやマリファナをやっていた。この頃は麻薬の危険性よりも、LSDによって新しい能力が覚醒する……というほうに注目されていた。この時代のアーティストの多くはLSDをキメて、そこで見たイメージを作品にしていた。いわゆるサイケデリックアートの時代だ。先日ブログで紹介した『デューン』もそういった作品の一つ。
 こうしたドラッグの効能に政府が目を付けて、被験者を文字通りのシャブ漬けにして、超能力に目覚めさせ、サイキック・ソルジャーを作ろう……という研究がアメリカとソ連が競い合うようにやっていた。……というのが当時アメリカにあった都市伝説。本当にあったかどうかはわからない。
 エルはそういった薬漬けにされた親から生まれた子供で、親は超能力に目覚めることはなく廃人になってしまったが、その子供たちは見事超能力に目覚めた(エルの母親が廃人になったのは、その後、拷問にあった結果だが)。こうした超能力に目覚めた少年少女達がホーキンスの研究所に集められていた……というのがこの物語の始まり。

 もう一人のお気に入りキャラクターはホッパー。ホーキンス警察の署長を務める。最初、事件が起きても田舎警察にありがちなこととして、ホーキンス警察の人々はのらりくらりとしているが、ホッパーだけはウィル家に入り、ショットガンがなくなっていることに気付いて、すぐに「事件だ!」と気付き調査を始める。それでいち早くホーキンスの森の中に立てられた怪しい研究所が事件に関与していることに気付く。
 頼りがいある父性的存在。ホッパー署長パートは毎回「探偵パート」としてお話が進んで行く。
 演じるのはデヴィッド・ハーバー。こういう顔のおじさん大好き。

 この人も紹介しておきましょう。主人公マイクのお姉さん、ナンシー。第1シーズンの頃はスティーブンと恋をしていて、マイクの恋と対象になっていた。
 80年代をベースにしているので、おじさんもおばさんもタバコを吸ってその辺にポイ捨て、高校生はビールの一気飲みして、酔っ払ったまま車を運転している。今の時代ならまるごとアウトな話だけど、これが80年代の世相。「コンプライアンスが~」とかいって端折らず、高校生のビール一気飲みを描いてくれたのはいいところ。
 ナンシーの友人、バーバラも同じく行方不明になり、ナンシーは自分で調査を始める。これでマイク/ホッパー署長/ナンシーと3つのストーリーラインが常に動くという構造になる。この3つのストーリーラインが同時に動く……という構造は第4シーズンまでずっと継承される構造になっている。

 ミステリー、モンスター、少年少女の恋愛物……と色んな要素が合成されているけれど、前面に出てきているのは80年代文化。主人公達マイクは学校の中ではいまいちパッとしない、カースト最下位の少年グループだ。勉強できるわけでも運動できるわけでも面白いことが言えるわけでもない。クラスのみんなから無視されるか、あるいはジャイアン的な悪ガキにイジメに遭うかどちらかだった。いわゆる「ルーザーズ」たちだ。
 現実で自己実現を達成できない少年達によくあることとして、空想遊びに夢中になっていく。80年代という時代は、そういう空想遊びを助けてくれる文化が一斉に花開こうとしている時期でもあった。マイク達は毎日のように『D&D』に夢中になっていたし、この頃の少年達にとって『スターウォーズ』は欠かせない。いつも少年達が集まるマイク家の地下には『遊星からの物体X』のポスターが貼ってあるし、他にも『ジョーズ』『ダーククリスタル』といった80年代名作映画のポスターがあちこちに登場する。作品はわからないが、トム・クルーズのポスターも出てくる(今と姿が変わってない!!)。シーズン2では「いったい何が始まるんだ」「審判の日だ」という台詞があるが、もちろん元ネタは『ターミネーター』。同じくシーズン2では、マイク達は『ゴーストバスターズ』のコスプレをやったりする。
 どこを見ても80年代エンタメだらけ。いやぁ、こんな作品……おじさんは好きになるに決まってるじゃん。おじさんの青春時代の話じゃん。おじさん世代が好きだった作品がまるごと登場してくる。これ、おじさん世代ほどドツボにはまる作品だ。若い人はどう思うかわからないけど……。

 作品の中身が80年代づくしであるなら、“作品の外”も80年代。↑のポスターグラフィックを見てほしいのだけど、これ80年代を過ごした人ならわかるでしょ。あーあったなぁ、こういうの……ってなるでしょ。こういうイラストベースの映画ポスター、80年代頃はたくさんあった。このグラフィックだけでもおじさんはたまらなくなる。

 面白いのがDVDパッケージ。おや、あちこち擦り切れだらけじゃないか……これ、全部デザイン。すり減ったイメージをリアルに作ってある。背景の月のところにたぶんSALE時の鉛筆書きが残っているのだけど、これも印刷。そういうデザインとして作ってある。
 どこかのビデオ屋でひっそり売られているものを、誰かが発見してきた……そんな雰囲気として作ってある。

 雰囲気たっぷりの外箱を外すと、中から出てきたのはなんとVHSビデオテープ……ではなく、ビデオテープふうに作ったDVDケース。このDVDケースを開くと、やっとDVDが出てくる……という仕掛けになっている。
 いやぁ、もうおじさんは好きになるでしょ、これ。好きにならないおじさんはどうかしているよ。

 80年代という時代は映像エンタメやホビーの世界では特別であり特殊な時代で、この頃に名作映画、名作アニメ、名作ゲームが山ほど生まれて、今でもそのシリーズ作品がたくさん作られてあるというくらい。映像エンタメやホビーがある種の到達点を迎えたというのが80年代。『レディ・プレイヤー1』でも80年代から90年代カルチャーが山ほど出てきたから、この時代の特別感はわかってくるだろう。逆に70年代生まれの名作はほとんどない(もちろん70年代生まれの名作で、今でもシリーズが作られる強いコンテンツは存在する。1977年『スターウォーズ』や1979年『ガンダム』といった作品がそれ)。80年代以降が映像エンタメ文化史的にも一つのターニングポイントであった。
 そういう時代の気風を、まともに受けて夢中になっているのが本作の主人公達であり、監督ダファー兄弟の少年時代。ダファー監督は自分たちの少年期の思い出を、愛情たっぷりに、自分たちを育んできたコンテンツ達に感謝を告げるように描いている。
 しかし、実は描かれているもの全てが「美しい思い出」ばかりではなく、そこにどうにもならない歪みもあって……。
 それは後ほど語ろう。

 シーズン1では行方不明のウィルを中心に、マイク、ホッパー、ナンシーの3組がそれぞれで真相究明に挑む……という内容で、シーズン2はウィルは無事に戻ってきたが、以降もまだ謎の幻覚に悩まされるのだった。「裏世界」ことアンダーワールドはいまだホーキンスの裏側にあって、怪物達が少年達を狙っているのだった……。
 しかし実はシーズン2はあまり面白くない。といっても、全体を通して見るとやや見劣りする……というくらいで、「致命的につまらない」というものではない。
 面白くない理由は、全員が何かしらの失敗を犯し、その失敗を引きずっていくという内容だからだ。ダスティン・ヘンダーソンはアンダーワールドの生き物と気付かず、化け物を育ててしまう。エルは自分の母親の行方を追って、自分と同じ超能力者であるエイトと邂逅する。しかしこのエイトが物語全体に対してほとんど意義を果たしておらず、その後も一切登場しなくなって、いったいなんだったんだろう……と妙な引っ掛かりを残す。転校生としてマックスという女の子がやってきて、これが可愛い子なんだけど、シーズン2においてはあまり目立った役割を発揮していない。子供だったマイク達が思春期に入りかけであることを示すキャラクターなのだけど、シーズン2の頃のマックスは目立った活躍を見せない。
 お話の全体がマイナスに向かうばかりで、なかなか前に進まない。マインド・フレイヤーそっちのけでいいの? という感じ。

 シーズン3は元の面白さが復活する。ショッピングモールを中心舞台にして、裏世界を巡るミステリーが展開されていく。
 ショッピングモール! 『ワンダーウーマン1984』という映画もあるし、アメリカ中にショッピングモールが建造されたのって、この頃だったのかな?(シーズン3は1985年の設定) 田舎町ホーキンスにショッピングモールが作られて、若者達はみんなここに集まってくる。ここで買い物して、ゲームをやって、食べ物を食べて、映画を観て……。ここに来ればなんだって手に入ってしまう。消費者文化がショッピングモールを中心に変革していく姿が描かれている。
 シーズン2まではちょっと嫌なやつだったナンシーの元彼であるスティーブンも、シーズン3ではダスティンといいコンビニなり、マイク達を裏からこっそり映画館に入れてくれたりする(まあ、普通に犯罪ですけど)。その映画館のシーン、『バック・トゥ・ザ・フィーチャー』が出てくるので「おっ!」と思うが、マイク達はそこを素通りしてホラー映画を観てしまう。まあ、この頃は『バック・トゥ・ザ・フィーチャー』もたくさんある映画の一つで、まだ名作だと言われていなかった。シーズン3の後半で、改めて『バック・トゥ・ザ・フィーチャー』を見る場面が出てくるのだけど、日本語吹き替えにするとドク役がなんと青野武! もう、おじさんたまんなくなっちゃうよ……。
 若者達がショッピングモールで夢中になっている一方、ホーキンスに古くからある商店街は人が寄りつかなくなり、寂れていく一方だった。これは日本でもジャスコなどの大型店進出によって地元の商店街が閉鎖していったという経緯があるので、わりと似たような社会状況になっている。
 商店街の大人達は市長に対して抗議をするほどの騒ぎになっているのだけど、街そのものは問題の深刻さを自覚しておらず。地元の新聞社に就職したナンシーは、先輩達に「商店街の現状について記事にしたらどうですか」と提案するのだけど、先輩達は失笑するだけだった。ショッピングモールによって社会観が変わってしまい、分断も作り出しているのだけど、それもまだ誰も自覚していない時代だった。
 お前ら、20年後にはAmazonが来て、今度はショッピングモールが閉鎖するんだぞ。でもこの頃はそういう変化の何が問題なのか、誰も気付いていなかった。

 今のところ最新作である『シーズン4』。ホーキンスに不気味で超常的な殺人事件が発生し、これを切っ掛けに街が大混乱に陥る。舞台はホーキンスの街全体を巻き込み、政府、ソ連といろんな状況を巻き込んでいく。
 シーズン4はなかなか大変なことになっていて、毎エピソードが1時間越え、最終話は2時間越え。全トータルで10時間くらいになっていたかな。でも秀逸なのは、それだけの長さであるのに中だるみがまったくなく、身がしっかり詰まっていること。クオリティも非常に高く、長いドラマを観たという感じではなく、「10時間の映画を観た」という気分にさせてくれる。一つ一つのシーンが非常に手が込んでいて、よくできてるなぁ、よくもこんな長尺の映像作品を1年で作りきったなぁとただただ感心するばかり。映像制作の根本がかつての時代と比較しても変わったんだな……ということを感じさせてくれる。こんな作品を見てしまうと、逆に映画ってたったの2時間しかないんだ……とか考えるようになってしまう。
 シーズン4のポイントは『D&D』で遊んでいるだけのグループ「ヘルファイア」が悪魔崇拝の嫌疑を掛けられる。これは当時のアメリカで実際にあったことで、『D&D』のようなテーブルトークRPGは悪魔崇拝のカルト集団と見なされ、事件が起きるとなにかとやり玉に挙げられ、危険視されていた(実際には何も起きなかったのにも関わらず、だ)。ヘルファイアのリーダーの名前が「マンソン」だったりと、当時アメリカで起きていたとある事件を意識しているのがわかる。日本でも90年代になると、「少年犯罪の原因は主にテレビゲームである」と大学の先生が大真面目に語っていた……というのもあるので、わりと似たような社会観を歩んでいることがわかる。私はそういう時代をまともに体験しちゃったから、テレビの言うことと大学の先生が言うことは基本的には信用しないことにしている。(思えば、テレビが言うことは何もかも嘘ばっかりだったなぁ)
 一方でなんとエルがやっと普通に高校に通える日がやって来た。しかし高校で辛辣なイジメを受けるはめになり、そのイジメっ子をローラースケートでぶん殴るのだけど、なぜかエルのほうが悪い……みたいになっていく。
 これはアカデミー賞授賞式でクリス・ロックを殴ったウィル・スミスの事件と一緒だね。「笑われる奴は黙ってろ」の世界。笑われている奴は逆襲してはいけない……逆襲すれば、そいつが一番悪いってことになる……というルールがある。これはその時に書いたものがあるので、そっちを読んでね。

 さて、そんな80年代へのなんともいえない愛情が込められた作品だが、一方で感じるのは「80年代への憎しみ」。これは「オタクカルチャーからの逆襲」物語でもあるのだ。

 80年代は映像エンタメが現代の形に定まりつつある最中で、1日ごとに新しいもの、面白い物が生まれようとしている時期だった。その当時のことを思い出すと、あの名作があったな、あんな駄作もあったなぁと懐かしく思い出せる。(駄作も思い出の一つだ)
 しかしその一方で、日常はどん底だった。映像エンタメに夢中な少年達というのは学校というコミュティにおいてはカースト最下位。「ルーザーズ」であった。何も楽しいことがなかった学生時代。恋愛もなかった。アニメみたいな美少女と出会うこともなければ、冒険が始まることもなかった。
 エンタメの世界では一番のお客さん達の存在は完全に無視だった。描かれるとしても、間抜けでただの笑われるだけの存在……という描写だった。要するに「マーケティングの対象外」。(日本でも電通あたりになると未だにオタクは「マーケティングの対象外」とみなしている。かつては音楽ランキングでアニメの楽曲は売れていてもランキングから外す……なんてことをやってたしね)
 それが『ストレンジャーシングス』では全て叶ってしまう。全て肯定されてしまう。主人公のマイクは『D&D』と『スターウォーズ』に夢中なだけのパッとしない、ダサい子供だった。友達はいつもの4人組だけ。学校では冷ややかな目で見られ、ジャイアン的なやつに毎日イジメに遭っていた。
 そんなマイクのもとに、超能力少女エルがやってくる。そこから非日常が始まる。モンスターと戦う冒険が始まる!
 これははっきり言えば、ルーザーズでしかない少年の妄想話でしかない。ルーザーズなら誰もが一度は妄想した世界。異世界の女の子が突然やってきて、僕を非現実の世界に連れ出してほしい。こんな退屈な日常はもうたくさんだ……! そんな想いが『ストレンジャーシングス』の背景に感じられる。
 そういう「ルーザーズ」の物語って実は昔から結構あった。『IT~それが見えたら終わり』はまさにルーザーズたちが出てくる作品だ。同じくスティーブン・キングの名作『スタンド・バイ・ミー』。リチャード・ドナー監督の『グーニーズ』。スティーブン・スピルバーグ初期の名作『ET』。掘り起こせばもっともっとある。学校では誰からも注目されず、いまいちパッとしない少年が思いがけない冒険の扉を開いてしまう作品。そういう名作はわりとあるのに、なぜかさほど注目されないタイプの作品たち……。どこか「裏街道」という感じの作品達だ。
 『ストレンジャーシングス』はそういう作品の系譜に収まる作品だけど、やっぱり特異なのがオタクカルチャーを前面に押し出して行ったこと。『スタンド・バイ・ミー』でも『グーニーズ』でも精神的には『ストレンジャーシングス』と同じだったんだ。でも『スタンド・バイ・ミー』のような作品では、オタクカルチャーは背景に隠れていた。(そこにはきっと権利の関係もあるかも知れないが)『ストレンジャーシングス』ではむしろそれがメインテーマであるかのように描く。なぜそうしたのかというと、クソだった自分の少年時代を祝福するためだ。

 アメリカはマッチョ賛美の文化だ。筋肉のあるやつが一番モテていた。みんなのリーダーで、見た目がちょいセクシーで、ちょっと悪いこともやって、そういうやつがみんなから注目されて、みんなから憧れられる存在になる(日本でもそういうところある)。
 でも社会的に良いとされる文化は、必ず「裏」がある。社会全体がコンプレックスを抱えている場合、それを覆い隠したいがために、特定の文化を賛美したい傾向が生まれやすい。
 マッチョ文化についてだけど、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』という映画があるけど、マッチョはどこか無理をしている。『パワー・オブ・ザ・ドッグ』に登場するフィルは、自身が実はゲイであることを隠すために、マッチョを演じていた。アメリカのゲイに対する忌避はどこか異常、どこか病的なものがあって「女性的な男性」に対する恐れ、「女性的な男性」に惹かれていることへの不安がどこかに隠れているような感じがある。そういったものへの反発としてマッチョ賛美文化がある……そんなふうに感じられる。
 世の中には脳天気にマッチョをやれている人たちも当然いるわけだが、一方では病的にマッチョであることにしがみつき、なよなよした男を見たら攻撃をせずにいられない男達というのもいる。
 『ストレンジャーシングス』シーズン2とシーズン3にはわかりやすいマッチョとしてビリーが登場する。強くてちょっと悪いくてセクシーで、転校してきてすぐに校内カースト上位に、女の子にもモテモテになる。
(スティーブもシーズン1、2の頃は頑張ってマッチョを演じていて、ビールにナイフで穴を開けて一気飲みとかやっていた。シーズン3以降になるとマッチョへの執着は抜けちゃって、そういうの一切やらなくなっていったのだけど)
 ところがシーズン3ではビリーの精神が剥離していく。高圧的な父親がいて、その父親への恐怖と不安でマッチョを演じていた、ということが明らかになる。シーズン3になるとビリーはマダム・キラー……つまりオバサンばかり口説くキャラクターになっていたのだけど、それも幼年期、母親と離別したショックが強く関連している。オバサンをやたらと口説くのは、母性を取り戻そうとしているからだった。

 シーズン4では別の方向性のマッチョであるジェイソンが登場する。ビリーと違ってバスケットチームを率いるリーダー的なキャラクターだ。他の作品であったら、きっと主人公を演じていただろう役柄である。
 ところがジェイソンも次第におかしくなっていく。『D&D』で遊んでいるだけのテーブルトークグループ「ヘルファイア」を本当に「黒魔術のカルト集団」と思い込むようになっていく。
 テーブルトークRPGを「黒魔術師のカルト集団」というレッテル張りは、当時のアメリカに本当にあった話だった。事件が起きると、『D&D』やそれを好んで遊んでいた人たちが槍玉に挙げられていた。あいつらがやったに違いない。ああいうゲームをやるやつが、いつか犯罪を犯すんだ……と。私だって、子供の頃は「お前はいつか絶対やらかすわ」と言われてきた。
 しかし、世の中というものは色んなものが“あべこべ”だ。『D&D』が遊んでいた人たちの中に、「黒魔術」だの「モンスター」だの「魔王」だのを本気で信じていた……なんて人は1人もいない。あくまでも遊び。そういう役を演じて遊んでいるだけだった。逆に当時『D&D』を黒魔術だと非難していた人たちは「え? 信じていたんですか? ねえねえ本気で信じてたの?」……と尋ねたくなる。
 『D&D』で遊んでいた人たちは黒魔術もファンタジーも「現実」だとは思っていない。そういうものは、きちんとした「クリエイター」がいて、そういう人たちが作り出すものであって、オタク達はそういう人たちのことをきちんと知って、尊敬の対象にしていた。奇異なのはむしろその外にいた人達の方で、「普通の人々」は逆に黒魔術を現実だと思い込んでいた。「普通の人々」はクリエイターの存在を認識していなかった。これが当時のアメリカ社会の中に潜んでいた転倒だった。
(日本でも、90年代は少年犯罪の主たる原因はテレビゲームだと多くの人が信じていた。今でもそう信じて報道をする人もいる。モチーフは違うものの、わりと似たような道を歩んでいる)

(『ストレンジャーシングス』は80年代という時代背景で“ないがしろ”にされてきた人たち……が物語の中心に据えられている。シーズン3ではショッピングモールが出てきて地元商店街が荒廃してしまう。そのショッピングモールが実はソ連と悪巧みをしていて……最終的にはショッピングモールは破綻して、商店街が復活。「そうであったらいいな」が現実として描かれている。シーズン4ではイジメに遭うエルだが、やはりないがしろにされ、それきり忘れられていく人として描かれている。あの頃、エルをイジメていた少年少女達は、高校卒業と同時にエルの存在を忘れるか、あるいは「楽しかった思い出」とだけ記憶されていく……。誰も「笑われている奴がつらい想いをしていたかも知れない」なんて考えない)

 さて、『ストレンジャーシングス』は文字通り「裏世界」が登場してくる。妄想でしなかったデモゴルゴンやマインド・フレイヤーといったモンスターが登場してしまう。少年達の妄想世界が現実に描かれる。
 もう一つ、『ストレンジャーシングス』が裏ッ返しにしているのは、オタクから見た80年代。80年代そのものを裏返しにしている。
 あの時代はまだ無邪気にマッチョが賛美されている時代だった。『D&D』が悪魔のゲームだと多くの人が信じている時代だった。オタクは「心が病んだ人たち」と言われ、アメリカでも日本でも、オタクこそ異常犯罪の素質を持った人たちとして信じられていた。
 しかし全部逆だ。マッチョはどこか心が病んだ人たちが“しがみつく”価値観でしかない。『D&D』はもちろん魔術やカルト教団とは何も関連がない、ただの“遊び”だ。どんな作品であっても、背景には尊敬すべきクリエイターがいる。しかし普通の人々はクリエイターの存在は認識できていないし、そういった文化が好きな人を、テレビで与えられた価値観に従って差別していただけ。
 俺たちにはこう見えていたんだぜ――それがダファー兄弟が作品の中に、密かに込めたメッセージだったように見える。80年代当時、オタク達はひたすらないがしろにされていた。校内カースト最下位、ダメな奴ら、ナヨナヨしていてきっと心も病んでいるに違いない……そんなふうに論評されていた。

 アメリカなんて国は、マッチョじゃない男はちょっとおかしいと回りから思われるし、同性愛者なんてものは病気と思われていて、治療すべきもの……としてたような国だから。
 でもオタク達には、世界はまったくの逆に見えていた。マッチョは病気に見えていたし、『D&D』をカルトだと思い込んで非難していた大人達はバカだと思っていた。どうして彼らは何も見ないのだろうか。与えられた価値観に疑問を持たないのだろうか。自分で何が良いか、何が正しいか判断できないのだろうか……そんなふうに思っていた。
 他でもなく、私がそう思っていた。「最近の少年犯罪の主な原因はテレビゲームです」と語る高学歴のおじさんたちを見て「え……バカなの?」って思っていた。学歴が高かろうが、名誉ある地位を持っていようが、バカなやつはバカでしかなく、バカなことしか言えないんだな……と私は子供時代に気付いた。ダファー兄弟もきっと同じことを感じていたんだな……と作品を見て思う。
 そう思っていたけれど、実際には何もなかった。何も起きなかった。超能力を持った美少女も現れなかったし、デモゴルゴンとも戦わなかった。ただただ理不尽な目に遭って、呪われた青春期を作り出した80年代……そう、オタク達が体験していた本当の80年代は呪われていた! 輝いていたのは画面の向こだけ。それを、自身が負った呪いの力で逆転してやりたい……!
 『ストレンジャーシングス』を見ているとどこかそういう時代の気持ちを思い出させるものがある。思い出させて、逆転させて、溜飲を下げさせる。そうやって80年代という青春期を美しいものに塗り替えていく。本当はこうだった、こうあってほしかった……という青春期を今の時代に作り替えたいという願望。そう、オタクカルチャーの逆襲。
 80年代への愛と憎しみを込めた作品。それが『ストレンジャーシングス』。

 といっても、そういう作品にしようとして描いたのではなく、好きなものを描いていたら結果としてそうなっちゃった……というやつだろうけど。

 さてシーズン4、いよいよ物語は新しい局面に入っていく。これまでの着地点は「誰にも知られていない少年達の冒険物語」……という描かれ方だった。だがシーズン4は「秘密の冒険」ではなく、異変が一気に社会の表側に噴き出してしまった。あそこからどんなふうに展開するのだろう……。シーズン5が今から楽しみだ!


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