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読書感想文 誰も語らなかったジブリを語ろう/押井守

この記事はノートから書き起こされたものです。詳しい事情は→この8か月間に起きたこと。

 テーマのない人間が、テーマのある人間に使われるのは当たり前
                                                                                                 ―鈴木敏夫

 まず宮崎駿作品の興行成績をずらっと並べてみよう。

ルパン三世 カリオストロの城 6億1000万円
風の谷のナウシカ  14億8000万円
天空の城ラピュタ  11億6000万円
となりのトトロ   11億7000万円
魔女の宅急便    36億5000万円
紅の豚       47億6000万円
もののけ姫    193億円
千と千尋の神隠し 308億円
ハウルの動く城  196億円
崖の上のポニョ  155億円
風立ちぬ     120億2000万円

 宮崎駿作品で誤解されがちなことの一つで、彼は最初から「売れる作家」でもなく「人気作家」でもなく、当然ながらその作品が「国民的作品」であるわけでもなかった。初期の作品は連敗に次ぐ連敗。『カリオストロの城』に至ってはたったの6億円しか稼げておらず(制作費5億円)、数字しか見ない人の言葉を借りれば、『カリオストロの城』は「大コケの駄目映画」ということになる。『風の谷のナウシカ』は当時「ヒット映画」「社会現象を起こした」と後の時代である今は言われているが、実際には公開館数90くらいで、配給収入は7億4000万円。同年公開された『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』も配給輸入7億円なので、『ナウシカ』がこの時代突き抜けた大ヒット作というわけではなかった。

 『となりのトトロ』『天空の城ラピュタ』が共に11億円と、順調に数字を落としていき、この時代の宮崎駿は「売れないマイナー映画」の監督だった。普通に考えれば、『トトロ』あたりで姿を消す監督だった。
 ところが『魔女の宅急便』を境に急に興行成績の上昇が始まり、『もののけ姫』で一気に爆発。『もののけ姫』は当時の国内興行成績第1位を塗り替え、続く『千と千尋の神隠し』は308億円と、この記録は今もって破られることがない。
 国内の興行収入ランキングを見ても、宮崎駿作品は10位までに5作も入っており、同一映画監督の興行収入だけを見ると宮崎駿がダントツの1位になるはずだ。

 ではなぜ突然に宮崎駿作品は売れる作品になったのか?
 答えは簡単。宮崎駿は「巨匠」になったからだ。
 次なる問題。ではなぜ、誰が宮崎駿を「巨匠」にしたのか?
 この答えも簡単。鈴木敏夫。鈴木敏夫が宮崎駿を巨匠にした。
 なぜ宮崎駿を巨匠にした? この問いも簡単で、映画を売るため。その手段の一つとして宮崎駿を巨匠の座に据えた。

 この時、鈴木敏夫が使った手法が「インナーサークル」だ。インナーサークルとは共通の利害を持った暗黙の了解として、その内部への批判を許さない共同体のことを指す。
 フィギュアスケート団体などがこの典型で、世間の注目度の高さのわりに参加者が限定されており、その評価の客観性が証明しにくい競技がインナーサークル化しやすい。
 スタジオジブリ、宮崎駿作品の批判が公の場で語られず、活字になることも滅多にないのは、インナーサークルを人工的に作っているから。その中心にいるのが鈴木敏夫だ。

(鈴木敏夫が得意としているのが恫喝。私が唯一観た鈴木敏夫の恫喝の実例が『サイゾー』のインタビュー。そこで鈴木敏夫の恫喝そのもののようなインタビューが掲載されていた。まあよくぞの記事にして載せてくれたよね。この手の恫喝はメディア系の記者にはなかなか効くらしい。というのは戦後GHQの検閲を受けた新聞でも証明されている。なるほどメディアを黙らせるにはあんな手があるのか)

 そうは言っても、鈴木敏夫一人であらゆるメディアを恫喝してコントロールしていくなんてできるわけがない。それでもなぜかメディアが宮崎駿とスタジオジブリ批判を封じたかというと、うま味があるからだ。
 まず宮崎駿アニメをTVにかけると、どんな番組より高い視聴率を叩き出す。何回もTV放送されているのにも関わらず、視聴率がほぼ落ちることがない。
 関連企業にとってもうま味があり、宮崎駿映画に投資すると3倍以上になって返ってくる。しかも関連企業というのが漏れなくテレビのスポンサーになっているので、全員で口裏を合わせて「宮崎駿への批判はやめよう」ということになる。
 日テレと関係ない放送局であっても、宮崎駿作品のシーンをちらっと出すだけでも視聴率はグンと上がるし、好印象を持たれるので、どこでも批判はやめておこうということになる。

 インナーサークル状態はジブリ内の人にとっても良かった。というのもジブリは『魔女の宅急便』を切っ掛けにアニメーター達を正社員雇用するようになった。それ以前は作品ごとの都度契約で、その賃金も一般の社会人よりもはるかに下だった。安定した給料が払えるようになったのはインナーサークルのおかげだ。

 うま味は私たちのところにも下りてくる。
 例えば『カリオストロの城』は当時の大コケ映画だが、今は「巨匠・宮崎駿の最初の作品」として見られるようになり、再発見・再評価に繋がり、おかげで今でも高品質のブルーレイで視聴することができる。この再評価がなければ、あの作品は後も「大コケ映画」のまま、DVD化も怪しかったはずだ。「幻の作品」になる可能性が高かった。
 『カリオストロの城』は実際に名作だ。私は「カリオストロの城>>>>>>>>>その他のルパン映画」くらいに思っている。宮崎駿が巨匠となり、再評価があったからこそ、この名作を多くの人が見ることになり、「ルパン映画の中で一番」と挙げる人も多くなった。もはや『カリオストロの城』を「大コケの駄目映画」なとど言う人はいない。
 その他の宮崎駿映画についても同じように、今はTVで何度も作品を見られる。高品質ブルーレイで見られる。その環境ができあがったのもインナーサークルのおかげだ。

 この状況は宮崎駿自身にもうま味があったはずだ。というのも、宮崎駿が作品を制作する際、「お金に困った」という話を聞いたことがない。同じく巨匠の称号が与えられた黒澤明ですら、晩年は制作費集めに困ったといわれる。『AKIRA』という伝説的なアニメを作った大友克洋も『スチームボーイ』制作時に資金集めに苦労した。
 資金集めの苦労話は映画の話には付きものの一つで、資金集めに数年かかったとか、自宅を抵当に入れたとか、そういう話が一杯ある。映画は監督が作りたいと言ったらすぐにできるものではなく、誰かからお金を貰わないとはじまらないのだ。
 ところが宮崎駿はこの手の苦労を全くしていない。『風立ちぬ』の後、再び映画を作るとTVで宣言した後、すぐに正式な制作発表となった。あのTV放送の後、すぐに出資者が見つかったからだ。

 「巨匠」という称号がいかにして作られるのか私はよく知らないが――。
 イギリスの映画監督リドリー・スコットに「巨匠」の冠が付いたのは、私の記憶では『グラディエーター』の時だ。確かにリドリー・スコットはそれ以前から映画好きなら誰もが知る監督、知ってて当然な映画監督だったが、しかし「巨匠」ではなかった。「巨匠」とは呼ばれていなかったと記憶している。
 それが『グラディエーター』の時に「巨匠・リドリー・スコット」と紹介されているのを見て「おや?」となった覚えがある。
 あそこで巨匠となったことはリドリー・スコット自身に確実にうま味があったはずだ。その以前のリドリー・スコット映画は数年に一度だったが、巨匠の冠が付いてからは1年から2年に1本ペースになったし、制作費もどんどん巨額になった。私たちも大好きなリドリー・スコット映画をたくさん見えるようになり、全員が得した。
 「巨匠」という冠がどういった瞬間に付けられるのか、全ての事例は知らないが、宣伝的な事情というのが一つにあるのかも知れない。

 宮崎駿を巨匠にしたのは鈴木敏夫だが、巨匠になる以前の宮崎駿は落ち目の監督だった。
 というのもキャラ絵が古い。あれは昔の東映系の絵だ。みんなも知っていると思うが、「アニメ顔」のトレンドには流行り廃りがあり、キャラの顔だけでだいたいの年代がわかると言われているくらいだ。
 宮崎駿のキャラクターはずっと昔の東映顔。昔からのアニメマニアからしてみれば「古臭い」し「バタ臭い絵」でしかない。だから『ナウシカ』と『マクロス』が公開された年、アニメマニアの本命は『マクロス』のほうだった。
 確かにナウシカはロリ顔で巨乳でスーパーパワーの持ち主とアニメマニアが喜びそうな要素てんこ盛りだが、アニメマニアが喜ぶ琴線とは微妙にずれていた。まず、キャラ絵が古いからだ。
 結局のところ、アニメの映画はアニメのマニアしか見ないもので、そのアニメマニアの数なんてたかが知れている。宮崎駿作品の『ナウシカ』はたまたま当たったが、それ以降は『ラピュタ』『トトロ』と下がっていく一方。アニメマニアが喜ぶ路線から完全に外れていたからだ。

 宮崎駿映画は確かにまったく売れてなかったし、注目もされてなかったが、「つまらない映画」ではない。むしろその逆。『ラピュタ』も『トトロ』も並ぶもののない大傑作だ。なぜこの面白さが伝わらないんだ、と言いたいくらいだ。
 鈴木敏夫が宮崎駿を巨匠の座につけたのは「金のため・売るため」が全てだったが、宮崎駿は巨匠の冠に相応しい器の持ち主だ。もちろん鈴木敏夫にも宮崎駿がそれだけの器の持ち主だと見抜いていた。「巨匠」という言葉はハリボテではないし、宮崎駿は裸の王様でもない。本物だ。結果として、相応しい人が巨匠になった……それだけの話だ。

 と、このように世にも珍しい、誰も損をしないインナーサークルによってジブリ映画は巨大商品となったが、歪があちこちに生じつつある。
 宮崎駿は巨匠になったが、そのパブリックイメージはずっと『トトロ』や『ラピュタ』で止まってしまっている。もしかしたらここに『魔女の宅急便』も入っているかも知れない。みんな『トトロ』や『ラピュタ』を期待して子供を連れて映画館へ行ってしまう。その歪が大きく出たのが『風立ちぬ』で、この時、「子供がぜんぜん映画に集中しない」「子供が映画館内を歩き回る」といった批判が結構あった。
 私からしてみれば「お前ら、予告編見てないのか」だし、それに「お前自身は映画をどう見たんだよ」と問いたくなる。しかし“広い一般層”というのは予告編やあらすじで判断しない。何となくのパブリックイメージで「宮崎駿の映画だから子供を連れて行こう」と考えてしまう。宮崎駿は現在、次回作を制作しているが、完成したら次ような意見を言う評論家が必ず現れるだろう。
「子供が映画に集中しなかったから駄目な映画だ」
 これを書いた評論家は、即座に「駄目評論家」の称号を与えてもいいだろう。

 歪みは映画の外でも起きている。メディアと評論家たちが宮崎駿という残像から逃れられなくなっている。
 最近、名前で売れるアニメ監督といえば細田守、新海誠、庵野秀明といった人達が挙がるが(いずれも素晴らしいクリエイター達だ)、これらの人たちがメディアに紹介されるとき、必ず「ポスト宮崎駿」「宮崎駿の後継者」と紹介される。はっきり言って、本人たちは自身が「俺がポスト宮崎駿だ」とは一切思っていないはずだ。関係がなさすぎる。
(ただし、スタジオポノックだけは「ポスト宮崎」に当てはまる。関係が深すぎる)
 しかしメディアはこれからも宮崎駿の影を見て、宮崎駿という物差しでクリエイターを語ろうとするだろう。

 歪みその3は声優問題。アニメ映画に本職声優が使われなくなった。ジブリが本職声優以外のタレントを使い始めたのは『紅の豚』だが、それが本格化したのは『もののけ姫』。
 なぜ『もののけ姫』でここまで極端に本職以外声優を起用したのかというと、作品を売るためだった。というのも、当時のジブリは『もののけ姫』が売れないとその時点で会社が終わり、という状態だった。絶対に外せない勝負だから、とりあえず有名どころをずらりと並べたのだ。巨匠として売り出し中の宮崎駿の名前だけで、稼げないと判断されたからだ。
(ネットでよく言われる話だが、ジブリが本職声優を起用しない理由について、「宮崎さんがアニメ声優が嫌いだから」という理由がよく語られる。これ……本当だろうか? 出てくるのは鈴木敏夫からの発言で、宮崎駿本人の発言ではない。ここがどうにも引っ掛かる)
 これが大当たりし、大当たりしすぎたがゆえに、アニメ映画界隈の悪風習となってしまった。作画は豪華なのに、声の芝居が下手糞。パクも合っていなければ滑舌も悪い。声質も悪く、キャラに合っていない。はっきり言って、素人を声優に使うようになって以降、アニメ映画の品質は落ちた。
 それでも本職声優を使うと確実に動員数を増やせる。先にも書いたが、生粋のアニメファンなんてたかが知れている。それ以外の一般層を取り込まないといけない、という時、「有名なだけのタレント」に頼むより他なかった。
 さらに悪いことに、この悪習慣は実写吹替まで侵食してきた! ファック!
 アニメの声優なら自分でもできる……と思い込んでいるアイドルが今いかに多いか! 声優舐めんな! 芝居を舐めんな!
 この流れを止めるには声優自体をタレント売りするしかなく、これが山寺宏一さんが先頭に立って始めたことで……この辺りの話はいつか別の時に。

 歪みその4が評論。インナーサークル状態がメディア内に強固に作られているせいで、ジブリや宮崎駿のまっとうな批判が全く出てこない。
 というわけで、この本書。押井守が宮崎駿とジブリ作品を徹底的に評論する、というのがこの本だ。

 まず押井守は、宮崎駿作品について、構造がない、脚本の才能がない、破綻していると看破する。

押井 敢えて言わせてもらいますが、監督しての力ははっきり言って二流以下です。
――二流どころか二流以下?
押井 はい。いつも言っていることです。彼の作品を支えているのは演出力じゃなくて、アニメーターとしての手腕。さっきも言ったように構造力がなく、よって長編もできない。にもかかわらず、長編を作ってしまうから破綻している。
                                                                                                      54ページ

 と手厳しい。が、この本、よくよく読んでいるとけなしている部分よりも褒めているところの方が多い。

押井 ほかにも、パンを頬張ったりシチューをすすったりという、ものを食べる描写の上手さは天下一品。あとは服のボタンをかける仕草とかね。宮さんも口癖のひとつは「基本的にアニメーションは感覚の再現」というもので、これは僕も散々聞かされた。感覚を再現できるのがアニメーターであって、正確に手順を踏んで描くのはアニメートではないというのが持論なんだよ。
                                                                                                     23ページ
押井 『トトロ』を語るには、宮さんの『めいとこねこばす』に触れないわけにはいかない。ジブリ美術館でしか見られない短編だけど、これは正真正銘の傑作です。これこそ子供が観るべき作品だし、紛れもなく宮さんは子供たちに見せるために作っている。上映時間は15分くらいだけど、子供が一瞬たりとも目を離さないような作り。子供が観たら大コーフン、たまらないと思うよ。宮さんの得意のディテールだけの映画だから当然、素晴らしいし。いわゆる、アニメーションの楽しさにあふれた作品だよ。
                                                                                                        45ページ
押井 もちろん飛行シーンの作画は見事なもんですよ。そもそも戦闘飛空艇なんて面倒くさいものを描こうなんていう奇特なアニメーターは、世界でも宮さんくらいしかいないから。ただ飛行機を描くだけじゃすまなくて、“水”がもれなくついてくるんだから作画するのは大変なんだ。それをちゃんと丁寧にやっているんだから、さすがです。
                                                                                              67~68ページ
押井 あそこは官能的だよね。もう匂い立ってくる。あれこそを官能と呼ぶんですよ。もの凄くエロチック。シシ神だけは僕も感心した。『トトロ』で樹木が空に向かって一気に伸びるシーンと一緒。
 そういうのは、本当に動画の世界の真骨頂。もしそれをCGでやったとしても、ああいうふうには絶対にならない。宮さんだけがもつ、動きに対する独特な感覚というか官能性。植物エロチズムがあるんだよ。宮さんは本当に植物が上手い。動物よりも植物の方が全然上手い。そういう意味で言えば、確かに『もののけ姫』には素晴らしいシーンがたくさんあるよね。おそらく、宮さんがもっとも思い入れしたキャラクターもサンとかじゃなく、このシシ神だよ。だから、みんな目が釘付けになる。
                                                                                                     88ページ

 インナーサークルによってジブリに対する真っ当な批判がこの世から消え、あたかも戦後占領期時代のような言論統制が敷かれてしまっている。その状況を打破するための本だというのに、しかしどういうわけか貶すよりも褒めの比重が多い。押井守が一貫して主張するのは宮崎駿の“長編”映画監督としての資質のなさ。構成がなく、物語が破綻している。毎回結末がよくわからない。
 しかし、それでも宮崎駿作品が素晴らしいのはシーン一つ一つ強さ。アニメーション/動画の力強さ。この表現力があまりにも突き抜けすぎているから、キャラ絵が古いとか、脚本が破綻しているとか、そういうそこにあるはずの欠点を吹き飛ばしてしまっている。真っ当に評論しようとしたら、「褒め」の部分も多くなってしまう。
 結局のところ、「アンチ宮崎」である押井守であっても、宮崎駿の天才性は認めざるを得ないわけだ。
 それに、「ジブリ批判」のはずのこの本だが、なぜかとても楽しげな雰囲気が伝わってくる。あとがきにも聞き手が心証を書いているが、押井守が悪口を言いつつも楽しげ。
 こんな話も出てくる。

――やっぱり押井さん、宮崎さんのことお好きなんでしょねー。
押井 それは違うって。僕のテーマのひとつは、宮さんより長生きすることです。絶対生きて、葬式出るぞってね(笑)。

 ……なんだよ、ツンデレかよ。
 一方の宮崎駿は押井守についてどう思っているのか。これについて語られたことがないが、私の想像でもツンデレなんだろうな……と。というのも『ハウルの動く城』で、どう見ても押井守にしか見えないヒンという犬が登場する。嫌な感じの犬だが、最終的にハウル一家に迎えられる。
 なーんだ。普段あんなにケンカして悪口言ってるけど、本音はそうだったんだ。このツンデレめ。  と、本書は基本的にはジブリと宮崎駿の悪口がひたすら書かれているが、結局はそれがやや大きめの面倒くさいツンデレだったとわかってしまう本。決して「ジブリ憎し」だけで書かれているわけではない。この本を読んでジブリが嫌いになるということはまずないでしょう。むしろ、ジブリと宮崎駿のことがより深くわかり、作品も面白く見られる本となっている。

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