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11月28日 AI革命以後社会を考える④ 成功者にぶら下がる社会 【ぶら下がり生存法】

 ではここから具体的に、AI革命の時代に入ってきた、そういう時代に入ったとき、どうするか……という話を掘り下げていこう。
 ここまでに書いてきたように、まず政府は何もしてくれない。AI社会がやってきても、政府はそれに対応した施策なんか絶対にやってくれない。まして政府が旗振り役になって、時代の先頭に立つ……あり得ない、あり得ない。世の中も、AI社会がやってきて、大量の失業者を出したところで、それに対応した何かなんてやってくれるわけがない。人間の意識はそう簡単に変われないので、この後の10年とか20年くらい、やむなく脱落していった人達に対し、「自己責任だ」と相変わらず言い続けるだろう(エリートほど頭の転換が遅いからだ)。そこから一歩進んで、社会自体が変わったのだから、「政治がどうにかするべきだ」……と気付く人は、本当に頭のいいごく少数の人だけに限られるだろう。

 政府や世の中が動いてくれない……では個人で何をしようか? そう考えたとき真っ先に出てくるアイデアが「成功者にぶら下がる社会」だ。
 最近はどうか知らないけれど、東南アジアでは一人が成功すると、親戚が大挙してやってきて「金くれ」「仕事くれ」と言ってくる。それこそ、「お前、親戚だったっけ?」という人までやってくる。
(日本でも宝くじに当たった……みたいな話が出ると、急に会ったこともない自称親戚がやってきたりするけども)
 なんで一人の成功者が出ると親戚が集まってくるのか……というと、「そもそも、そういうものだったから」。たぶん私たちはずっと昔から、一人の成功者が出たらその周囲に群がる社会を作っていた。はるか昔では小規模の血縁でのみ暮らしていて、そういう暮らしの方が近代的な暮らしより数万年も長いのだから、血縁者に頼る、血縁者の面倒を見る……という感覚が私たちのどこかにあるのだろう。

 最近、なんとなくの思いつきで『プラダを着た悪魔』という映画を見返した。2006年の映画だ。
 お話しはファッションにまったく興味のなかった20代の女性アンディが、出世の足がかりにするために、アメリカのファッション雑誌『ランウェイ』に就職し、その『ランウェイ』の編集長ミランダの助手をすることになる。ところがこのミランダが鬼のような人だった……。
 ずっと昔に見た頃は、私はアンディの視点で作品を見ていたから、「世の中には酷い人がいるものだなぁ」と思っていた。しかし最近見返すと、私の意識が変わっていて、実はミランダという「稼げるたった一人」に他の社員達がぶら下がっている……という構図が見えてきた。
 雑誌『ランウェイ』にはたくさんのスタッフがいるのだけど、残念だけどあの人々には「稼ぐ力」というものがない。おそらくは一人一人には高い能力はあるのだけど、だからといって、「稼げる力」はない。だから圧倒的なパフォーマンスを持ったミランダにぶら下がっている。ミランダが仕事するために、邪魔になるものを取り除き、仕事のみに集中できるように差し向ける……『ランウェイ』のスタッフがやっていることは、そういうことだった。
 ミランダという独裁者がいて、一見するとまわりの人間全員が召使のような扱いを受けている……ように見えるけれど、その逆で、実はまわりの人々がミランダに「働くしかない」ような状況を作っていた。
 そのミランダの家庭事情はどうなっているのか? 一度アンディがミランダの家を尋ねる場面があるのだが……一見すると豪華なお屋敷に住んでいるように見えるが、家族関係は破綻している。というのもミランダは超ワーカーホリック。仕事人間過ぎて、家庭を顧みる余裕すらない状態だった。
 ミランダにとって厄介なことは「娘」がいること。その娘のために、父親が必要だ……と結婚するが、ミランダ自身がワーカーホリックすぎて、夫のことなんか相手にしている暇はない。食事にも行かないし、あの様子だと“夜の営み”もなさそうだ。夫からすると「俺はお飾りか」という気分になる。それで「離婚だ!」、となる。それでもミランダが夫を求めるのは、娘のため……鬼のようなミランダにもそういう人情味ある部分はあるのだ。

 『プラダを着た悪魔』という映画を観ていて、私が「まるであの人みたいだ……」と思っていたのが宮崎駿。ミランダをおじいさんにしたら宮崎駿になるな……とか思っていた。
 スタジオジブリの宮崎駿も独裁者で超ワーカーホリックだ。若い頃は何ヶ月も家に帰らず、アニメスタジオに閉じこもって作品を作っていた……というような話はいくらでもある。スタジオジブリのアニメーターはもちろん業界最強クラスの人達だけど、宮崎駿のポテンシャルはそれをはるかに越えていて、スタジオジブリにいる数百人が宮崎駿という才能にぶら下がっているという状態だ。
 そんな宮崎駿の家庭事情はどうなのか……というと家にも帰らず仕事をしていたから、家庭環境は冷め切っていた……らしい。子供は知らん間にどんどん育っているし、人間的な関係性もほとんど築けぬまま。するとある日、息子の一人が「アニメ映画を作る」とか言いだして、「お前は何を言っているんだ」と宮崎駿は反対する。それが『ゲド戦記』の頃の話だが、宮崎駿は息子がどの程度絵が描けて、アニメに対し想いを持っていたのか、まったく知らなかったそうだ。

 あまり詳しくないが、Appleのジョブズも似たような感じだったと聞く。ジョブズという圧倒的な才能に、Appleの社員がぶら下がっていた。そのジョブズは仕事人間過ぎて、家族との関係は破綻していた。
 私の知識は2015年の映画『スティーブ・ジョブズ』のものしかないのだが、この映画には離婚した妻や娘とうまく関係を築けない、あまりにも不器用なジョブズの姿が描かれていた。
 おそらく世の中で大成功した人は、みんなミランダや宮崎駿のように、仕事人間すぎて家庭環境は崩壊する運命なのだろう。

 思い返せば、世の中はそういうたった一人の天才にぶら下がってできている。その天才がいないと、社員一人一人のスペックは高くても、誰にも見向きもされない。「能力が高い」と「稼げる」はまったく別の才能なのだ。注目され続けるためには、そういう「替えの効かない天才」は絶対に必要なのだ。

 街を歩いてまわりを観察してみると、そういえば色んな人が色んなものにぶら下がっている。例えば一つの大きな店がある。するとその周囲にぽつぽつと商店ができる。これも“ぶら下がっている”状態だ。
 例えば大きな劇場や、大きなスポーツスタジアムがあったとする。その周囲には必ず様々な商店が作られる。野球やサッカーを観戦した後、みんなその周囲のお店に入って、「あの試合良かったな」とか言ったりしている。そういうのもみんな成功者にぶら下がっているといえる。

 もしかしたら反対意見として「ぶら下がっているのはダメだ! 自分一人の実力だけで勝負するんだ!」という独立心旺盛な人はいるだろう。やってみなさい。まず確実に失敗するから。
 もしも天才であればうまくいく。でも大多数はそうではない。「能力が高い」と「天才」は違う。その違いを心得ていないと、なにをやってもうまくいかない。自分は天才ではなく、能力が高いだけ……という自覚があれば、ぶら下がったほうがいい。
 むしろ戦略的に、「成功するためにうまくぶら下がる方法」……を考えた方が、成功の近道ですらある。

 話は江戸時代の日本に遡るが、この時代は成功した人の下にたくさんの人がぶら下がっていた。葛飾北斎、歌川広重、歌川国芳……。最近、平田篤胤の本を読んだが、この人のところにも弟子はたくさんいた。
 江戸時代の絵師の家にはたくさんの人が通いでやってきた人もいるし、住み込んでいる人がいた。江戸時代の絵師は、こういう人達に仕事の手伝いをさせ、家の管理などの下働きをさせる一方で、彼らの生活の面倒も見ていた。彼らが出世するのを手伝うこともあった。ずっと一緒に過ごしていたから、家族的な関係を築いていた。
 弟子達は師匠が仕事するために障害となるものを取り除き、師匠がより働けるように環境を作っていた。『プラダを着た悪魔』のミランダのようなことをさせていた。しかしそれは、師匠達が独裁者だったから……というより、そうやってぶら下がっていた方が自分も楽な暮らしができるからだ。
 江戸時代は商家、職人の家にも同じように通いの人や住み込みの人達がいた。当時は「奉公人」と呼んでいたが、要するに金持ちにぶら下がる、という意味だ。

 この「ぶら下がる」という行為について、発想を逆転して考えるよう。成功者こそが真の奴隷なのだ。独裁者に仕える人々が奴隷なのではなく、成功者をまわりで支えて、仕事しかできない状態に追い込んで、奴隷にして、まわりがその恩恵を貪る。しかし一見すると、成功者という独裁者がいて、まわりを召使いのように扱っているように見せかければいい。そうするとまわりも本人も、そうなんだと勘違いするから。
 むしろ成功者を利用して、甘い汁を啜ってやれ……それくらいのしたたかさを発揮して欲しい。

 明治以前の日本には、成功者の家にはこういう下働きの人々が一杯いた。成功した人がストレスなく生活ができて、仕事ができるように、家の掃除をしたり、庭の管理をしたり……。一人の成功者が出たら、そのまわりに何人もの人がぶら下がっていた。

 私が提唱するのは、そういうことだ。AI社会が来ると、今以上に「働ける座席」は減っていく。少ない座席を奪い合うようになる。AI革命以後でも問題なく仕事し続けられる人……というのはAI以上に能力の高い人だ。そういう人はごくわずかしかいない。
 そういう人に遠慮なくぶら下がる。
 天才が現れたら、その人の生活に入っていき、日常的なあらゆる面倒を見る。家の掃除もするし、スケジュール管理をする。天才が「今日は働きたくない」とかいっても、問答無用に車に乗せて、仕事場に送り出す。
 どうしてそうするのか、というと自分が生きていくためだ。自分が生きていくために、天才に働くしかないような状況を作っていく。
 要するに「一昔前」のような環境に戻すのだ。成功者の近くに住むか、その家に住み込んで、下働きをする。
 一見すると、一人の成功者がまわりの人を召使のようにコキ使っている……ように見えるだろう。視点を逆にしてみよう。成功者に犠牲になってもらっているのだ。繰り返すが、成功者こそ奴隷なのだ。成功者には遊ぶ時間も与えない。仕事人間になってもらう。そうすればするほど、成功者ではない周りの人達は恩恵を受けられるのだ。

 今の時代では何でも一人でやる。独立するのが当たり前。独立できないような人はダメだ……とか言いがちだ。
 しかしこれからの時代、逆だ。遠慮なくぶら下がろう。成功者にぶら下がって、成功者の面倒を見る。そうやって恩恵を得る。

 成功者はその逆で、自分にぶら下がっている人の面倒を見る。生活の面倒を見るし、場合によってはその人が何かしら挑戦するのを後押しする。面倒を見させるかわりに、勉強させ、修行させておく。
 なぜそうするのか……というと、そうしたほうが得だからだ。
 いくら大天才とはいえ、時代が変わったらお終いだ。世の中の流行が変わった、文化が変わった……どんな能力の高い人でも、そういう時代の変化にいつでも柔軟に対応しいけるわけではない。一時もてはやされても、次第に時代遅れになっていき、稼げなくなっていく。どんな天才も「時代の変化」には抗えないものなのだ。
 そういう時、自分が生活の面倒を見てきた誰かが、自分の代わりをやってもらう。そのために、自分の家に住み込んでいる弟子に対する教育は惜しまずやっておく。いつでもその弟子が世の中に対し、花開くような状況を作っておく。もしも自分の能力が枯れてきたら、彼らの番だからだ。

 これは新しい家族の形ともいえる。今までの時代は、小さな血縁者のみが「家族」だった。一つの家に住み込むのは、その家族だけ……というのが当たり前だった。
 これからの時代は、家に住み込んでいる弟子達も家族として扱う。弟子達に面倒を見てもらうし、師匠も弟子の生活の面倒を見る。そういうものを一つの「家族」としていく。
 でもそれは、近代以前の社会では普通の暮らし。実際には新しいものでもなんでもなく、「過去に戻ろう」というだけの話だ。
 それにぶら下がりは「恥ずべきこと」でもない。よくよく考えたら、かつての社会ではみんなやっていたし、今の社会でも誰でもやっていることだからだ。それをむしろ加速させてやろう……というのが私の考え方だ。

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