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12月9日 大ヒット作の8割くらいは“にわか”

 今年のサッカーワールドカップは、日本が強豪・スペインとドイツに勝利して大いに賑わった。でもよく言われるのは、大騒ぎしている人たちの大半は“にわか”。私もサッカーの話題で話を始めたけど、サッカーの話はなーんにもわからんので、私も“にわか”。
 大ヒット映画で「興行収入100億円達成!」……ここまで来ると9割くらいは“にわか”でしょう。人数の分母が大きくなればなるほど“にわか”の割合は大きくなっていく。

 これでいいんだ。大衆的な文化・作品というものはポッと入ってきただけの“にわか”つまり「ライトユーザー」で良いんだ。全員が全員、なにもかも知ってます、理解できてます……という玄人勢の文化だったら逆に怖い。というか、100万人とか1000万人といった広がりのある文化で、全員が玄人、コアユーザーやエリートユーザー……なんて文化は見たことがない。(アニメを見てその感想文をブログに1万文字以上で書くようなやつなんで、1000人に1人くらいいればいい)
 大衆文化は、まず誰にでもわかること。理解しやすいこと。そういう文化でないと、それがどういった文化なのか外の世界に知られることがない。入り口からあまりにもハードルが高いような文化(敷居が高すぎる文化)は、そう遠くないうちに絶えてしまうだろう。むしろ「ライトユーザー歓迎」という意識で作らないと、まず存在が世の中に認知されることもない。それで大きなブームになったら、それだけライト層が動いた……という証拠。
 何気なくやってきた人たちが、パッと見で面白さ、魅力がわかること。そういうものが最初の入り口になる。あとは気軽に入っていける……ということかな。

 ゲームの世界ではPS5が販売に苦戦している。そもそもソニーが日本を市場として軽く見ている……ということもあるが、PS5の魅力がより大きな大衆に向かって伝わってない、という問題がある。
「PS5はあんなに優れたスペックであんなに買いやすい値段なのに、なぜ??」
 と普段からゲーミングPCなんかを見ているエリートゲーマーは思うことだろう。
 これがダメ。「スペックがどうこう」という話は、大多数の人にはよくわからない世界。私もNVIDIAやAMDが最新GPUを発表してスペックの数字だけを公表されても、ほとんど理解できない。で、これは前のGPUと比較してどう優れてるの? ……となる。
 一般マスコミもよく陥りがちな思考だが、「このゲーム機はスペックが低いから売れない」「このゲーム機のほうがスペックが高いから売れるはず」……これもダメ。「スペックが高いから売れるはず」――実際その通りになったことなどゲーム機の歴史上、一回もない。そのゲーム機にどんなアピール力があるかどうか、のほうが重要。それはスペックの高い低いでは一般層はまず理解しない。
 「ガチ勢」というのはその本人達が思っているほど、たくさんいるわけじゃあないんだ。ゲームユーザーの大半がライトユーザー……と思った方がいい。
 もしもPS5が日本へたっぷり供給されていたとしても、Nintendo Switchほど売れるということはないだろう。
 優れたマシンであるなら、どう優れているかいかに広く伝えられるようにしなければ意味がない。
 日本でもアメリカでも、いま一番売れているゲーム機はNintendo Switchだが、スペックとしてはかなり低い。最新のスマートフォン以下。そもそもNintendo Switchの中に入っている機械が数年前にNVIDIAが出したGPUの流用。しかも数年間刷新していない。2022年現在からするとすでに「一昔前のマシン」でしかない。
 でもNintendo Switchは売れている。スペックがどうこう、ではなく、「どこでもゲームを始められる」という取り回しの良さ、手軽さが一番のセールスポイントだった。それが何かと忙しい現代人の生活にうまくハマった。
「ゲーム機はまずスペックでアピールすべきだろう」
 という玄人的な視点であると、まず出てこないような発想のマシンだった。
(いまだに大半のメディアは、スペックだけを見て「このゲーム機は売れる/売れない」という書き方をするが、こういうのも理解できるのは一部の玄人だけ。ダメな視点の例。そもそもスペックの高い・低いで売れたゲーム機なんてない……ということから理解しないと)

 中途半端な玄人になってくると、ダメな人間になりやすい。間違った意見を言っている人たちを叩き、非難し、吊るし上げにし、そのうえで自分の意見がいかに正しいかをアピールしたがる。こういう“自称玄人”になりやすい。
 こういう人間が大量に出てくると、その文化はあっという間に絶えやすい。1980年代SFブームはこういう玄人が一杯出てきて、そういう人たちが「SF警察」になって、考証の間違えているSFを片っ端から叩き、さらに考えの浅いユーザーを片っ端から排除した。それで気付けばブームが終了した。
 そりゃ終わるだろうよ。
 私はこういう“自称玄人”のことを“外道”と呼んでいる。ただ自分の正しさをアピールし、それを広めることに酔ってしまっているような人間は“玄人”とは呼ばない。ただの迷惑な人だ。だから“外道”と呼んでいる。なぜなら作品を広めることに一切貢献していないし、それどころか主語が「作品が」ではなく「自分が」にすり替わってしまっているからだ。作品がメインテーマではなく、自己実現がメインテーマにすり替わっている。こういうタイプが多くなった文化はそう遠くないうちに絶える。

 でも悲しいことに、芽が出始めた若い文化って、こういう状況に陥りやすいんだ。
 ゲームの世界では「格闘ゲーム」ブームとか、「落ち物ゲー」ブームとか、いろんなブームがあったけど、どれも最終的に先鋭化しすぎて、もはや初見さんの入っていけない世界になっていって、誰もついて行けなくて終了……という道を辿っていく。
 格闘ゲームなんてだんだんコマンドが異常なほど長く複雑なものになっていって、コンボも決まればほぼ即死……。でもブームが加熱しているときは、玄人達が「それが当然なのだ!」「それができねー奴は格闘ゲームやるな!」とか言っていた。
 なぜそう言うのかというと、みんなそういうゲームをやって初めて男性的な強さを獲得できた……という人たちだったから、その地位を守りたかった。少しでも初心者に配慮するようなシステムなんかが入ってくると、自分たちの強さを揺すられてしまう。
(外道は「精神論の問題」にしがち。精神論でしか自分たちの強さを語れない人、というのは自分がどうしてそういうふうにできるか理解していない人……なので、こういう人の話は聞く意味がない)
 芽が出始めた若い文化って、やっぱり若者が中心の文化で、そこで初めて自己実現を得たという人や、初めて男性的な強さを獲得できた、という人が多いから、文化より先に自分自身のアイデンティティを守ること……のほうを重視しがちになってしまう。そして外道になる。
 そうやってテーマが自分の自己実現にすり替わっていき、なりふり構わなくなっていくと、文化そのものが終了する。
 歴史は繰り返すものだし、若者は歴史を知らないから、この先も何度も同じことを繰り返すのだろう。
 ブームの最終期に入ってくるとひたすらに先鋭化しすぎて、ベテランのつもりの人ですら手の付けられない世界になっていく。ブームを長く続ける秘訣は、たぶん「ホドホドで止める」ことだ。
(という以前に、ゲームのブームは「5年で必ず終息する説」がある。格闘ゲームブームの衰退は、その期限が来たからにすぎない……という考え方もある)

 ただ、何もかもが大衆的であればいい……とは言わない。
 例えば新海誠作品は、『君の名は。』以前はもっと硬質感のある作品だった。もうちょっと複雑で奥行きのある作品を作っていた。ところが『君の名は。』で一気に大衆化、瞬く間に国民的作家になっていった。
 もともと新海誠にはそうなるだけのポテンシャルがあって(彼は元々天才で、もっと知られるべき存在だった)、ほんの少し作品の方向性を変えたら今みたいになった……というだけの話でもある(そう変えさせたのはプロデューサー川村元気の力)。でも、『君の名は。』からの甘口っぷりはその以前から作品を見ていた人たちにとって「うーん」というのもある。表面に乗っているのがほとんどホイップクリーム。そのホイップクリームの部分だけで100億円稼ぐだけのクオリティは間違いなくあるのだけど、ちょっと甘過ぎ。そのホイップクリームの向こうに新海誠らしいビターな苦みは今でも隠されてはいるのだけど、大衆的な方向に振りすぎて、それがほとんど見えなくなってしまった。
 新海誠はこうじゃなかったのにな……という想いがちらっとある。
 でもあれくらい甘口に振らねば、大衆作家にはなれなかった……というのも本当だし……。

宮崎駿はテレビで持ち上げられるようになり、さらに『もののけ姫』を切っ掛けに「巨匠売」をした結果、名実ともに「巨匠」になった。
(宮崎駿監督は『もののけ姫』あたりまで「テレビでよく放送されているけど、あまり知られてない人」……という認識だった。実際、そこまで映画は売れてなかった。そこでプロデューサー・鈴木敏夫が「巨匠」として改めてアピールして、これが大成功を収めて、結果として巨匠になった……という経緯がある。やはり宮崎駿も天才だったので、得るべき評価を得られた……という話だが)
 ところが宮崎駿は『もののけ姫』以降は作風が変わった。『もののけ姫』が「監督再デビュー作」と言われているが(押井守談)、この作品以降は「大衆的映画」ではなくどちらかといえば少し難解でテーマ性を持った作品を作られるようになっていった。
 でも宮崎駿のイメージはその後もずっと『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』といった初期の本当に大衆的な映画のイメージで見られ、語られていく。『となりのトトロ』のイメージで『風立ちぬ』を観に行くから、「なんか違う」という評価になっていく。
(いまだに「『となりのトトロ』の監督」というイメージが大きいから、『風立ちぬ』の時に「子供がちゃんと座って見ないから駄目な映画だ」……という批評が山ほど作られることになった。それは見方が違うだろう……といっても、一般層や浅いところにいる批評家には通じない)
 国民的作家、大衆作家として人々に認められた時には、すでに当人は大衆的な作品から少し離れていくようになっていった。そのギャップで微妙に評価が歪んでしまった作家が宮崎駿監督だ。
 宮崎駿監督がちゃんと評価されるのは、もうちょっと後の話だろう。特に後期の、複雑な作品については。

 大衆的な作品になればなるほど、どんどん甘口になっていく。そこにあるはずの奥深さといったものが切り落とされてしまう。ほとんどの人は表面に乗っているホイップクリームの部分だけを舐めて「感動した」「泣けた」と言って帰ってしまう。いやいや、その作品の本質はそこじゃない……大衆的な作品というのは浅いところでも楽しめるように作ってあるもののことだけど、そこは本体じゃないぞ。大衆的になればなるほど、文化の本質が遠退いていく。「そこは本体じゃないよ」……とうるさく言い始めたら、老害扱いされる。ちょっとでも一般層にわかりづらい複雑な話を始めると「わかりにくい物語はつまらない」と言われてしまう。なんとも難しい。
 中にはホイップクリームのところを本質だと勘違いして、「あんな下らないもの」とか言い始める人も結構いる。ホイップクリームだけなめて批評する大人に多い。
(社会的地位の高い評論家にこういうタイプは多い。社会評論家や大学の先生といった人たちだ。地位と知識はあるけど文化に対する造詣の低い人たちだ。映画評論家の中にもこういうタイプの人達はいる)
 本当言うと、ホイップクリームをなめたのなら、もっとその奥へ入ってきて欲しい。奥の奥へ行くともっと面白い世界が待っているのだから。
 しかしそこがなかなか難しい。なぜなら、みんな忙しい。一つの娯楽の前で、そこまで立ち止まっている場合ではない。
 大衆的になればなるほど、多くの人が絡んでくるようになってきて、その中で勘違いする人も一杯出てきてくる。その混沌とした様子を見て、もうちょっと「どうにかならんのか」とか思ってしまう。

 せめてそういうときに、玄人を自称している人たちが導き手になればいいのだけど……。


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