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読書感想文 ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界

この記事はノートから書き起こされたものです。詳しい事情は→この8か月間に起きたこと。

 『ハーメルンの笛吹き男』の物語はみんな聞いたことがあるだろう。あれは実話である。ただ問題なのは――何が起きたかわからない、ということだ。

 繰り返すが『ハーメルンの笛吹き男』の物語は実話に基づいた話だ。ハーメルン市参事会堂には次のような文字が書き残されている。

 キリスト生誕の1284年に
 ハーメルンの町から連れ去られた
 それは当市生まれの130人の子供たち
 笛吹男に導かれ、コッペンで消え失せた

 子供たちが失踪してから後、ハーメルン市はこの事件を忘れないように、「あの事件から〇年」というふうに年月を数えることが習慣化し、これは長く続いていたようだ。
 実際、新門には次のようなラテン語の碑文が刻まれている。

 マグス(魔王)が130人の子供を町から
 攫っていってから272年ののち、この門は建立された。

 子供たちが笛吹男についていった道は、18世紀頃まで「舞楽禁制通り(ブンゲローゼ)」と呼ばれた。子供たちが消えていった不吉なイメージが後々まで残っていたので、ここでは踊ることも歌うことも、楽器を演奏することも禁止されていた。
 1572年には教会が建てられ、その窓に笛吹男が子供を連れ去る物語が絵にして残された。この教会は、残念ながら戦時中の空襲で姿を消してしまった。

 とこのように、ハーメルン市で何かしらの事件が起きた……それを示唆する文書や残留物がハーメルン市に多く残されている。しかし問題なのは、「何が起きたか」具体的なことがわからない。130人の子供が失踪したというのに、核ともいうべき記述がどこにもなく、肝心なそこが「ファンタジー」に置き換えられているのだ。

 現代人は「130人の子供が一度につされられた」という事件をあまり重く感じないかもしれない(「子供」と表現されているが、実際には4歳から20歳までの人々だったようだ)。13世紀当時のハーメルン市には人口が2000人ほどしかおらず、そのうちの130人となると、その深刻さは少しわかるかも知れない。
 その時の詳細は、文字にはほとんど記されなかった。おそらくその時代――13世紀はそこまで文字文化が発達していなかったからではないか、というのは私の感想だが、とにかく文字での記録はなく、人々は口伝で伝説を語り継いでいった。

 1553年ごろ、ハーメルン市の人々はその地方を治める伯爵たちの争いに巻き込まれ、数人が捕虜となる。戦争といえば現代人は国同士のイデオロギー的な戦争を思い浮かべるが、そういった大規模戦争は近代になってようやくのことであって、この時代は地方の統治者たちが自分たちの権利を巡っての争い合うことが多かった。
 この時、バンベルク市長代理であるツァイトロースがハーメルンの人たちから聞いた話として、こんな話を残している。

 この町からほぼ銃弾の届く距離のところにひとつの山があり、カルワリオと呼ばれている、と市民は語った。1283年に楽師とみられる大男が現れ、いろいろな色の混ざった上衣を身につけ、パイプあるいは笛を市内で吹き鳴らした。すると市内の子供たちが一緒に走り出し、いま話した山のところまで行き、そこで沈んでいった。子供2人だけが裸で戻ってきた。1人は啞、一人は盲目であった。母親たちがわが子を求めとび出し、追いすがるとこの男は、300年たったらまたやって来てもっと多くの子供を攫うぞ、と脅したという。行方の知れない子供の数は130人であったという。この町の人々は男が再びやってくるといった300年後の1583年をあと30年と数えて、あの男がまたやってくる、と恐れおののいていた。
(221~222ページ)

 あの笛吹き男が再びやってくる……というのは後世に付け足されたっぽい話に思えるが、事件から300年経った後でも、ハーメルン市の人々にとって深刻なトラウマとして語り継がれていたことがわかる。
 ここまで克明であるのにかかわらず、しかし実際なにが起きたかわからない不可解な事件に対して、ドイツ人は古くから魅了され、ミステリを解き明かそうとした人は多くいた。

 おそらくこの伝説を最初に文字にして出版したのは、神学者ヨプス・フィンチェリウスだろう。1556年に出版された『不可思議な徴』にハーメルンの伝説が紹介された。
 この伝説を「子供向けの御伽噺」ではなく研究対象として捉えた人は、意外なくらい早く、1654年サミュエル・エーリッヒによる『ハーメルンからの失踪』だ。まだ「フォークロア(民俗学)」という言葉すら生まれていない時代に、サミュエル・エーリッヒはハーメルンに何が起きたのか、資料を集め、分析し、出版するところまで進めている。これが嚆矢となり、ドイツに「ハーメルン伝説論争」が現代に至るまで続き、様々な人が様々な説を挙げ、論争は刷新され続けている。
 大雑把にそれぞれの説の見出しだけ挙げていこう。

 シュパヌートによる1260年7月28日に起きた戦争説
 ヴォルフガング・ヴァンによる「東ドイツ植民説」
 子供十字軍説
 ハンス・ドパーティンによる「植民遭難説」
 ヴォエラー女史による集団事故説

 と、様々な人が様々な説を挙げている。

 本書はその説の一つ一つを取り上げつつ、詳しく分析を加えていくが……。あらかじめ注意するが、この本、かなりの遠回りをする。なぜなら「ハーメルン事件」を読み解くのは一筋縄ではいかないからだ。当時の世情――その時代の政治問題や、人々が置かれている状況、宗教観と対立、差別の有り様など、踏まえなければならない情報が多いからだ。
 結局のところ、著者は取り上げた説に対して、どれにも欠陥があると取り下げてしまう。しかし多くのヒントをそこから取り入れていく。なぜなら1260年に戦争は実際にあったのだし、東ドイツ植民移動はあの時代の地方には実際に行われていたし、ヴォエラー女史があげた説の中にあった祭りの狂騒も本当にあった。重要ではない説など一つもないのだ。

 本書は1284年に起きた事件を、鮮やかに解明・解決してみせよう――という趣旨の本ではない。ハーメルン事件を通して見えて来る、13世紀のドイツ文化がどんなものだったか、を紐解いていく。当時の人々の暮らしはどんなものだったのか、政治情勢や宗教観はどんなものだったのか。そこからハーメルン事件が伝説となり、現代に至り「童話」として語り継がれていくまでの間に、どんな経緯と精神史があったのかをつまびらかにしていく。
 130人の子供が失踪する……確かに大事件だが、なぜハーメルンの人々はその事件を“トラウマ”として語り継いでいったのか。その背後にある内面を解き明かしていく。読み終わったころにはすっかり中世ドイツのことを知った気持ちになれてしまう。それくらいの情報量のある本だった。

 本書から離れてしまう話だが、この機会にこんな話をしよう。
 昔の人が考える「創作」と現代人が考える「創作」は、かなり意味が違う。もちろん、昔の人も創作はしたはずだが、現代の作家のように物語……架空の世界や架空の人物や、そこから導き出される物語というものはほとんど作らなかった。昔から語り継がれてきている物語の多くは、「何か」が起き、それを忘れまいと口伝で語り継いでいったものだ。
 口伝だから時とともに、世代とともに様々な“モチーフ”がその中に混入してくる。『ハーメルンの笛吹き男』の物語だと、「ネズミ捕り」のモチーフ、「笛吹男」のモチーフ、「子供が山に飲まれて消えるモチーフ」……等々。この本を読むとわかるが、どれも「ハーメルン市の伝説」がオリジナルではない。いや、ハーメルン市の伝説がオリジナルモチーフもきっとあるかも知れないが、それはもはやわからない。どのモチーフも、実は当時のドイツ周辺で語られていた民話や伝承の中にあったもので、それらが少しずつ「ハーメルン市の笛吹男の伝説」に結びついていった。16世紀に捕虜が語った伝説の物語には、すでに様々なモチーフが混生し、合成され、現代語られている『ハーメルンの笛吹男の』の物語に近いものになっていた。
 そんな伝説も、やがて当時の人たちが感じていたリアリティが伝承から失われて、登場人物の入れ替えがあり、時に動物キャラクターに置き換えられ、事件は伝説となり、民話となり、とうとう子供に聞かせるだけの「童話」になっていく。
 古くからある物語を「子供に聞かせるだけの他愛のない物語だ」「昔の人が考えたファンタジーだ」なんて切り捨てず、時には深く掘り下げていくのもいいだろう。掘り下げていくと思いがけないものが見つかるかもしれない。それはきっと、その国の民族が共有して信じていた信仰のようなもの、あるいはその逆で恐れや不安に感じているものの根源的なものが見つかるはずだ。そのとりとめのない陽炎のようなものが、実はその民族の正体・実像にもっとも近い物だったりする。
 昔話を掘り下げていくことは精神史を掘り下げることでもある。『ハーメルンの笛吹男』も掘り下げていくと、ドイツの歴史とドイツの精神史が見えてきたように。


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