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映画感想 007 23 スカイフォール

 『007 スカイフォール』はシリーズ23作目。シリーズが始まって50周年という記念碑的な作品ということもあって、色んな意味での「区切り」となっている作品である。
 監督はサム・メンデス。1999年映画監督デビュー作『アメリカン・ビューティー』でいきなりアカデミー賞監督賞、ゴールデングローブ監督賞を受賞。その後も『ロード・トゥ・パテーション』や本作の後でも『1914 命をかけた伝令』と話題作を途切れることなく発表し続けている。『アメリカン・ビューティ』でごく普通のアメリカの家庭に横たわる「心の病」を描いたサム・メンデス監督だが、実はイギリス人。「オスカー監督が『007』を撮る」ということも話題になっているが、イギリス人として『007』をどのように捉えるのか、ということでも注目度は高い。単に「有名シリーズ作品」というだけではなく、イギリスの国家観もテーマの中に含む重層的な作品として仕上げている。
 本作の評価だが、世界興行収入は11億ドル超え。『007』シリーズ歴代1位の興行収入を獲得し、イギリスではそれまで1位だった『アバター』を越えて、イギリス歴代興行収入1位を獲得した。
 レビュー集計サイトRotten Tomatoesでは91%の支持を獲得。「シリーズ最高峰」と推す声は多い。
 英国アカデミー賞英国作品賞受賞、作曲賞受賞。米国アカデミー賞音響編集賞、歌曲賞受賞。『007』シリーズでアカデミー賞を受賞したのは1965年の『007 サンダーボール作戦』以来。英国アカデミー賞では1963年の『007 ロシアより愛を込めて』以来で、「英国作品賞受賞」はシリーズの中でも初の快挙となる。

 では前半ストーリーを見ていこう。


 ジェームズ・ボンドはトルコでとある作戦の遂行中だった。仲間達が待つ部屋で合流しようとするが、なにか雰囲気がおかしい。ジェームズ・ボンドは拳銃を抜いて、部屋の中に入る。すると部屋の仲間達はすでに殺され、ノートパソコンのハードドライブが抜き取られていた。
 ジェームズ・ボンドはすぐにでも仲間を殺し、ハードドライブを奪った何者かを追跡する。市街地を追跡し、列車の上を追跡し、激しく格闘を繰り広げる。
 しかし橋の上で仲間が誤射し、ジェームズ・ボンドは谷底へと落ちていく……。

 奪われたハードドライブはNATOの諜報員リストが保存されていた。存在さえ知られてはいけないデータである。それを奪われてしまった……。
 Mはこの件でギャレス・マロニーから引退勧告を受ける。しかしMは「こんな状況で降りるわけには行かない」と引退勧告を撥ね付ける。
 車に乗ってMI6の本部に戻ろうとする最中、例のハードドライブが解析されていることを突き止める。逆探知すると、ロンドン、MI6本部……MのPCがハッキングされている!
 逆探知だ……しかし画面に奇妙な動画が現れ「自分の罪を思い出せ」というメッセージの直後、MI6本部が爆破される。

 一方その頃、ジェームズ・ボンドはとある島で静かな日々を過ごしていた。
 身を隠す日々を続けていたが、MI6本部が狙われたことをテレビのニュースで知り、イギリスへ戻ることに。
 MI6本部が壊滅し、正体不明の“敵”に狙われるようになり、MI6は古い地下壕に場所を移していた。ジェームズ・ボンドは3ヶ月も姿を隠していたために、「復帰テスト」を受けなければならなかった。しかしかつてのような体力もないし、射撃の腕前も鈍っている。衰えを感じているのだった……。


 ここまでで前半30分。

 いつものように冒頭で派手なアクションが描かれるが、あそこまで手の込んだアクションが描かれるのは冒頭シーンだけ。本編にももちろん派手なアクションはあるのだけど、シナリオに沿ったものなので、冒頭シーンほどのびのびとイメージを繰り広げてアクションが描かれることはない。これもそのうち言及しましょう。
 前半で重要なポイントは、盗まれたハードドライブの中には各所に潜入中のNATO諜報員のリストが入っていたこと。もう一つは、Mが任務遂行を強行させたためにジェームズ・ボンドに誤射してしまうこと。
 ジェームズ・ボンドへの誤射はMの判断ミス。現場にいたイヴは命令に従っただけ。現場と指揮との間のすれ違いを描いているし、「Mの判断ミスによって一度死んでしまう」ということが後々重要になってくる。
 ゲームであれば、ここで選択肢が差し挟まれるところ。ジェームズ・ボンドは今回の宿敵である「ラウル・シルヴァ」になる可能性があった。今回の敵、ラウル・シルヴァとジェームズ・ボンドは鏡面の存在になっていて、敵でありながら同時に「自分」でもあった。「そうなっていたかもしれない」自分と対立し、勝利することが本作の大きなテーマとなっている。

 オープニングシーンをよくよく見ると、まず大量の武器が描かれ、次に墓場が描かれる。ジェームズ・ボンドの「死」が暗示されている。ジェームズ・ボンド自身の死、さらにジェームズ・ボンドと同じように任務に就いていた諜報員達の死……といったところだろうか。
 続いてジェームズ・ボンドは影に移る自分自身を撃っている。さらに鏡に映る自分自身も撃っている。これで本作のテーマがジェームズ・ボンド自身、あるいはジェームズ・ボンドの「影」であるとわかる。
 さらに映画後半には、あるお屋敷が登場する。これはジェームズ・ボンドの「由来」を暗示している。「ジェームズ・ボンドはどこからやってきたのか?」という。
 同じ存在でありながらラウル・シルヴァという「悪」に陥ってしまった男と、「正義」のジェームズ・ボンド……2人の違いはなんなのか、がテーマの中心となっている。

 今作はMの内面にも迫っていく内容だが、しかしMは基本的には無表情。
 冒頭のアクションシーンのラストで、自分の指示ミスでジェームズ・ボンドを死なせてしまった(と思った時)、Mは窓を振り向く。その横顔を捉えるけれど、基本的には無表情。あえていかなる表情も浮かべないようにしている。
 次にジェームズ・ボンドと再会した時、Mの台詞は「謝ってほしいの? お互い長い歳月。この世界のルールは承知のはず」と毅然と対応する。一切情を見せない。
 ただ、その代わりだが、カメラが微妙に揺れている。表情でも台詞でも一切「情」を見せないかわりに、カメラの揺れでひそかな動揺を表現している。
 ツンデレといえばツンデレだが、「超ツンデレ」である。カメラの揺れに気付いた人にだけ、Mの心情がわかる仕掛けだ。
 さらにジェームズ・ボンドが心理テストを受けるシーン。「スカイフォール」という単語が出た瞬間、ジェームズ・ボンドの表情が強張り、続いてMの横顔が映る。やっぱり無表情。でもカットの連なりから、ジェームズ・ボンドとMにしかわからない関係性を暗示している。
 さて、ここからMの内面は? ……と問われても相当に読むのが難しい。台詞にも表情にも表れない、ジェームズ・ボンドへの密かなる「情」。スパイの世界だから、徹底的に非情に徹しているけれど、どこかしらに「母」と「子」の関係が結ばれている。ほとんどわからないけれど、勘のいい人にだけは2人の心情がわかるような描かれ方をしている。これくらいこっそり描かないといけないくらい、2人の関係性が非情な世界の中で結ばれた親愛だということである。

 で、撃たれて生死の最中を彷徨っていたと思われていたジェームズ・ボンドは……知らないところで女とセックスしていた。おーい、お前なにやってんの! イギリスでは大変なことになってるのに、こやつは……。
 テレビのニュースでようやくMI6本部の危機を知ったジェームズ・ボンドはイギリスへ帰国。3ヶ月も任務から離れていたので改めて「復帰テスト」を受けることになったが、体力、筋力ともにボロボロ。射撃はぜんぜん的に当たらないし手が震えるし。年齢による衰えは無視できないものになっていた。
 ジェームズ・ボンドはすでに「古くさい物」。ジェームズ・ボンドは古くさい車に乗っているし、使っているカミソリも古くさい。それは『007』シリーズがすでに「古くさい物」という自覚にもとに描いている。
 『007』シリーズが50周年の節目を迎えて、さてこのシリーズはこれからも続けられるのか、これからどう描いていくのか。それ自体を問うことをテーマの中に入れ込んでいるので、あえて今まで描かれてなかったような「ジェームズ・ボンドの老い」と「衰え」を描いている。
 ジェームズ・ボンドは無敵の存在・無敵のヒーローではない。それどころか、けっこう年のいったオジさん。そこをあえて描き、ジェームズ・ボンドのリアルな人間像を浮かび上がらせている。

 続く30分を見てみよう。


 その日の復帰テストを終えたジェームズ・ボンドは、前回の任務中で胸に受けた弾丸のかけらをナイフでくりぬく。
 それを分析に回すと、弾丸のかけらは「軍隊使用の劣化ウラン弾」だった。希少な物で使う人間は限られてくる。分析班はすぐにその弾丸を使用する3人のテロリストの名前を挙げる。ジェームズ・ボンドはその中の1人、パトリスという男を追うことに。
 復帰テストの結果は「ギリギリ合格」だったが――実は不合格だった。Mの恩情で合格を与えられたのだった。
 任務に入る前に、ジェームズ・ボンドは新任のQに会い、新しい武器を受け取る。
 ジェームズ・ボンドは上海に行き、何かの任務に当たっているパトリスに遭遇。殴り合いの格闘になり、そのまま転落死させてしまう。
 手がかりを失ってしまった……。パトリスが残した道具の中に、「マカオ」と書かれたコインを発見する。
 ジェームズ・ボンドは手がかりを求めてマカオへ行く。すると上海でパトリスの「仕事」の現場にいた女と遭遇する。セヴリンという名乗るこの女としばしの言葉を交わし、そのセヴリンの(タバコを吸う仕草をする瞬間の)ほんの少しの手の震えから彼女が何かに怯えていることを察し「僕が君を助けよう」と囁く。ジェームズ・ボンドを信用したセヴリンは「波止場のキマイラ号に来て」と誘うのだった……。


 ここまでで60分。
 なんと宿敵ラウル・シルヴァはまだ登場しない。ラウル・シルヴァが登場するのはここでのやり取りの間もなく後だ。

 とりあえず、Qについてだ。
 ジェームズ・ボンドはロンドン・ナショナル・ギャラリーでターナーの絵を見ているところで新任のQが登場する。
 『解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号』とやや長いタイトルが付された1839年に描かれた絵画だ。絵のタッチで「印象派」と分類されやすいが、印象派が生まれたのは1870年代なので、正確には印象派絵画ではない。ターナーはこの頃からすでに印象派っぽい絵を描いていたので、「印象派を一世代先取りしていた作家」とも呼ばれている。この絵を描いた頃のターナーはすでに成熟期に入っていたが、しかし一方で真新しい表現も開拓していた。
 絵の詳細についてだが、軍艦テメレール号がタグボートで曳航されている様子が描かれている。軍艦テメレール号というのは、1805年の「トラファルガーの戦い」で宿敵スペインを打ち負かし、イギリスを勝利に導いた船である。しかしその船もいよいよ引退の時を迎えて、タグボートに曳航されている……という瞬間を描いている。
 そのタグボートというのが煙突を備えた蒸気船ということからわかるように、造船技術はすでに新しい時代を迎えていて、30年前に英雄的な活躍をした軍艦もすでに時代遅れ……。船ばかりではなく時代は産業革命に入ろうとしていて、古い物が駆逐されて新しいものが生まれ出ようとしている。その節目を象徴的に現した絵と解釈されている。
 この絵を熱心に見入っているところに、新任のQが登場する。Qは1963年の『007 ロシアより愛を込めて』から1999年『007 ワールド・イズ・ノット・イナフ』までたった1人の俳優デスモンド・リュウェリンが演じ続けてきた。私は『007』シリーズにそこまで馴染みがないのだけど、Q役のお爺ちゃんの姿は過去作で何度も見ている。
 デスモンド・リュウェリンは1999年に85歳でこの世を去り、以降Qは空席のままだった。それが本作で初めて2代目Qが登場する。しかもめちゃくちゃに若い!
 かつてお爺ちゃんだったQが、若い役者に交代して登場してくる。ここでジェームズ・ボンドが観ている絵画との関連性が表れてくる。古き軍艦テメレール号が小さなタグボートに曳航されていたように、お爺ちゃんのQが引退し、若いQが登場してくる。これが本作で提示する「新世代」に向けたメッセージだ。
 もう一度絵を見てみよう。夕日の光景だが、絵の中に暗部はほとんど描かれていない。かつての英雄テメレールへの労いが描かれているからだが、新時代に対しても暗さを感じていない。旧世代、新時代両方へ祝福した絵になっている。この絵を背景にしながらの若いQ登場は、かなり“粋”だったといえる。

 若いQ(ベン・ウィショー)は「お好みはペン型爆弾? あれは骨董品です」と古い時代のアイテムをやや嘲笑的に語る。
 これは『007』シリーズそのものを語っていて、『007』シリーズそのものがもう古い……と作り手側ももう気付いている。かつて『007』は奇抜なガジェットがたくさん登場し、世界征服を企むわかりやすい悪党と楽しい活劇を繰り広げる作品だった……らしい(実は観てない)。
 その時代を懐かしむオールドファンも多いが、しかし現代でかつてのような夢一杯の秘密道具とガジェットを復活させるわけにはいかない。なぜなら時代観が合わない。映像の世界はかつてと比較できないくらい重厚なものになっている。そうした中でかつてのような秘密道具なんぞ出すと、水と油のように浮いてしまう。漫画にしかならない(抽象度が上がってしまう)。時代観と合わないけれど、『007』といえば、どちらかといえばそっちのほう。『007』のほうがすでに時代感覚と合っていないのにかかわらず、映画シリーズは今も続いてしまった。
 ピアーズ・ブロスナン時代の『007』はずっと時代の狭間で苦しみ続けていた。「あれは007らしくない」とさんざん言われていた。「『007』といえばこういうものでしょ」というファンの声と、その意見が時代感覚と合っていないという葛藤がずっとあった。どうやったら時代感覚とうまく符合させた『007』を制作できるか、作り手のほうも苦しんでいた。
 しかも『007』の周りには今やたくさんのライバルが登場してきている。トム・クルーズ主演のスパイ映画シリーズ『ミッション・インポッシブル』。『ミッション・インポッシブル』には昔の『007』のような秘密道具と非現実的なアクロバティック・アクション満載で、『007』より先んじて「今」という時代感覚を掴み取り、大ヒットシリーズとなった。
(これはトム・クルーズという希代の俳優がいたからうまくいったのであって、他の俳優が『ミッション・インポッシブル』のようなことをやってもうまく行かなかっただろう)
 もう一つのヒットシリーズ『ボーン・アイデンティティ』から始まる映画は、リアルな社会背景、超高速カットスピードで新たなスパイ映画像を開拓した。さらに『キングスマン』というイギリスを舞台にしたスパイ映画も生まれている(私はまだ未見)。
 そうした中で、どことなく居心地悪そうにしているのが『007』シリーズだ。古くさい。オールドファンの声が大きすぎる。なんとなく型にはまっちゃってる……。
 むしろ古くささを一部で意識的に引きずりつつ、もう一方で新しく刷新する。それが本作の狙いとなっているところだ。“古さと新しさの融合”……これが本作『007 スカイフォール』全体で示そうとしていたテーマである。

 ただここで登場するアイテムであるワルサーPPK。「DNA認証でジェームズ・ボンド以外の人間には撃つことができない」という銃だ。
 と、いうことはどこかでこの銃が奪われるんだな……と次の展開が予想できてしまう。その予想通りの展開が描かれてしまう。「そういう展開を作るためのアイテム」ということが見えてしまって、作劇上あまり感心しない。あそこはもうちょっと捻ってほしかったところだ。

 さて、上海へ行き、任務に当たるジェームズ・ボンド。上昇して行くエレベーターに軽やかに飛びつくのだが……しかし途中で体力がなくなっていき、落ちそうになる。ここでも「年齢」がジェームズ・ボンドにのしかかってくる。やっぱりオジさんなのだ。
 続くバトルシーンも、一生懸命やっているが、そこまで冴えない。「オジさんのジェームズ・ボンド」という設定を込みで描いているからだ。
 映画の冒頭シーンで派手なアクションが披露されたが、以降あそこまでの活劇が描かれないのはこのため。
 映画の派手なアクションシーンはしばしば映画の本編ストーリーと外れていることがある。『ミッション・インポッシブル』で格好いいアクションシーン、危機一髪のスタントシーンの多くは、“映画本編のストーリーからやや外れたところ”で展開している。このあたりの説明は、前回の感想文に書いたから、そちらを参考にしてほしい。こういうのは『ミッション・インポッシブル』に限らずよくあることで、クリエイターが妄想を自由に広げて描いたアクションシーンは、物語本編のドラマと絡まない。
 アクション映画は後半戦に向けてドラマとアクションが混じり合ってきて、緊張感が高まってくるが、しかしアクションシーンだけを抽出した場合、実は平凡ということが非常に多い。それどころかドラマが邪魔をして、シーンとして鈍重。
 しかし映画を観ている人の多くは、「映画後半のアクションシーンが退屈」ということに気付かない。それがドラマの効果だ。ドラマの効果があるから、自由気ままに展開しているアクションよりも、ドラマが絡んでくるアクションの方が「手に汗を握る」ような感覚になる。アクションの精彩さとドラマが本当に絡んでいる……という映画は実はそうそうない。
 本作『007』のアクションだけど、全体を通してドラマとしっかり結びついているから、冒頭アクションシーンを除くとどれもさほど精彩さはない。「オジさんのジェームズ・ボンドが無理して頑張っている」ということを込みで描くようにしているからだ。アクションとしてはやや地味になるが、しかし「人間としてのジェームズ・ボンド」を描く上では、意義が出てきている。

 ボンドガールことセヴリンを追いかけて、ヨットに乗る。いちおう帆船なので、ターナーの絵と符合していると言えば符合している(ちょっと強引だけど)。
 そのヨットの名前が「キマイラ号」。「合成怪獣」を名前に冠している。
 このキマイラ号に乗って行く場所だが、長崎の「軍艦島」にそっくり。どういうことかというと、軍艦島で撮影しよう、ということになり下見までは行ったのだけど、そこで撮影をするのは建物が老朽化しすぎて危険……。そこで資料写真を大量に撮り、架空の島をCGで作り上げることになった。それでも一応軍艦島がモデルになっているので、エンドクレジットにはその名前がきちんと残されている。

 ここでようやく本作の宿敵ラウル・シルヴァが登場する。ラウル・シルヴァはかつてMI6所属の諜報員だったが、香港での作戦中敵に掴まってしまった。仲間達が助けてくれる……それを信じて待っていたのだが、結局助けは来ず。奥歯に仕込まれた毒で自殺を図るが、自殺に失敗して……。
 Mを信じていたのに、Mに裏切られた。しかしMに対する愛情が完全に途絶えたわけではなくて……。Mのことを「ママ」と呼び、愛情と恨みの両方を抱く、奇怪な怪物に成り果ててしまった。
 冒頭でも示されていたように、ジェームズ・ボンドもラウル・シルヴァになってしまう可能性があった。ラウル・シルヴァはジェームズ・ボンドの「影」である(ジェームズ・ボンドも普段からMのことを「マム」と呼んでいた)。ジェームズ・ボンドにとってラウル・シルヴァは他人であると同時に、自分自身。自分の幻影と戦う……というのが本作の終局的なテーマとなる。

 その舞台となるのが、ジェームズ・ボンドの生家となる「スカイフォール」。ジェームズ・ボンドはかつてのシリーズに登場した古くさい車に乗って、自身の起源となる場所へと遡り、自分がそうなったかもしれない幻影と戦うのである。
 そのスカイフォールというのが、これまた古くさいスコットランド貴族屋敷。古くさいが、ジェームズ・ボンドが古い貴族の高貴な愛国心を持っていることが建物で示されている。
 ジェームズ・ボンドとラウル・シルヴァがどこで分かれたのか、というとこの出自の差。ジェームズ・ボンドは率直な愛国心が地脈として流れていたから、冒頭でMの判断ミスで撃たれた後でも、相変わらずMI6への忠誠心を失わずに済んだ。

 それでは「スカイフォール」とは何なのだろうか?
 これは映画評論家の町山智浩が非常に優れた考察を示してくれていたので、そのまんま引用しよう。

町山智浩『スカイフォール』タイトル他の意味

 「スカイフォール」すなわち「天が落ちる」はおそらく古代ローマの格言「天墜つるとも、正義を成就せしめよ(Fiat justitia, ruat caelum)から来ているのではないか、と推測している。
 ただし、別の解釈も存在している。「脚本家が煮詰まった深夜にふと思いついた言葉で、特に意味はない」……という関係者の証言もある。どちらが正しいかは、見る人次第だ。
 とりあえず、ローマの格言「天墜つるとも、正義を成就せしめよ」説を信じて掘り下げるとしよう。
 この格言の「天」とは「天国」を指している。すなわち、天国が「墜つる」ような事態が起きたとしても、正義を遂行せよ……という意味である。「天」にはあの世の「天国」という意味もあるが、同時に権力者のいる場所を示している。本作の場合だとMI6そのもの。そのMI6がラウル・シルヴァにハッキングされて、爆破されてしまった。まさしく「天墜つる」事態である。
(冒頭シーンの、橋という高所からの落下にも掛けているのかもしれない)

 MI6は時代にそぐわないのではないか、時代遅れなのではないか。Mは英国議会で問い詰められた時、テニソンの詩『ユリシーズ』で答える。

かつて天と地を動かした、あの強さを我々は失った。
だが英雄的な心は今も変わらずに持っている。
時代と運命に翻弄され弱くはなったが――、
意志は強く、戦い求め、見出し、屈服することはない。

 この詩のタイトルになっている「ユリシーズ」とは「オデュッセウス」のことである。オデュッセウスはトロイの木馬作戦で勝利を得るが海神ポセイドンの怒りを買い、20年間地中海に幽閉されてしまう。
 20年に及ぶ航海の果てにようやく母国イタケーに帰り着くが、オデュッセウス自身すでに老いているし、共にした仲間達もみんな死んでしまっていた。
 年老いてかつてのような強さを失ってしまった。だが英雄としての「心」は決して失っていない。時代と運命に翻弄されつつも、まだ意思は強い。自ら戦いを求め、敵を見出し、決して屈服することはない……。
 敵というのは、いつもわかりやすい姿をしているわけではない。どこかの国、どこかの組織……。そういうものではないところから「国家の敵」は姿を現す。既存の組織が抵抗できるのは、どこかの国やどこかの組織という明確な名前と姿を持った者だけ。そういうものは容易に危機を想定できる。警察も軍隊も、基本的には「事態」が起きてからやっと出動し、対策に当たる。事前に組織の内部に入り込んで危険を「芽から摘む」なんてことはしない。
 MI6はそういう想定から外れたところからやってくる敵に対処する。「国家を守る」ということは、そういう暗くただれた泥臭い努力の末に達成させられるものなのだ。
 「敵を求め、見出し、屈服することはない」――とはそういうことを語っている。愛国心と、敵と戦う情熱……それを映画の中で語らせる。これが『スカイフォール』をただのスパイ映画ではない、特別な一作に変えている。この言葉がジェームズ・ボンドの精神の底流に流れているから、彼はラウル・シルヴァになることなく、「正義を成就せしめ」ることができたのである。

 『007』も50年という節目の時期にやってきて、このシリーズが何なのか、今後どうすべきなのか? それを問うた作品が、『スカイフォール』だった。
 この問いかけは全面的に大成功を収めている。50年も続いた『007』は古くさい。しかしオデュッセウスのように国家の敵と戦い続ける情熱は絶えていない。そのことを見せるために、あえて古くさい、オジさん臭さを全開に出していく。その一方で、世代交代、若い世代への刷新を描いている。
 『007』は今でも健在だ! それを示した見事な1本だった。


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