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4月18日 脳内イメージには「解像度」がある。人によってこの解像度の鮮明さには差がある……という話。

多くの人は、犬と聞くと動物の犬を頭の中で思い浮かべることができますが、中にはイメージを視覚化することのできない「アファンタジア」の人も居ます。アファンタジアの当事者である神経科学者が、アファンタジアとはどのような感覚なのかを解説しました。

 また新しい言葉が出てくるなぁ……「アファンタジア」ですって。

 記事にはまあいろいろ書いてますけれど……。
 ちょっと内容に異議がある。異議というか、「アファンタジア」なんて新しい言葉は必要ないかな。

 私がかねてから考えていることは、人間の思考力には限界がある……ということ。
 前にもお話ししたよね、これ。

 人間の脳には「脳内RAM」あるいは「脳内メモリ」というものがあって、もしも人間がコンピューターであると仮定した場合、1分間の視覚情報、音声情報をデータ保存しようとすると何メガくらいになるか?

 ChatGPTに推論を出してもらったのだけど、音声データを非圧縮音声として記録した場合1分間で16ビットサンプリングレート44.1kHzで約10メガバイト程度となる。
 視覚情報を720pの解像度で1分間保存した場合、10~50メガバイトくらいになる。

 ここから、おそらく普通の人々が脳内で考えることができる領域というのは、データ量にして180メガバイトくらいじゃないか……。
 というこれは根拠があるわけでもなく、「だいたこれくらいじゃない?」という話。
 これを越えると、考えていることはトコロテン方式で忘れる。例えば、何か仕事をしながら、後でコーヒーでも入れよう……しかし仕事に没頭していると忘れる。買い物に行った時、あれを買っておこう……だいたい忘れる。風呂に入った時、あれ? シャンプーしたっけ? ……これもよくある。人間の脳内に保持できる物事の容量は思った以上に少ない。
(脳内ストレージのほうはそこそこ大容量です。ただし、読み出すのに時間がかかるし、切っ掛けがないとまったく思い出せなくなることもある。しかも年を取ると、ストレージへの新規書き込みも難しくなる。私なんて、若い人の顔なんてぜんぜん覚えられんのじゃ)

アンドリュー・カーネギー  1835~1919 スコットランド生まれの鉄鋼王

 かつてアンドリュー・カーネギーというアメリカの実業家がいた。この人は悩みが多かったらしく、いつも悩み事を抱え、その悩み事の多さにまた悩むというほどだった。
 それでカーネギーはある時、自分の抱えている悩み事を紙に書き出してみた。すると、悩み事の数はたったの10コほどだった。
 このエピソードからわかるのは、たった10コの悩みでも、人は自分の悩みに押しつぶされて行動できなくなってしまう……ということ。
 たった10コの悩みで……と思われるかも知れないが、しかしこれは多い方だ。普通の人々は、1コや2コ程度の悩みでいつまでも「どうしよう、どうしよう」と悶々とし、行動不能に陥ってしまう。それを10コも抱えていたから、相当なものだった。
 それで、カーネギーは自分の悩みを紙に書き出してみて、悩みの数はたった10コだった、ということに気付いてからは気が楽になったとか。どういうことかというと、それまでは頭の中だけで「どうしよう、どうしよう」と気を揉んでいたが、紙に書く、つまり頭の中で考えていることを外部化してみる、それだけで「これはこうすればいい」と一つ一つの問題に対する解決法が見えたからだという。

 こういう話からわかるように、人間の脳みそって、人間はあまりにも過大評価しすぎているけれど、「容量」自体は思った以上に少ない。少ない、と思っておいたほうがいい。
 頭の中だけで思考を転がす、悩み事を考える……これは良くない。頭の中なんてメモリがたいしたことがないのだから、頭の中だけで考えてたって解決策が見つかることはない。紙に書き出して、俯瞰したほうがいい。「頭の中だけで考える」は、小さいコップの中で玉を転がしているような感覚だ。外に出して考えたほうが、格段に解決策が見つかる可能性は高くなる。
 とにかく「悩み事は紙に書け!」と言いたい。それが悩み事を解消する、一番手っ取り早い方法。

 で、今回の話は、「イメージ力」の話ね。
 さっきも書いたけれども、人間は人類の脳みそを過大評価しすぎている。よく「想像力に限界はない! 誰でも無限のイメージ力がある!」って言うでしょ。あれは嘘。そんなわけないじゃない。人間の脳みそ(脳内メモリ)の容量はだいたい180メガバイトくらいだ……としたら、無限の想像力なんてあるわけないよ。限界があるよ。
 限界があるし、「指向性」もある。
 例えば私の場合、イメージ力に特化した脳力を持っていて、自分オリジナルの映画を脳内で上映することができる。そういう映画を脳内で作って、それを脚本に書き起こす……ということができる。
 この能力は、クリエイターの世界では別に珍しいことではない。ほとんどの人ができるはずの能力。ただし、私の脳内映画は極めて解像度が低いので、脳内で上映した映画をそのまま絵に描き起こす……ということができない。書き起こそうとすると「あれ? ここのシーンどうなってたっけ?」とあやふやなところが一杯出てくる。
 本当に凄いクリエイターというのはこの解像度が異常なほど高い。一流アニメーターが描いた絵コンテ……例えば沖浦啓之や今敏の絵コンテなんか見ると、もうその時点で映画ができあがっちゃってる。脳内で見えている画面の解像度が異様なほど高いからああいうものができる。大友克洋まで行くと、画面に描かれていないもの、例えばその家の中に入って、タンスに何が入っているか、というところまでイメージができるんだそうだ。ああいう本物の天才には勝てん。

『人狼』の絵コンテ。作・沖浦啓之。すでに映画ができあがってますやん。本当に想像力の凄い人は、これだけ克明なイメージができる。

 私はこういうふうにイメージ力にむやみに特化しているわけだけど、しかしそれ以外のものに関すると急にダメになる。音楽は何を聞いても良い・悪いの区別が付かない。料理も良い・悪いの区別が付けられない。味の好みはなんとかわかるが、その味の質が高いか低いか、なんてまったくわからない。高級レストランの味なんて認識できないから、食べても無駄だ……と思っている。

 こんな話からわかるのは、物事を感じる能力には「指向性」がある。
 私は映像や絵画についてはそこそこわかる。しかしそれ以外のもとになると、まったくダメ。それが私の指向性。
 こういう指向性は誰にだってある。人によっては映像や絵画を見ても、良い・悪いの区別がまったく付かない。こういう人でも、音楽に関することになると、ものすごい解像度で理解できるかも知れない。

 で、今回新しい言葉として出てきた「アファンタジア」だけど、これ、単なる指向性と解像度の問題だよ。人によっては一つの絵画を見て、ものすごい解像度で理解できるけれど、人によってはそうじゃない。アファンタジアの説明を見ると、イメージ力について「0か1か」という話をしているけど、いやいや違う、もっと細かいグラデーションがありますよ。一見するとイメージ力0のような人でも、まったくの0ではなく、何かしらのイメージは喚起しているけれど、ただそのイメージ力の解像度が極端に低いだけ。
 アファンタジアの理論は、イメージ力を雑に捕らえすぎている。これは「解像度」の高いか低いか……で考えないと。
 ただ、それも「脳内」だけの話なので、その解像度の高い・低いを客観的に検査する方法なんてないんだけど。

 話はここで終わりなのだけど、ちょっとTwitter(X)で気になるお話しを拾ってね。
 というのも、「一般の人は絵の良し悪しはわからない」という。とある人は、ある漫画の絵を「下手だ」と言う。しかしその漫画の絵は、誰がどう見てもめちゃくちゃに上手い。どうしてその人は、その漫画の絵を「下手だ」と言ったのかというと、キャラクターの目・鼻・口のパーツが古くさいから。それ以外の根拠は特になかったという。
 そんな話を見ていて、「あー。そうだよ、普通の人はそんなもん」とこっそり思った。
 私のような人間は、絵を極端に解像度を高く捕らえている。パース、デッサン、色彩構成、構図……見た瞬間に色んなものが見えてくる。上手いか下手か、なんて一瞬でわかる。でも普通の人々はそうじゃない。パースやデッサンなんてものは一切見ていない。そういうものをいくら言っても理解しない。残る審査基準は「好み」だけ。
 問題なのは、その「好み」しか審査基準を持ってないことに自覚がないこと。自覚がない上に、なぜか作り手に対して上から目線になる。なぜそうなるのか、それは色んなものに対して解像度が低いから。解像度が低すぎると、自分の考え方が浅いかどうかも自覚できない。

 話はちょい飛躍するけどね、物事を考える力は誰でも平等……というわけじゃないんだよ。単純にしか物事を考えられない人は一杯いる。単純な善悪二元論でしかものごとを考えられない人は一杯いる。それこそ、学歴優秀と思われている人たちの中にも、実は脳内メモリは低いという人は一杯いる(暗記力と脳内メモリの大きい・少ないは別問題)。
 こういう人々に、一つの物事にはいろんな背景があるんだよ……といくら諭しても理解できない。
 最近はこういう事例を、ネットで山ほど見かけるようになったけどね。いや、こういう解像度を低くでしか物事を考えられない人は一杯いたけれど、ネットの時代になって“見える化”しちゃった。

 話を畳むと、ある対象に対し、極端に解像度低めにしか見ることができない人なんて、いくらでもいる。視点を逆にすると、私たちのような人間の方がちょっとおかしい。普通の人は、そこそこの解像度で日々なにも問題なく過ごしている。解像度を低くしか物事を考えられいから「情動」だけで物事の価値観を決める。でもそれは「動物化」している状況に過ぎないんだ、と厳しく戒めなくちゃいけない。
 私だって、視覚情報に特化しているだけで、音楽に関してはぜんぜんダメ。音楽に詳しい人は、メロディを聴くと脳内で楽譜が生成されるんだとか。私は音楽を聴いても、そういう解像度を持つことができないから、音楽に関しては「語らない」と決めている。というか、何も語れない。
 自分がどの程度の解像度を持っているのか、自覚したほうがいい。
 そうは言っても、脳内で起きていることだから、自分の解像度がどの程度か、認識するのは難しいかも知れないけど。
 それに、思考の解像度の低い人は、自分の解像度が低いことに気付くことはできない。


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