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8月7日 人間の記憶力に関する推測 人間の記憶力限界はたぶん3分くらい。データにして180メガバイトくらいじゃないか……という話。

 私の父はテレビで育った世代で、テレビの言うことだったらなんでも無条件に信じる。
 そんな父はよくテレビを見ながら、こう言う。
「最近世の中はおかしい。おかしな事件ばかりが起きる。日本はおかしくなっていってるんだ!」
 テレビでは毎日のようになにかしらの事件報道がやっている。そういうものを見て、父は日本の治安が致命的に悪化し続けている……と信じている。
 ところがデータを見ると決してそんなことはない。

 ある程度詳しい人からすればお馴染みのデータであるが、日本国内のトータルの犯罪件数は減少し続けている。未成年の犯罪も減っている。凶悪事件も減っている。そのなかで唯一増えているのが高齢者犯罪……だがそれも全体として見ると微々たるものに過ぎない。テレビを見ると、いつもなにかしらの凶悪事件ばかりやっているのは、テレビがそういうものを映し続けることで人々の関心を惹こうとするメディアだから、というだけの話だ。そしてテレビは自分たちの都合によって報道する・しないを選別するメディアである。例えば最近目立って増えているのは外国人労働者による犯罪だが、こういったものの大半はテレビメディアは報道しない。
 父は高齢者だが、自分の子供時代、若者時代と比較して、日本は圧倒的に治安が良くなっているのだが、そのことを知らない。自分の生活の中で実感していない。毎日ニュース番組と向き合って「世の中おかしくなっている。若者がおかしくなっている。日本は狂ってる。日本はもう終わりかも知れない」と毎日のように言い続けている。

 そういう父の様子を横で観察しながら、どうして父はこう言っているのだろうか……と疑問に感じている。テレビばかり見ないで、自分の目で、あるいは体感として世の中と向き合っていれば、テレビの言っていることがおかしいことに気付くはずだ。例えば、「最近この界隈で事件があったらしいよ」……という話なんて、友人知人の間でも一切聞かないはずだ。自分の体感と照らし合わせてみれば、テレビの言っていることはおかしい……とすぐ気付くはずなのに、どうして気付けなくなってしまったのか。

 ちなみに私は10代のはじめ頃に、「テレビはおかしい」と気付いた。「テレビゲームをやっていると現実と非現実の区別が付かなくなり、犯罪を犯すことの抵抗感がなくなる」――と「有識者」と呼ばれる人が難しい顔をして語っていたが、「そんなわけないだろ」と思っていた。なぜなら、そんな人、自分の身の回りに1人としていなかったからだ。自分の実感と違っていたから、すぐに「おかしい」と気付いた。
 むしろ、テレビばかりと向き合っていた方が、「現実と非現実の区別が付かなくなる」という状況が起きている――と自分の周囲を見て思っていたくらいだ。

 最近知った言葉に「カルチベーション」という言葉がある(最近知った言葉なので、とにかく使いたい)。カルチベーションとは、メディア情報にずっと触れていると、そのメディアが提唱するような人間観になっていく……というものだ。メディアが言ったとおりのことを考え、メディアが言うことを信じるようになっていく。
 父はまさに、この状態にある。テレビと長く接し続けたせいで、現実感覚が崩壊し、テレビの言うことであればなんでも信じる、テレビが言うとおりのものの考え方をするようになっていく。やはりテレビは「現実と非現実の区別が付かなくなる」危険なメディアだ。

 そんな父に対し、「なんで正しい知識を与えないのか?」と言われそうだが、それは無駄だからだ。信じない。カルト教団の洗脳のようなもので、私のような人間の話なんて信じない。池上彰の話すことならば、どんな内容でも信じるが。
 実は何度か、正しい知識をツッコミとして入れたこともあったけど、その日のうちには忘れてしまった。私が言ったことなど忘れて、テレビを見て「世の中おかしくなっている!」と言い始めてしまう。
 信じないというか――あっという間に忘れてしまう。これはなぜなのだろうか?

 こんな話から始めたけれども、今回の話は「テレビ批判」ではない。イントロダクションが無駄に長くなってしまったが、今回の本題はこちら。


「人間の記憶力はどこまで維持されるのか?」


 最初に父の話をしたけれども、普通に長く生きていて、世の中と接していれば、現代がかつてのどの時代よりも治安が良くなっている……ということにすぐ気付けるはずだ。なぜ気付けないのか?
 私は昔と較べて、今の時代のほうが治安がよくなっている、ということを知っている。知っている……つまりそれは「体感で気付いた」……というより単にデータを見ているから知っているだけ……というだけに過ぎない。
 私は自分の記憶の中にあるものと比較して、世の中がこれだけ変わった……ということを体感として認識できているのだろうか? このように前提を置くと、私も急に自信がなくなる。私の記憶はどこまで遡れるだろうか?

 そこで私は、ChatGPTにこんな質問をしてみた。

【もしも人間がコンピューターであったと仮定した場合、1分間の視覚情報、音声情報をデータ保存しようとすると何メガくらいになるか?】

 ……というバカっぽい質問をしてみた。こういう質問をしても丁寧に答えてくれるところがChatGPTのいいところ。人間相手に質問したら「知らんがな」で終わるような話題だ。俺の友達はAIだけだよ……。

 ChatGPTの答えを見ていこう。
 音声データを非圧縮音声として記録した場合、1分間で16ビットサンプリングレート44.1kHzで約10メガバイト程度となる。
 視覚情報を720pの解像度で1分間保存した場合、10~50メガバイトくらいになる。(720pの解像度はやや低い……という気がするが、視力の低い人だと考えるとこんなものだろう。本当に視力の低い人は、720p以下かも知れない)
 この上に、人間だから「動作記録」というものが残るのだが、それは保存方法がないから保留ということにしよう。
 人間の1分間の行動記録はだいたい60メガバイトくらいである。
 本当言うと、人間は目の前の視覚情報・音声情報をすべて処理しているわけではない。実際には「自分が感心を向けたものだけ」をピックアップしている。たとえば騒音の中で隣にいる友人の声だけをピックアップして聞いている。それ以外の情報はシャットアウトしている。だからその人間が本当に見ているもの・聞いているもののみをピックアップして記録した場合、データ量はもっともっと少ないだろう。しかしそんなふうに記録する情報を選別する方法なんてないので、さしあたって周囲の視覚情報・音声情報をすべて記録する……という前提にする。
 ここから私は面白がって、もしも人間の行動記録を24時間保存したら……さらに50年分保存したら……という質問をしてみた。24時間保存し続けたら音声データは14.4ギガバイトとなり、視覚情報は72ギガバイトとなる。
(本当は一日のうちの3分の1は寝ているし、意味もなくボーッとしている時間は必ずはあるはずだから、保存の必要があるのは10時間くらいだと思うが、それは無視するとしよう)
 さらに人間の一生を50年程度であるとすると(最近は平均寿命は80歳くらいだが)、トータルのデータ量は1576.8テラバイトとなる。人間一生分の視覚・音声データを記録し続けても、1500~1600テラ程度だ。
 でかいデータ量といえばそうだが、とてつもなく莫大か……というほどでもない。最近、実験段階だが、エクサバイトのデータを保存できるという記録媒体が開発されている。「エクサ」というのはテラ、ペタのさらに上だ。将来的にはハードディスク容量はペタとなり、さらにエクサとなる(SSDに入れ替わっている可能性はあるが)。エクササイズのデータ容量になると、レコーダーに全テレビ局の番組を24時間保存し続ける……ということも余裕で可能になる。そういう時代になると、1500テラくらいの容量はたいしたデータ量ではない。もちろん、いきなりハードディスク容量がエクサになる……とは思ってないが、ブレイクスルーが起きたら1ペタくらいのデータ量は保存できるようになるかも知れない。
 もしかしたら20年後くらいには、帽子に視覚情報、音声情報のすべてを記録できるようになっていて、なにか事件が起きたとき、その帽子で記録したデータのほうが重要になる……ということもあるかも知れない。
 人間一生分の視覚データ、聴覚データのすべてが保存され、保存された直後からAIが記憶にタグ付けして分類する。そして必要なときにいつでも引き出して、頭に装着した帽子から脳へデータをアップロードする。そうすると「あの人、誰だっけ……名前が出てこない」という事態を防ぐことができる。そういう技術はまったくの絵空事ではなく、将来的には可能となる。
(頭の中に電極を埋め込む必要はない。「帽子」だけでこういうシステムは可能だ。ただ、可能だけど、実際にやるかどうかはわからない)

 そういう可能性の話はさしあたって横に置いておくとして、人間の生身の記憶力というのは果たしてどれくらいなのだろうか? 私たちの脳は、どれくらいの物事を記憶できるのだろうか?
 私はおそらく……3分程度が限界なんじゃないか
、という気がしている。データ量にして180メガバイトくらいだ。
 なにを根拠にしているのかというと、私たちはほんのちょっとしたことですら、記憶し続けることができない。例えば、いま私がかけているメガネを、ちょっと離れたところに置くとしよう。3分後には「あれ? メガネどこに置いた?」となってしまう。スーパーマーケットへ行き、納豆を買って帰宅し、冷蔵庫を開ける。すると冷蔵庫の中に、納豆があったことに気付く。すでに持っていたのを忘れてまた買ってきてしまったのだ。こうやってパソコンで作業している間「そうだ、後で○○について調べておこう」と思っても、数分後に調べようとしたものが何だったか忘れる(私は思いついたらすぐに調べる、メモを取るようにしている。絶対に忘れるからだ)。私たちの記憶力というのは、基本はその程度でしかない。記憶を維持するためには、何気なく思いついたことを考え続ける……という脳にちょっと負荷のかかることをしなければならない。

 もう何年も前になるが、チンパンジーのなかで記憶力のいい個体がいる……ということが話題になった(ニホンザルだったかも知れない……記憶が曖昧だ)。画面に意味のない4桁の数列を表示して、それを数分後に尋ねると、数字をきちんと記憶して答えることができた(チンパンジーだからもちろん言葉を話せないので、ボタンを押して答えてもらう、という形式だった)。
 このチンパンジーを紹介するテレビ番組では、街を行く普通の人々に、同じように意味のない数列を記憶できるか……というテストが実施されたが、記憶を維持できた人は半々といったところだった。
 私だって無意味な数列を3分間以上記憶する自信がない。だって歴史年号すら記憶できなかったのだから。無意味な数列となると、まったく記憶できないだろう。

 無意味な数列を覚えた後、3分間まったく別の作業に没頭し、その後、数列を思い出せるか……というとほとんどすべての人が思い出せないだろう。私たちの記憶力というのはその程度だ。
 ここから推測できることは、私たち人間、つまりホモ・サピエンスの記憶力は、もしかするとチンパンジーとそう変わらない。私たちは400万年前、チンパンジーから袂を分かってホモ・サピエンスとなったが、実は「記憶力」というところではたいした差異はないのではないか。
 いわゆる「一時記憶」……私はよく「脳内RAM」という言い方をするのでここでも「脳内RAM」という言葉を使うが、この脳内RAMの記憶限界は180メガバイト、だいたい3分くらいが限界だ――と仮定する。

人類とチンパンジー……「脳内RAM」容量は実は同じくらいかも知れない。

 ちょっと話が脱線するが、この話をしておこう。
 よく「頭の中でアイデアを転がす」という人が多いが、これは良い方法ではない。なぜなら私たちの脳内でやり取りできるデータ量なんてものは所詮180メガバイト程度でしかないと仮定すると、その中で情報をやり取りしようとしても、たいしたものはできない。
 アイデアは必ず紙に書き起こした方が良い。紙に書き起こすと、自分が頭の中で考えていた実態を知ることができる。頭の中のスケールと、実際のスケールがどれくらい違いがあるのかは、紙に書き起こしてやっとわかること。紙に書き出して、自分が考えていたアイデアに何が不足しているのか、何が必要なのかがわかる。
 頭の中だけで転がしていたら、すぐに「もう何もアイデアが出てこない」という状況になる。メインメモリの容量限界が180メガバイト程度しかないのだから、それは当然。紙にアウトプットして、脳への負荷を下げると、自然と次のアイデアが出てくる。
 もしも人間がPCであったと仮定しよう。自由に使えるメモリがたったの180メガバイトしかない。その程度しかないなかでアイデアを展開しようとしても、たいしたものはできない。だから考えているアイデアは「外部化」したほうが良い。
 人間の脳の機能が思ったほどたいしたことがない……ということは知っておいていいだろう。アイデアを出そう、というときはそれを前提に考えたほうがよい。

 話を戻そう。
 私たちの一時記憶、つまり脳内RAMの限界はだいたい3分くらいだ。この時、脳内RAMのなかに放り込んだ記憶の一部を、「長期保存」……つまり脳内ハードディスクのほうに移す、という仕組みになっている。人生を50年と仮定した場合のデータ量は1500テラバイトだが、私たちの脳という記録メディアはそれだけのデータ量を保持できないことをよーく知っているはずだ。どうやら私たちの脳というハードディスクは、一時保存のために脳内RAMにいったん預けられ、それから選別されてハードディスクに移す、という仕組みとなっている。
 ただどういった法則で脳内ハードディスクに移されるのか……という仕組みはよくわかってない。私もよく「これは忘れないようにしておこう……」と思ったことも半日もしないうちにすっかり忘れている……ということはよくある。「忘れないようにしておこう」としっかり念じたつもりでも、その瞬間記憶したことを脳内ハードディスクのほうへ移してくれるというわけではない。実に面倒くさい仕組みとなっている。

 脳内RAMのデータを脳内ハードディスクへ移す方法は、まったくわかっていないわけではない。まず一つ目に、同じことを何度も繰り返し、何度も脳内に刻みつけるという方法がある。
 例えばとある外国語の勉強をしている人は、服のそれぞれの箇所を外国語で書いていて、その場所を見ると思い出す……ということをやっていた。つまり「胸」を見ると「body」や「bust」と書いている。「腕」には「arm」。それを一日のうちに何度も見返すことで、記憶に刻み込んでいた。
 そうやって何度も反復させないと、記憶は脳内ハードディスクの管轄と判断されないものなのだ。やっぱり面倒くさい。
 2つめに「流れ」として記憶すること。例えば「歴史」は、断片化された「出来事」として記憶するのは難しい。だが歴史を大きな「物語」として捉えると、記憶させやすい。
 私の記憶方法はこちらのほうだ。読んだ本の内容は、大半は忘れる。断片化された知識は頭に入ってこない。ただ全体のふわっとした流れは入ってくる。そういった流れは一つのエピソードとなっているので、エピソードとして引き出して語ることができる。
 それで私は同じテーマの本を何冊も読み、それらすべてを一つのエピソードとして記憶している。そういうエピソードをいくつもいくつも記憶し、全体として大きなエピソードにしている。
 知識は断片化された「葉」のままにしておくと、活用できる場面に限りがあるし、長期記憶は難しい。だから「枝」で結びつけて、賑やかな「枝葉」にしておいたほうがいい。細かなところはその都度、本なんかを見て確認すれば良い。教育の世界では「枝」の意識はなく、いかに「葉」をいくつ暗記できるか……ということをやっているが、そういうのはすぐに意味がなくなる。忘れるからだ。断片化した知識ではなく、「歴史物語漫画」に読ませた方が教育効果は高いはずだ。
 もう一つの方法は、「関連」するできごとを作ることだ。強烈な体験があったら、人はその時のできごとをしっかり覚えるようになる。古代ギリシアでは忘れてはいけない大事なできごとがあった時は、一発殴られる……なんてことをやっていたそうだ。殴られたショックでそのできごとを覚えるのだ。
 まあ理にかなっているといえばそうだけど、やりたいとは思わない。どうせなら楽しい記憶と共に覚えたいものだ。
 関連する別の出来事とともに記憶している……ということは確かにある。一つの記憶を引き出すと、それに付随する別の記憶も思い出す。そういうことは確かによくある話だ。
(実に余計な話をするが……知識を下ネタと結びつけると覚えやすくなる……という方法がある。人間は性にまつわることに対し、やたらと関心を強く持つ。そこで、下ネタと結びつけていると、物事を覚えやすくなるという。ただし、その知識を思い出すために余計な下ネタを思い出してしまう……という弊害がある)

 ここまでの話はおそらくチンパンジーにはほとんどできないこと。人類とチンパンジーの脳内RAM容量自体はおそらくたいした差異はない。だが人類とチンパンジーとで差が出る理由は、このハードディスクの仕組みにあると考えられる。人類はこのハードディスクから必要に応じてデータを読み込んで、脳内RAMで考える……という仕組みを取っている。チンパンジーはおそらくこれができない。

 と、脳内RAMのデータをハードディスクに移す方法について話をしたが、最初の前提に戻ると、脳内RAMのデータは180メガバイト、3分くらいが限界だ。「新鮮な記憶」というのは、この3分間くらいしか続かない。それ以降はその瞬間にあった生々しい出来事から峻別されて、ただの「データ」として脳内ハードディスクに保管される。脳内ハードディスクに移されると長期に引き出せるようになるけれども、そのデータは「断片化された情報」に過ぎなくなっていく。細かなディテールが抜け落ちてしまう。
 こうした断片化されたディテールを持たない情報は、次第に変質していくことになる。引き出そうとしても、ディテールの部分は新しい情報につられて更新してしまう。こうして過去の記憶は、新しい記憶に刷新されてしまう。10年前、20年前の思い出のつもりが、実は細かな部分は最近書き換えられた記憶……ということになってしまう。ここで重要なのは――その当人は記憶が変質していることに気付かない、ということ。ここで「過去の理想化」が始まってしまう。

『一週間フレンズ』の主人公・藤宮香織は一週間しか記憶を維持できず、一週間後にはその以前のすべてを忘れてしまう。実は私たちのほとんどは3分程度しか記憶できず、3分程度の記憶をひたすら更新しながら生活している……と推測される。何度も更新され続けているから、記憶に断絶があることに気付かない。しかし「体験した」というその瞬間の生々しい記憶は、3分程度で忘れている。

 ここで最初の話に戻ってくる。私の父はどうしてテレビを見て、「今の世の中は狂ってる! 日本人がおかしくなっている!」と言いがちなのか……の答えが推測できる。父は自分が体験した過去のデータと照らし合わせができていない。目の前の情報に引きずられて、過去の記憶が変質している。そのことに気付いていない。
 そのことに気付くためには、脳内RAMのデータだけではなく、参照可能な脳内ハードディスク容量を増やしていかねばならない。しかし父は、ハードディスク内のデータが明らかに小さい。つまり「エピソード」をあまり持っていない。参照できる記憶や思い出が少ないから、目の前の情報に引きずられ、変質していることに気付かない。
 父に正しい知識を教えても、その日のうちに忘れてしまう……のは仕方がない話だ。父の脳の中には、「枝葉」となっている知識の層がない。そういう人にいくら話しても、その日のうちに目の前に差し出された別の情報に刷新され、忘れられていく。3分程度の「今」という瞬間しかない。しかも父は、人間の話よりも「テレビで聞いた話」のほうを重要視する。「自分自身での体験や身の回りで聞いた話」ではなく、「テレビで聞いた話」のほうを重要だと思い込む。だから、「いま日本はとんでもない犯罪大国になってしまっている」……と思い込む。(ここで「海外に脱出したい」とか言い出さないだけマシだが。日本以上に治安の良い国なんて、そうそうない。しかしその事実を、老人世代ほど知らない)
 それは記憶の層を作らず、考えることもテレビに依存し続けたある世代の抱える問題だろう。こういう問題は父に限らず、父の世代全体に起きている話。そういう世代が、というか「そういう人々」が私たちよりも上の階層にいて、その瞬間瞬間のできごとだけで「今の世の中こうなっている!」とより多くの人々に向かって発信し続けている。その中で、意図的に大衆を操作しようと偏った情報を発信する人もいる。「たいていの人間は3分程度の記憶力しかない。都合良く過去の出来事を捏造して、騙してやれ」……テレビの業界には本当にそういう輩もいる。
 これは……「そういうものだから仕方ない」と言うしかないけど。
 「愚者は経験に頼り、賢者は歴史に学ぶ」……と昔からの言葉があるけど、まさにその通り。歴史というか、知識の枝葉は一杯頭の中に入れておいたほうがよい。

 と、ここまでが私の「記憶」に関する推測だけど……別に脳の専門家が考えた話でもないので、面白話として聞くとよいだろう。あくまでも「こういうことじゃないだろうか」というだけの話。酒を飲みながら(飲んでないけど)書いているような与太話なので、3分後には忘れてもいい話だ。「忘れてもいい」……といってもきっと忘れてしまうんだろうけど。


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