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3月28日 長編商業アニメはアートじゃないのか?

 3月17日から22日までの6日間、新潟で「新潟国際アニメーション映画祭」なるものが開催されていた。
 コンペティション部門審査委員長を務めたのは押井守監督。この映画祭への応募条件は「40分以上のアニメ作品」であること(手法は問わない)。つまりテレビシリーズではない劇場公開作品を審査し、顕彰しあうことを目的とするイベントとなる。第1回は成功といえるくらい盛況だったらしく、世界各国からたくさんの作品が集まり、それ以外でもイベントとして上映された作品は30本にものぼる。他にもクリエイターによる様々な講演会があり、こちらもかなり盛況だったと伝わっている。

 40分以上のアニメ作品。
 つまりテレビシリーズ以外の目的で制作された長編アニメを審査し顕彰することを目的としたアニメ映画祭。今までありそうでなかった映画祭だ。
 この映画祭は意義深い。そういえば長編映画をちゃんと評価する場所は世界的にもなかった。優れたアニメを選出するアワードは世界中どこの国にもあるのだけど、そこで評価される作品というのはたいていアート性の高い短編アニメばかり……。短編アニメはもちろん素晴らしいものだけど、そればかりなのはいかがなものだろうか。それに、内容を見てもやや抽象性の高い、ややひねって表現してみせたような作品ばかりなので、一般人に見せてすぐにでも意味がわかるようなものではない。そういうものばかり評価するのは、ちょっと頭でっかちじゃないのか……という気がしていた。もうちょっと人々が見て率直に楽しかったり感動できるエンタメ作品も評価されてもいいんじゃないか。
 アメリカにはアニー賞というものがって、ここで優れた長編アニメが選出されているのだけど、やはりアメリカ発の作品だから、どうしてもアメリカの作品がひいき目に評価されてしまう。アメリカ人が審査するのだから、アメリカの文化や、そこでよく話題にされた題材の作品の方がピントが来る……というのは当然のこと。
 日本のアニメがアニー賞長編作品賞を受賞できたのは2002年の『千と千尋の神隠し』のみ。あとはだいたいディズニーとピクサーが毎回賞を譲り合っている……という感じになる。アメリカ主催だから、アメリカの作品が中心になる。これも当たり前のこと。自国の作品だからひいき目に見るのは当然。

 そこで日本だ。今や誰もが知る話だが、日本は世界一のアニメ生産国だ。その日本が、どうして自国で制作しているアニメを評価したり評論したりする場がないのか? どうして「アニメの賞」といったら海外……という話になるのか? 世界で一番アニメを制作している国が、もっとも優れたアニメを選び出す……そういう流れがあってもいいではないのか。

 そう考えていくと、新潟国際アニメーション映画祭の存在意義に納得ができる。
 もしかして、「日本の商業アニメに芸術性はない」……とそう考えている人も多いのではないか。日本のアニメ映画といったら、大ヒットしたテレビシリーズに一部新規カットを追加して劇場にかけられただけのもの。あるいは『ドラゴンボール』や『ワンピース』や『名探偵コナン』のように毎年公開されるプログラムピクチャーのようなもの……。アニメ映画にはそういうものしかない……と思っている人は、アニメを知らない人だ。
 今はアニメ映画にも様々なものが制作されている。『この世界の片隅で』『すずめの戸締まり』『泣きたい私は猫をかぶる』『ジョゼと虎と魚たち』『映画大好きポンポさん』『竜とそばかすの姫』『サイダーのように言葉が沸き上がる』『鹿の王 ユナと約束の旅』『犬王』『雨を告げる漂流団地』……「アニメ映画」といえば「劇場版」だけではなく、劇場オリジナル作品は一杯ある。
 ではこうやって制作されるアニメ映画にはアート性はないのか? しょせんはどれも似たり寄ったりのセル様式のアニメ。どうせ美少女萌えキャラが出てくるだけの作品でしょ……。そんなことはない。どれもしっかり作られている。それぞれで表現がしっかり練り込まれているし、シナリオにも妥協はない。私が最近見たアニメ映画にハズレは1本もなかった。はっきりいって、実写日本映画見るくらいならアニメを選択する。なぜならアニメ映画の方がクオリティが高いからだ。

 こうしたアニメ映画たちは実は国際的にも高い評価を得て、興行的にも成功している作品も多い。日本のメディアは、細田守監督や新海誠監督といった一般的にも知られている作品しかニュースとして取り上げないが、それ以外の作品も実は海外に輸出され、高く評価されているし、いろんなアワードを獲っているし、興行的にも成功している作品も結構ある。むしろ日本だけがなんで知らないんだ……というくらい。
 そういう作品を、なぜ今まで日本できちんと評価する場がなかったのか。なぜ日本から世界に向けて発表する場がなかったのか。考えてみるとむしろ「なんで今までなかったんだろう」というくらい。

 確かに映画であるから背景に「商業性」がつきまとってくる。お金を掛けて制作するものだから、そのぶんきっちり回収しなければならない。では「商業性」の高い作品に「芸術性」はないのか?
 そんなことはない。商業作品の中にも作り手の哲学と意地というものがある。クリエイターは作品の中にいろんなものを込める。映像はもちろんのこと、メッセージ性や力強いテーマを持つ作品も多い。普通に見ていても気付かないようなメッセージを込めるような作家もいる。
 もし商業作品のなかに芸術性はない……という話をしてしまうと、ハリウッド映画にも芸術性はない……という話にもなってくる。「商業作品はお金のことを気にしてばかりの汚い作品だ」……だったらすべての映画はダメだ、という話になるが、そんなことはない。みんな与えられた枠の中でいかに良い作品を作るのか、そこに持てる技術と思想をぶつけようとしている。アニメだって同じだ。

 でも長らく商業的な作品を、きちんと「作品」と見て評価し、発表する場がなかった。こうやって作品を評価する場が生まれたこと。さらに世界に向けて作品を発表する場が生まれたこと。これは実は大きな一歩なんじゃないかな。

 日本人は長らく自国の文化をいかに卑下するか……ということに捕らわれすぎていた。今も捕らわれている。漫画やアニメの話をすると、「世界でこんなに漫画を作っている国はない。恥ずかしい」「大人もアニメを見ているなんて国は日本だけだ。恥ずかしい」……みたいな言い方をする人々が多い。そういう人ほど、社会的に地位が高い成功者だったりする。高学歴エリートやセレブ達の典型だ。
 まずいって、「そりゃそうだ」という話。というのも、世界中のいろんな国を見ても、日本ほど常に新しいコンテンツを作り続けている国はそうそうない。例えばイギリスを見ても、いまだに19世紀の作品であるシャーロック・ホームズが「国を代表するストーリー」として紹介される。日本だったら「弥二郎と喜多八の旅物語」がいまだに再生産されている……みたいな状況。だから『ハリー・ポッター』は「100年ぶりに国を代表するストーリーが刷新された」として注目された。自国で世界に通用するストーリーをなかなか作り出すことができない……そういう国は実は一杯ある。あのハリウッドを擁するアメリカですら、「ネタ不足」に悩まされている。「新しいコンテンツ」を作り出すことは実は非常に難しい。ここで手こずっている国は多い。
 そうしたなかで、日本の漫画だけはネタ不足などどこ吹く風。日々新しいストーリーが生み出され続けている。しかも大人も読める奥深さを持った作品も多い。その凄さを、日本人が一番理解していない。
 どうして日本だけここまで「物語作り」への高いポテンシャルを有しているのか……というと、日本人の手先が器用すぎること。ごく普通の一般人ですら、そこそこ絵が上手かったりする。「セミプロ」と呼ばれる層の異様な分厚さ。
 実はこれ、日本人だけの特色。海外の友人に自分の国で制作されている漫画作品を見せてもらったのだけど、申し訳ないけど日本では素人レベル(私の絵のほうが上手いくらい)。彼の国のプロクリエイターが日本に来ても、やっていけない。日本ではその辺の素人でもそこそこ絵が描けて、そこそこ物語が描けてしまう。プロだったらそれ以上の物語が作れてしまう。
 それって実は世界的に見ても凄いことだよ……ということを日本人だけが知らない。そういう日本人だからこそ、毎年新しいキャラクター、新しい物語によるコンテンツが刷新され続けている。
 この国民性は「恥ずべきもの」ではなく、「凄いもの」と考えをあらためることはできないか。

 だからこその弱点は、「国を代表するコンテンツ」が逆にないこと。たくさんの物語がありすぎるから、逆に世界に向けて「日本といえば」という代表的な作品がない。優れた作品であっても、10年もすれば忘れられ、埋もれてしまう。
 例えば『ドラゴンボール』はそれこそ世界規模で大ヒットを飛ばした作品だが、日本人感覚で『ドラゴンボール』といえばもう過去の作品。若い人は読んだことがない……というくらいだ。
 最近では昔の漫画が今世代にアニメ化されて話題になる……という流れが生まれてきている。そういう作品を見て「おじさん世代に向けた老害アニメ」……なんて言う人もいる。そういう言われ方をするのは、日本は新しいコンテンツが制作され続ける国だから。日本以外の国ではそういう言われ方はまずしない。アメリカではいまだに『スーパーマン』や『X-MEN』といった作品の新作が作られているが、いったい何年前の作品だ?(『スーパーマン』は1938年生まれ) 『スーパーマン』や『マーベル映画』を「おじさん世代向けコンテンツ」なんて言い方は誰もしない。なぜなら新しいコンテンツがそこまで作られ続けていないからだ。
 イギリスに行くと、国を代表とする作品はいつも『シャーロック・ホームズ』。最近はそこに『ハリー・ポッター』が生まれた。どうしてイギリスはそうなのかというと、日本ほどオリジナルコンテンツの制作が旺盛ではないから。

 韓国はエンタメコンテンツを海外に発信していく……ということを国策としてやった。なぜか? エンタメはその国に対する印象を圧倒的に良くすることができる、ということが理由の第1。第2の理由は……あまり指摘されないことだけど、韓国の人口が5000万人ほどだから。5000万人ほどだと、どうしても自国だけで作品を生産して、売っていく……ということができない。だからこそ海外だ……ということになる。日本はどうして自国内で漫画ビジネスをやって行けたのか……というと人口が1億人いたから。日本人は日本について「小さな島国」という表現をするが、よくよくみると国土面積は結構大きく、人口もかなり多い。日本国内だけでも文化・環境は多様なのに、全員が日本語を話すことができる。ヨーロッパを見てもそんな国はない。
(その1億人の国民がいても、最近は少子化のために国内だけで漫画を売っていく……ということが厳しくなっている。それだけの読者人口が必要で、1990年代頃の日本にはそれだけの子供がいた……ということ)
 韓国は国全体が一丸となってエンタメを輸出し、アジアではすでに「映画といえば韓国」くらいの存在感を持っている。ハリウッドでも韓国映画は評価されている。
 そんな韓国ですら、オリジナルでアニメを生産し、海外に輸出していく……ということはできていない。韓国アニメも今はかなり質が高くなっているが、「量」という面で年間何本も生産して輸出するだけの制作力がない。それができるのは日本だけ。しかも世界のビジネスを見るとここは空席。なんで日本はここに手を出さないの?

 と、長くなったけれど、日本発のアニメ映画祭が生まれたことは大きな一歩。これからアニメが世界に発信され、発展していくことに期待したい。


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