映画感想 レディプレイヤー1
今回視聴作品は『レディプレイヤー1』。どうしてこの作品を急に観たのかというと、先日、なんとなくAmazon Prime Videoで検索してみたら、prime会員無料だったから。Prime Videoはいつからいつまで無料なのかわからないので、この機会を逃してはならないと急いで視聴することに……というのが今回の経緯。まあ「いつか観よう」はいつまで経っても観ないということになるので、いい機会になったといえるでしょう。
『レディプレイヤー1』は大ヒット映画だし、すでに地上波放送もされた作品なので、あらすじ説明は不要かと思われるけど、いつもの習慣なので、今回も前半を30分・30分に分けてお話を見ていきます。
【前半30分】
ファーストカットはオハイオ州コロンバスにある、「スタック」と呼ばれる集合住宅の風景描写から始まる。「スタック」と呼ばれる住宅は、かなり雑に鉄骨を組んで、コンテナを積み上げた上に電線を無理矢理引っ張り込んだような構造となっている。空中にはドローンが飛び交っていて、どこを見回しても雑然として、落ち着きのない風景だ。新しい種類の“スラム”ができあがっていることが、パッと見にもわかるように作られている。
そこからカメラはすーっと近付いていき、主人公ウェイドが登場。カメラはウェイドを追いかけて、スタックの内部を捉えていく。
スタックの中ではみんなVRゴーグルを装着していて、虚構世界での活動に夢中。現実世界の問題から逃避している姿が描かれている。ナレーションによると「シロップ不足で電波不足の暴動の後、人々は問題解決を諦めるようになった」とある。
主人公ウェイドもまたVRゲームオアシスに夢中になっている一人で、ウェイドは隠れ家のような場所に潜り込んで、今日も一人、誰からも干渉を受けずにゲーム世界に没入していく。
次にVRゲーム・オアシスが描かれ、その中の一大勢力であるIOI(INNOVATIVE ONLINE INOUSTRIES)と、このオアシスを創造したジェームズ・ハリデーが生前残したイースターエッグについてが点々と語られ、その後、やっと映画のタイトルが出てくる。はじまって10分14秒だ。
次のシーンでジェームズ・ハリデーが最初に仕込んだゲームであるレースゲームに挑戦するシーンが描かれる。発見されてから5年になるが、今もってクリアした者のない、極悪難易度ゲームだ。ウェイドはゴール直前まで進むが、コングに阻まれてあえなく脱落。ミッションは失敗するが、ここで凄腕ゲーマーであるアルテミスと知り合う。
始まって20分、ウェイドは現実世界に戻る。ウェイドの家庭環境が改めて掘り下げられる。両親を早くに亡くし、叔母さんとヒモの駄目男と暮らしている。この家庭の中にウェイドの居場所はない。
22分、アルテミスに言われたある一言が引っ掛かって、ウェイドは「ハリデー年鑑」へ向かう。ハリデー年鑑はオアシスの創造者、ハリデーにまつわるありとあらゆる出来事が記録されている記念館であった。そこへ向かい、ウェイドはヒントを得る。
25分。再びレースゲームに挑戦する。ヒントの通り全力で逆走すると新たな道が出現し、そこを通ってついにクリア! ウェイドは5年間誰もクリアできなかった極悪ゲームの初の達成者となる。
【感想】
前半30分までの感想。
『レディプレイヤー1』はVRゲームという新奇な世界観で描かれるが、本質的には古き良き「冒険物語」だ。こうした冒険物語の定石として、「冒険への召命」がある。ありとあらゆる冒険物語において、その始まりに、使者から冒険の誘いを受けて主人公がこれを拒否するという展開が描かれる。これは古典的な民話や古き良き童話、さらには現代のライトノベルまで受け継がれている鉄板のパターンである。どうして主人公は最初の冒険の誘いを拒絶するのか、というと、こうすることによって「主人公がなぜその冒険に挑戦しなければならないのか」という命題が改めて掘り下げられ、主人公の目的意識の定義付けができるからだ。
『レディプレイヤー1』を見ると、この「冒険への召命」の下りはあるが、最初から主人公は冒険に対して乗り気でいる。ここが今までにある古典的な冒険物語と少し違うところだ。
ではなぜ主人公ウェイドはあの極悪難易度のレースゲームに挑むのか? その動機付けはどこで行っているのか? ウェイドが単にゲーム好きだから挑戦したい……というだけの話か?
『レディプレイヤー1』はこのあたりの説明順序が少し入れ違っていて、始まって20分ほどのところで描かれる現実のシーンで掘り下げられている。ウェイドの両親はすでに死亡していて、叔母さんとそのヒモ男と暮らしている。その生活もかなりデタラメで、見るからに困窮している。こんな生活から逃れたい……。後に掘り下げるが、オアシスで得たコインというのは、現実のお金として換金可能なようである(リアルトレードマネーのような裏取引かも知れない)。ウェイドはハリデーが遺したゲームをどうにかクリアし、財産を得て真っ当な暮らしを得たい……そういう動機があってゲームに挑戦している。
ウェイドの台詞にも「現実世界で野望がある。豪邸に住み、買い物三昧。貧乏からの脱出」とあり、ハリデーの財産を得ることが真っ当な暮らしへの道だということが示唆されている。しかし、ヒロインであるアルテミスによって批判的に返されることよって主人公のこの意識に揺らぎが生じる。これが後々のドラマに繋がる動機付けとなっている。
冒険物語は主人公が冒険に出るかどうか、という葛藤が最初のドラマとなるのだが、『レディプレイヤー1』はその最初の段階をすでに乗り越え済みのものとして描かれている。まあありがちな展開をショートカットした……といったところだろう。
そのゲームのクリア方法だが、スタート地点から全力で逆走すること。「今まで本当に誰も試さなかったのか?」と疑問に感じるほどにシンプルな答え。さすがにそれは簡単すぎではないか? ……と感じたが、全体のタイムテーブルを見ると、世界観の解説に冒頭10分を費やし、次の10分でヒロインとの出会い、主人公の家庭環境を掘り下げ、その上で最初のミッションをクリアする……というところまで描かなくてはならない。かなりタイトな展開で、映像的にわかりやすく作らなければならない……というところで、「全力で逆走」という解決方法が考案されたのだろう。ギリギリありかな……と感じられる妥協案的な映像だったと考えられる。
では次の30分。
【前半30分 その2】
主人公ウェイドチームだけが秘密を共有し、次々と最初のレースゲームをクリアしていく。
一方、IOI社は予算と人員を費やしてもクリアできなかったゲームを、名も知らない一介のプレイヤーに先を越されたことで動揺する。ウェイドに対策するために、IOI社はアイロックという、見るからに悪そうなプレイヤーにパーシヴァル(ウェイドのアバター)抹殺を依頼する。
レースゲームをクリアしたことによって、ウェイドには10万コインの賞金が入り、オアシスの中で一躍有名人になる。オアシス内での立場が急に変わってしまうが、ウェイド達は次なる鍵を手に入れるために、ミッションを探し始める。
「作品を嫌う作者。跳ばなかったジャンプ。過去から逃れよ。さすれば翡翠の鍵を得ん」
1つめの鍵とともに明かされたヒントには、こう書かれていた。
ハリデーが逃げたかった過去とは何なのか……? ウェイドはハリデーの友人であるモローの妻・カレンに関係しているのではないかと推測する。カレンは最初、ハリデーと付き合っていたのだ。ハリデー年鑑へ赴き、ハリデーがカレンについて唯一言及しているあるシーンを調べるが、ヒントは見つからない。
そんなウェイドに、アルテミスはデートへ誘う。行き先は「魅惑の星」。「魅惑の星」の中に作られたバーは、ハリデーがカレンをデートに誘うために作られた場所だった。そこにヒントがあるのではないか……という推測だったが、そこに答えはなかった。
ウェイドはアルテミスとダンスに興じている間、気分が高揚して、自分の本名をアルテミスに告げてしまう。この場面を盗み聞きしていたアイロックはウェイドの本名を知り、ここからウェイド・オーウェンの身元を特定する。
IOIの社員の襲撃によってウェイドを取り逃してしまったが、ウェイドの身元が特定されてしまう。IOI社は現実のウェイドを攻撃するためにスタックごと爆破してしまう。
【感想】
最初の30分がかなり急ぎ足であったのに対して、第2幕はかなりゆったりテンポとなる。第1幕が大急ぎだったので、第2幕からが映画本来のスピード感になり、オアシスという世界観、各キャラクターについてが掘り下げる局面になっている。
この2幕の終盤で、ウェイドは自分を庇護していた家庭を喪い、いったん孤立無援になった上で、ネット上の仲間であるアルテミスと会う展開が描かれる。主人公の立場が変わり、ネット世界だけではなく、現実世界でもIOI社に命すらも狙われるという緊迫感が生まれる。そういう緊迫感を持たせつつ、次のミッションにも挑まなくてはならない……という状況が第2幕の段階で作られていく。第2幕を経て、エンタメ作品としてどんどん面白くなっていく仕掛けが一杯に施されている。このあたりはさすがスピルバーグ作品といったところだ。
ここから『レディプレイヤー1』の本編感想文に入るのだが、まず前提として私は作品の原作を読んでいない。「原作を読んでいない」というのはどうやら大事な要素らしく、聞くところによると「原作と映画はだいぶ違う」らしい。原作も確かに80年代90年代ポップカルチャーへの愛情たっぷりに描かれた作品だが、細かなニュアンスや、取り上げられている作品が違う……そうだ。このあたりは原作を読んでいないので、「そうらしい」と聞いた話で書いている。創造主であるハリデーも、原作ではそこまポップカルチャーに傾倒するオタクでもないそうだ。
映画版『レディプレイヤー1』は原作のニュアンス的なところを読み取り、はっきりと違う作品として作られている。どのように違うのか……というとスティーブン・スピルバーグが愛着を持っている80年代90年代カルチャー映画に変換されている。わりと知られているように、スティーブン・スピルバーグもまた80年代から90年代ポップカルチャーに精通し、そこに並々ならぬ愛情を注いでいる一人である。どうやら『レディプレイヤー1』は原作以上に、スピルバーグ自身の愛情が色濃く反映されている作品に変換されているらしいのだ。原作『レディプレイヤー1』とある意味で別作品になったが、結果的にメカゴジラとガンダムが戦うという、映画史上最高のシーンを作り上げてしまった。『レディプレイヤー1』はスピルバーグ作品としてやたらと純度の高い、ある意味で「個人的」な映画にすらなってしまった。ただ、それはある意味でこの作品にとって良いほうへ作用したが。
するとスピルバーグ映画として純度の高いこの映画『レディプレイヤー1』において、ハリデーとは何者なのか……というとスティーブン・スピルバーグ自身。もじゃもじゃ頭で喋る言葉もボソボソとしていて(スピルバーグもボソボソ喋りで声を張れないタイプだ)、誰からも注目されないし、当然女の子からはモテない地味で情けないダサい男。しかし才能だけは本物で作る作品が次々に成功して、世界中の誰もが知り、誰からも憧れる存在になっていく――これはもうスピルバーグ本人でしかあり得ない。
ではそのハリデーに挑戦しようとするウェイドは誰なのかというと、こちらもやっぱりスピルバーグ。ウェイドももじゃもじゃ頭でボソボソと聞き取れるかどうかギリギリの声でしか喋れないし、体つきは(アメリカの理想である)マッチョから程遠いひょろひょろ体型で、現実世界の友達は特になく、ネット世界以外に輝ける場所のない、イケてないダメ青年。これは映画監督としてデビューする前のスティーブン・スピルバーグだ。
(スピルバーグといえば髭とサングラスだが、これは童顔であったため映画のスタッフに舐められる、言うことを聞いてくれないという悩みがあったため、髭を生やしてサングラスをかけて、威厳を出そうとした……ということだそうだ。スピルバーグは元々はウェイドみたいな若者だった)
ということは、スティーブン・スピルバーグがかつての自分に向けた、自分のための映画……ということになる。でも、それが翻って、今の作り手を目指す若者へのエールにもなっている……というところがこの映画が楽しく感じられるところだ。
ウェイドのような地味でひょろひょろ体型の地味男で、ネットでしか輝ける場所がない……なんて人は今時世界中に何万人といる。だいたいエンタメの作り手になれる男/女なんてものはだいたいみんな地味でひょろひょろとして、ボソボソとしか喋れない地味な人間……というのは年代や国籍を問わず共通する特徴だ。現代に限らず500年前であろうが1000年前であろうが、1000年後であろうが、これは変わらない。
スピルバーグもかつてはウェイドのようなダサ男だったわけだけど、そうした青年を主人公に置いて、最終的に輝ける物語にしたことによって、世界中のそういう地味でダサいクリエイターの卵に向けたエールになっている。そこまで意図したのかわからないが、スピルバーグ自身の青春時代を反映させることによって、翻って今の若い世代に向けた作品に化けてしまっている。ある人種にとってはどうしようもなく、心地良い作品となっている。これが『レディプレイヤー1』という作品のまず面白いところだ。
オアシスというゲームについて掘り下げていこう。「オアシス」……言葉通り、砂漠のような過酷な世界の中に作られた、ささやかな憩いの場……として作られたのだろう。
(オアシスだから、プレイヤーを格付けする“競い合い”の要素が排除されている。若き頃のノーランがハリデーに、「プレイヤーを格付けしたらどうか」という提案を一蹴したのは、そのため)
オアシスは単一のゲームではなく、それ自体が大きなプラットフォームとなっている。例えばSTEAMが一つの巨大なゲームになっている……という感じと説明すれば良いだろうか。オアシスというゲームの中にありとあらゆるゲームが格納されて(『Minecraft』や『ドゥーム』もある)、プレイヤー達はそのゲームの中をシームレスで移動できる。おそらくこのオアシスの中で新規のゲームは作られ続けているのだろう。新しいゲームが作られ、無限に拡張していくから、「もはやゲームではない」というくらいのシロモノになってしまったのだろう。そんな無限に広がる世界の中で、プレイヤー達にはすべてのゲームで共有できるアバターとコインが与えられている。異世界の中における世界通貨のようなものが実現してしまっている。そこにはもはやゲーム機というプラットフォームすらない。ゲームのフラット化が実現した世界となっている。
(ただ、よくよく確かめると『スーパーマリオ』をはじめとする任天堂ゲームのキャラクター達がいない。ひょっとすると、任天堂はこの時代もまだ独自のゲーム機を持っていて独立しているから、オアシスに登場してこないという設定だったのかも知れない)
IOI社のような、運営とは別であるのにオアシスの中にゲームを作り、広告を作り、周辺機器を販売して、さらに支払いが滞った人を勝手に誘拐し監禁しては死ぬまで働かせている……ということまでやっているところもある。警察はどうしてIOI社を取り締まらないんだ……という話だが、それはお話の中の都合があるのでスルーしておこう。
IOI社は多くのゲームプレイヤーを雇い入れて、プレイさせることで企業を支えるという、現代で見れば不思議な企業だ。これもこの時代におけるプロゲーマーの形なのだろう。そういうものが成立して、しかも巨大勢力にもなり得る……というのがオアシスという世界での特徴だ。
おそらくオアシス内で得たコインは現実通貨とも換金が可能だ。オアシス内で得たコインで買い物をし、それが現実世界に送られてくるシーンが描かれていた。ウェイドの叔母とそのヒモ男はスタックとは別の、もっといいところに住みたいと願っていて貯金をしていたようだが、そのお金をゲームで溶かしてしまった……という場面が描かれていた。おそらくはパチンコみたいに、オアシスでコインをつぎ込んでゲームに勝てば倍になって戻ってくる……みたいに考えていたのだろう。しかしゲーム中で死んでしまったために全ロスして、引っ越しの夢は潰えてしまった。IOI社のようなものが成立し得るのも、ゲーム中でのコインが現実の通貨として換金できるからじゃないだろうか。
オアシスの中で得たコインが、現実のお金になる。たぶん、みんなそれで日々の生活を維持しているのだろう。だからみんな現実での問題に対して見向きしなくなり、働かなくもなったし、現実が荒廃していることにも目を背け、極彩色のゲーム世界にのめり込んでいくようになっていった。オアシスならあらゆる自己実現が可能で、友人との交流ができて、しかも生活ができてしまう。 オアシスはその名のごとく、現実に対する一時的な逃避場所……というつもりで作られたはずなのに、いつの間にかみんな現実から無制限に目を背けて、現実の問題を忘れるために逃避し続ける場所になってしまった。現実の問題は「シロップ不足で電波不足」による暴動の後、何か問題があってもみんな解決しようと頑張ることを諦めてしまった。ただ住む場所さえあればいい。食べるものがあればそれでいい。スタックという住居問題からして、ほとんどの人がもはや普通の暮らしすらまともに送れないし、現実世界でどう頑張っても状況が良くならない……という事態をみんな理解してしまったから、みんなオアシスに逃避してしまった。
このあたりの世界観の作りが、後半の重要な展開に繋がっていく。ウェイドがオアシスにいるみんなに声をかけて、最終的にはゴーグルを外して現実の問題と戦おう……という場面。ここが賛否の分かれる部分だったが、前景にあるものを見ていけばそこまで非難されるようなシーンではない。まず前景として、「みんな現実問題から逃避してしまっている」という状況があって、だから「現実に目を向けよう」と呼びかける、という流れがある。
それに、ゴーグルを付けて活動している……という姿の異様さも、作品はあえて描いている。誰もがゴーグル越しに別の世界を見て、目の前の世界を見ていない。その滑稽さと異様さをあえて描いている。オアシスという世界観自体は、90年代ポップカルチャーに対する愛情をたっぷりに描いているが、ゴーグルを付けた姿までは愛着を持って描いていない。こういうところが『レディプレイヤー1』で描かれた価値観の境界線。「異世界を楽しむにしても場所をわきまえろ」というところだろう(映画館とか、家庭のテレビの前とか……。このあたりがスピルバーグがネット配信映画をアカデミー賞にあげるべきではないという考え方に繋がっている)。
現実は現実として生きよう。虚構の中で夢を掴むのは、クリエイターだけで充分。虚構に飲まれてはいけない。これが『レディプレイヤー1』でまず描かれたメッセージだったように思える。
次に映像を見ていきましょう。
映画が始まって最初のカット。「スタック」と呼ばれる集合住宅の風景が映し出され、ここからカメラが近付いていき、主人公ウェイドの姿を捉え、そのウェイドが案内役となってスタックの光景が次々と映し出されていく……という構成になっている。
まず音楽がやたらと陽気で、しかも窓から見える人々がみんな楽しそうに見えてしまう。だからここでちょっと勘違いしてしまうが、光景のみを見るとかなり悲惨なディストピア。住宅は貧相だし、街はただひたすらに汚いし、おそらく電力問題や食糧問題も抱えているだろう。生活観とかそういったものがみんなぶっ壊れてしまっている。でもみんなぶっ壊れてる現実から目を逸らしてVRゲームに夢中になって、なんだか楽しそう。かりそめの幸福を満喫している。そう見えてしまうように意図して映像が作られている。現実問題に目を向けられなくなる……というのがオアシスというゲームの麻薬的なヤバさだが、この冒頭の場面でそれが表現されている。
最初の現実の風景から始まるわけだが、とにかくも映像が暗い。彩度はだいぶ低め。ちょっと『マイノリティ・リポート』を思わせる映像感覚になっている。カメラマンはヤヌス・カミンスキー。『マイノリティ・リポート』を含む、スピルバーグとずっとコンビでやっているカメラマンだ。
続いての場面はVRゲーム「オアシス」の内部シーン。現実風景に対して、やたらと明るい。彩度が高く、色彩はきらびやか、それに世界観が次々と変化するというダイナミックな見せ方だ。現実とのいい対比となっている。
VRゲームの映像だが、『タンタンの冒険』で培われた技術が応用されている。パフォーマンスキャプチャーと呼ばれる技術だが、『タンタンの冒険』以前ではスピルバーグはこの技術について懐疑的だったが、何人かの友人に説得されて、結果的にノリノリで『タンタンの冒険』という映画を作り上げた。この技術を使ったアニメーションはロバート・ゼメキス監督やゴア・バービンスキー監督が挑戦しているが、なかなか成功例はない。スピルバーグ監督の『タンタンの冒険』も興行的、批評的に失敗している(面白かったけどなぁ……)。
でもそれはパフォーマンスキャプチャーという技術がダメなのではなく、どのように活かすか……のほうに目を向けるべきだ。無意味な技術なんてものはなく、結局はそれを活かすためのアイデア次第。『レディプレイヤー1』の試みによって、パフォーマンスキャプチャーの新たな使用例の提唱ができたのではないだろうか。
続いてIOI社シクサーズ達。こちらも色彩はかなり押さえられているが、現実風景を描くときのように彩度を下げる方法ではなく、照明を絞ってコントラストをくっきりさせて描いている。風景描写にしても怖そうな教官が号令を出し、全員が規律正しく動く風景に、異様さを与えている。シクサーズ達がどういった立場であるか、説明はさておきとして、画を見ればわかるように作っている。
同じくIOI社内部。今度はハリデー研究チーム。こちらもIOI社なのだけど、場面はそこそこ明るく、落ち着きのあるグリーンを基調としている。シクサーズ達のようなダークサイド感ではなく、どことなくライトサイドな雰囲気を出している。IOI社の一部だけど、映画全体を通して中立の存在で、主人公チームに対しても友好的であることがわかる。
場面はカメラが左へずーっと移動するのだけど、主要人物以外はみんな顔を横を向けるか後ろを向いている。最後にカメラが止まったとき、主要人物だけが全員カメラに対して正面を向くようになる。さらに、その中で一人だけ女性が振り向く……という構成になっている。「この女性が一番の重要キャラクターですよ」とわざと引っ掛かる見せ方をしている。うまい見せ方……というのは超ベテランによるスタッフの作品だから当たり前なので、こう言うのは失礼の域なのだが。
ハリデー研究チームにも「物語」はあるのだけど、本編中ではほぼ描かれることはない。でも全体の流れであの中で何かしらが展開し、関係が結ばれていっているのだな……というのがなんとなくでわかるように作ってある。こういうところも、上手いと感じさせるところ。
オアシスを興じるウェイド。VRゲームで遊んでいるシーンは、基本的には正面を向く。
正面を向く……というのは映像作法としてもあまりやらない。正面を向かせる時というのは、だいたい何かしら意図があるときだ。決め台詞であるとか、キメ顔とか……ある種の勝負所で使ったりするものだけど、『レディプレイヤー1』で正面を向く、というのはそれとは違った意図を持たせている。「誰とも向き合っていない」という表現だし、目線は正面を向いていないので、なんとなく違和感というか、宙ぶらりんな感じのする描き方をしている。これでVRゲームの向こうという「ここではないどこか」に意識が向けられている……ということが表現されている。
誰かと向かい合っているときは、だいたいこんなふうに構図の右か左を向くもの。シーンはだいたい55分ごろ、IOI社ノーラン・ソレントと向き合っている場面。
ここがちょっと面白い場面だが、ウェイドはアバターを通してノーラン・ソレントと向き合っている。設定的に向き合っているのはアバターだが、シーンの描写ははウェイド自身でノーラン・ソレントと向き合っているように描かれている。ゴーグルにノーランの顔が映っていて、「本来そこにいるはずのない人物」と向き合っている感覚がよく出ている。ここでウェイド自身がメインに顔が出てくるのは、アバターという仮の姿を通して、(キャラを演じている風に)喋っているのではなく、ウェイド自身で向き合い、発言している、というニュアンスを出すためだ。また直面している状況が「ゲーム世界」ではなく、現実世界に絡んでいることを示唆している。実際、この直後ウェイドは現実世界で攻撃を受けることとなる。
終盤の、ちょっと面白いカットがあったので取り上げよう。
まずハリデー研究チーム。ゲーム世界の状況を見ているので、みんな真正面を向いている。
次のカットは鍵を差し込もうとするウェイドの姿。ゲーム世界のキャラクターと対応するように、左を向いている。
3枚目はウェイドが鍵を差し込んだ直後のハリデー研究チーム。さっきのカットと続く画になっている。カメラの向きを逆にするだけで違う場面で起きていると表現されているし、直前のカットと対応するようにもなっている。画の描き方がまるでスポーツものの観戦風景になっている(外人4コマみたいにも見えるよね)。
ついでに一連のカットを見ると、ウェイドチームとハリデー研究チームで何度も構図の向きを入れ替える構成になっている。ハリデー研究チームが気持ち的にはウェイドチームと気持ちを一致させたということが、構図でわかるようになっている。
と、『レディプレイヤー1』は通常の映像作法ではやらないことをして、VRゲームの世界を表現する一方で、それ以外の所は徹底して基本に忠実。見る側が了解しやすい工夫をいくつも重ねて、きちんと作られた作品だということがわかる。VRゲームという新規な題材が使われているが、どこまでも見やすい配慮が行き届いた作品だ。
『レディプレイヤー1』の全体のざっくりとした感想だが、VRゲームという新規な題材を扱っているようで、実は古典的な冒険物語。それも、昔から私たちがよく知っていて、よく親しんでいる形の冒険物語。
でも昔なじみの冒険物語なんて、今時はなかなか描きづらいものだ。冒険物語は描き尽くされて、新しさを感じる世界観の提唱は難しいし、何を描いても「ありきたり」になってしまう。今時「魔法の鍵を探せ」という(いわゆるマクガフィンだが)なんて導入にも説得力を与えづらい。「鍵なんて偽造してしまえばいいじゃない」と考えるのが現代人で、現代の技術ではそれが可能だ。
でも「ゲームの世界なら?」というアイデアを一つ投入することによって、干からびかけた「冒険物語」という題材が新たなストーリーとして活き活きとし始める。命題を与える魔法使いや、3つの鍵を集めよ……なんてふとすると古くさいと言われかねないストーリーを(昔のディズニー映画かよ……みたいな)、現代の最先端の物語に変えてみせている。
異世界での冒険によって、現実での生活が改善されていく……という展開も昔からよくあるもので、『レディプレイヤー1』で描かれたあらゆることは実は昔からよく描かれている「異世界冒険もの」となんら変わりがない。構造や構成を見ても、どこを取っても古典的、どこまでも典型的なスタイルを丁寧になぞっているだけに過ぎない。
ただ、題材として選ばれたのがVRゲームという現代的なモチーフ。VRゲームです……という前提を作ることで、古典的な冒険物語を新しくできるし、色んな要素を追加できる。異世界で一緒に戦っていた仲間達の素顔――異世界では屈強な肉体を持った男性なのに、現実世界では女性……といった不思議なギャップも表現できる。VRゲームを採用したことで、それがあるという社会観も表現できる。みんながVRゲームに夢中になって現実問題に目を向けなくなった……という前提が作られれば、現実世界を退廃的なディストピアにしてしまおう、という着想を持つことができる。そして冒険物語の最終局面に「お宝」が用意されているわけだが、それはたった一人の幸福のために求められるのではなく、社会に提唱するために求めるんだ……という命題に変えることができる。しかもそれが、私たちが抱えている現実問題、さらには未来における問題に対する提唱にもなる(ゲームに夢中になりすぎて、現実から逃げるな……という)。VRゲームを題材にすることで、古典的な冒険物語を新しくできるだけではなく、現代という社会も同時に表現できてしまうわけだ。
『レディプレイヤー1』はハリデーの遺した謎解きと向き合っていくわけだが、次第に「謎」そのものではなく、ハリデーの人生そのものを追いかける旅へと物語が変換されていく。すでにこの世を去って、いなくなった人間の物語を掘り下げていく。ウェイドは主人公であると同時にハリデーの身辺を調査する探偵であり、さらには語り手となる。ハリデーが生前抱えていた葛藤を明らかにして、解消することが最終的に宝を得るための回答となっていく。
こういったところも、昔からある幽霊物語の典型的な形だ。だいたいの幽霊物語は、その幽霊が生前にどんな葛藤を抱えて、なぜ結果的に現世に化けて出てきたのか、を明らかにする物語だ。幽霊の生前の葛藤を解消することによって、幽霊を浄化することができる。「悪霊退散!」と幽霊を封じようとする霊媒師がだいたい失敗するのは、このためだ。幽霊とは戦うのではなく、寄り添うことが大事だ。
ウェイドはこの定石に則って、ゲーム世界にアバターとして遺された“ハリデーの幽霊”と気持ちを寄り添わせることで、謎を解いていく。
しかもその幽霊の正体は、おそらくスティーブン・スピルバーグ自身。(そこまで意図したかわからないが)「若者よ、ワシに挑戦してみよ」という監督からのメッセージのような映画になっている。
こうして見ると、『レディプレイヤー1』は何もかも昔からある物語の形式をなぞっているだけ。ただそこにVRゲームという新しい題材が加わった。だから「目新しさ」と同時に安定感たっぷりの「お馴染み感」が同居する作品となっている。だから『レディプレイヤー1』は誰が見ても楽しいし、親しみを持てると同時に新しさも感じられる。そういう作品となっている。なるほど、ヒット作としての要素を全部持っている。誰もが夢中になるはずだ。
ただ、この映画を観るとき、色んな所に引っ掛かってしまう。
「お、バットマンだ!」「リュウがいたぞ!」「オーバーウォッチだ!」「スポーンもいたぞ!」「またバットマンだ。バットマン多くないか」
と細かいところに引っ掛かってしまう。「バットマンがいたぞ」と観ている間に字幕を見逃してしまう。こういう感覚も、この映画ならではのものなのでしょう。
それにしても、よく版権問題を整理したものだな……。中には「ウチのキャラクターを使うなら興行収入の○%よこせ」とか言ってくるところもあっただろうに。これだけの版権を整理する弁護士集団を動員してあの映像を実現させたのだろうと思うと、なにやらトンデモないものを作り上げたな……という気がしてしまう。「スピルバーグ監督」という冠がなかったら実現できなかったかも知れない。
この記事が参加している募集
とらつぐみのnoteはすべて無料で公開しています。 しかし活動を続けていくためには皆様の支援が必要です。どうか支援をお願いします。