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読書感想文 ひとまず、信じない/押井守

この記事はノートから書き起こされたものです。詳しい事情は→この8か月間に起きたこと。

 1938年10月30日。CBSラジオは毎週恒例番組『マーキュリー劇場』を放送していた。いつものように音楽と天気予報が放送されていたが、この日はいつもと違っていた。

 みなさん、重大な発表を申しあげます。信じられないことではありますが、科学的観測と実際に現場でみたところによりますと、ニュージャージーの農場に今夜着陸いたしました奇妙な生物は、火星からの侵入軍の先遣隊であると考えざるをえません。

 現代ではよく知られているオーソン・ウェルズ脚本のラジオドラマ『宇宙戦争』の一節だ。
 実は放送前、放送後に「この番組はラジオドラマである」という注意が流れたが、多くの人々はこれを聞き逃していた。ラジオドラマなのだが、全体の放送自体はいつもの音楽と天気予報を放送しつつ、その合間に「緊急ニュース」の体を持ってラジオドラマを放送したのだ。この手法が全米を一時的にパニックに陥れたと伝えられている。
 ただ、このお話には“注意すべき点”がある。というのも当時の新聞はラジオを目の敵にしており、小さなニュースを大袈裟に報じた可能性がある。「ほら! ラジオのせいで人々がパニックになった! ラジオなんてロクでもない」と。実際にはパニックは起きていないのではないか、という説がある。
 だからこの伝説には二重にフェイクが重ねられているともいえる。特に後半の真偽は、今となっては不明だ。

 ウェルズは真実の中に虚構を織り交ぜて描いたが、押井氏はその逆だ。虚構の中に真実を内包する。いくばくの真実がなければ、映画はただのホラ吹きか、金をかけた大ウソになってしまう。
 プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という言葉は有名だ。この世界に客観的な真実というべきものはなく、そこには主観的な真実のみが存在する。絶対的真実はなく、相対的な真理のみがあるというわけだ。
 私たちが認知している世界が本当にそのまま存在するかどうかはわからないし、わかったところで他人と共有することはできない。

 「幸福」を語るということは本当にすごく難しい。
 「これが幸福である」と定義することは絶対にできないし、定義できないとすれば「どうすれば幸福になれるのか」という手法それ自体に問うことにも意味がない。なぜなら幸福とは人によって違うし、あるいは本人が幸福と思えることが、幸福ではないというような矛盾状態も起きることもある。
 キリスト教徒であれば、幸福は一種の義務だ。自分という存在を創造した絶対者に対する義務を負うことだ。神との約束を果たすということが信仰だ。
 日本にはそういう信仰心はないので、「幸福」は自分の手で掴み取るしかない。だから必ずパートナーが必要だ。人間は孤独のうちには幸福にはなれない。必ず幸福を確認する相手が必要になる。
 キリスト教の場合、そのパートナーが神である。日本においてはこのパートナーは“必ず異性でなければならない”としているが、その必要はないだろう。なぜななら押井氏の最良のパートナーは犬だからだ。
 男女愛は戦後的な価値観の産物なので、特に普遍的なものではない。確かに男女愛は多くの物語を生んできたが、幸福の必要条件として愛はまったく関係ない。
 「愛」は江戸以前の儒教的な価値観の中ではむしろいかがわしい言葉だった儒教の八徳(仁義礼智忠信孝悌)には愛という言葉は含まれていない。武将直江兼続の兜には「愛」の文字が大きく掲げられていたが、これは愛宕信仰か愛染明王信仰によるものだ。軍神にあやかったもので、現代的な「愛」を意味したものではない。
 愛はむしろ公序良俗に反する類のものとして扱われていて、それは人を不幸にするという文脈で使われてきた。男女愛という価値観は、戦後のごく短い期間で作られたものに過ぎない。
 ではパートナーの間に真に必要なものとは何か? それは価値観の共有だ。もしくは同じ世界観を持つこと。同じ時間を過ごすということだ。押井氏の場合、犬と一緒の時が一番心が落ち着く。言葉が通じないからスキンシップは欠かさないが、本当はそれすらもいらない。同じ部屋にいて、視界の隅に見えていればそれでよい。

 「最も重要なことを見極める」このことが人生において最も大事なことである。そのためには人生をいろいろな要素に分けて、今の自分にとって何が一番大事なのか順位付けを常に心掛けなければならない。
 結論からいえば、幸福とは、いや幸福だけではなく人生において必要なこととは、優先順位を付けることに他ならない。
 例えば軍事でいえば、戦車の三大要素といえば「装甲」「火力」「機動力」である。
 では映画の三大要素といえば? 良い映画の三大条件とはなんだろうか。
「良い原作があって、良い脚本があって、良い監督があって、良いキャスティングができて、良いスタッフがいて、良い宣伝ができたら良い映画ができます」
 ……これは当たり前。どんなバカでも言える。こんなバカをいう奴がスタッフにいたらクビにしてよい。
 大事なのはいくつかの要素のうち、自分は何が最も重要だと思うのか。どれを優先すべきと思っているのか、だ。そこに優先順位を付けるための根拠が必要となり、その根拠に、その人ならではの価値観が現れる。
 大正期の偉大な映画監督である牧野省三は映画にとって重要な要素として「1スジ、2ヌケ、3ドウサ」と言った。「スジ」は脚本のこと、「ヌケ」は撮影や撮影技術、「ドウサ」とは演技を表している。牧野は「ホン(脚本)さえよければ、どんなやつでも良い演出家になれる」と言ったように、脚本を最重要視していた。

 人生においても、人は幸福になるために、何を選ぶのか。この選択がなければ、絶対に幸福にはなれない。なぜなら人も仕事も同じく、“人生”という期間限定の中で生きているからだ。
 押井氏が本丸としている「productionIG」では若い男性スタッフは結婚していなければ、恋愛すらしていない。社内には女性スタッフは多数いるが、彼女たちは職場の若い男を相手にしていない。
 男性スタッフは仕事が終わればすみやかに帰宅し、HDレコーダーに録画したアニメを視聴。休日はアキバへ行き、美少女フィギュアを買い漁る。彼らにとって「現実の女」はリストのかなり下の方。「美少女フィギュア」の方が順位が上なのだ(わかるはー)。
 一方の女性スタッフはかなり現実的だ。自分のキャリアを含めて、長いスパンで優先順位をしっかり立てている。だから彼女たちからしてみれば、職場の男たちは論外なのだ。
(最近、アニメの業界で女性がどんどん出世してきている。現場の中心が女性に変わりつつあるのも、こういうところが関係してきているのかも知れない)

 本書の紹介はここまで。
 読んでみてわかるが、これは若い人に向けた、それも社会人1年目、2年目の若者に向けた押井さんからの人生教訓、あるいはお説教話だ。押井さんもいよいよこういうものを書く年齢になったか……。
 とはいえ、押井さんの書くもの、いい加減な思い込みや推論ではなく、しっかり考えられたものや、現実に見てきたものがベースになっている(その例として出てくるのが宮崎駿なんだけど)。社会人1年目とはいわず、社会人10年目という人にも得られることが一杯ある。
 会社の中で本当に使えるやつ、というのは3割だけだ。アニメの世界でも、本当の意味で“描けるアニメーター”というのも3割だ。次の4割は10の仕事を頼めば3~4くらいはやってくれる人達。あとの3割はグズ。何も仕事しないグループだ。
 これを3・4・3で「さしみの法則」というんだそうだ。3割の商品が残りの7割の商品の赤字を解消しているとか、3割のヒット映画が残り7割の映画の赤字分を回収しているとか。働きアリの世界でも働かないやつが3割いるとか。この法則は、色んなものに当てはまる。
 注意すべきことは、働かない3割を無駄だ、と切り捨ててリストラしないことだ。無駄な3割を切り捨てて利益が増えるかといえばそういうわけでもなく。また別の3割が“何もしないグループ”になるだけだ。全体の利益は減るのだ。会社や組織とは、そういうものなんだそうだ。無駄と思える3割にも、何かしらの意味があるらしいんだ。

 私の個人的な話。
 私は日々のニュースは基本的に見ない。もともとは漫画制作・イラスト制作が忙しくて、それどころじゃない、見ている場合じゃなくなったのだが、見なくなったら興味が完全に消えた。ある程度距離を置いたところで日々交わされているニュース、時事問題なんかを見ると、大半が「どうでもいいこと」に気付く
 なんでこんなどうでもいいことに多くに人々がいちいち怒ったり喜んだりしているのかな、と考えた時、やはり「目の前に来るから」だな、と気付く。スマートフォンをネット接続すれば、まず刺激的なニュースタイトルが出てくる。つい気になってしまう。これが罠だ。その先は本当かウソかわからない『宇宙戦争』の世界だ。ニュース記事の中には「実は大したことではないのに、見た人を怒らせるように書いている」ものも多い。そういうアオリのほうが、読む人が増えるからだ。結局ネットニュースも、アクセス数が欲しいからいい加減な中身と見出し、それに切り貼りやり放題。新聞やテレビとそう変わらない。そんなもん見たってしょうがない。
 そんなどうでもいいニュースに囚われて、プライベートな時間が消費されていく。感情も消費されていく。これが現代人の姿だ。スマートフォンに自分が吸い込まれていく。本来有意義なものに使うはずのプライベートがスマートフォンに飲み込まれていく。そのうちにもスマートフォンが手放せなくなる……。なんか恐くない?

 また私個人的な話。
 私的映画に必要なのは「後半30分」と「驚き」と「画」
 「後半30分」を挙げる理由は、ほとんどの娯楽映画、商業映画は後半30分はつまらなくなるからだ。前半、中盤までは楽しくて、アクションも盛り上がるのに、後半30分になると急に勢いがなくなる。
 理由はシンプルで、後半30分はアクションにドラマが載る幕になるからだ。このおかげでアクションの勢いが鈍くなるし、その内容も段取りくさい、主人公たちを勝利に導くために展開がわざとらしくなる。
 アクションにドラマを載せる場合にも、いかにして載せるか、が大事。そうすると、後半30分が一番盛り上がる映画が楽しい。場合いよっては名作になる。
 だから……「脚本」だ。
(ここでいう“アクション”とは俳優が飛んだり跳ねたりのいわゆるなアクションではなく、“物語”“ドラマ”パートとは別の、人物が能動的に“アクション”するシーン全体、行動を起こすシーン全体を指している)
 「驚き」は、映画には何かしらの驚きがなければならない。これがなければ、その他多数の作品群に埋もれるだけだ。
 「驚き」の内容は何でも構わない。例えばジェイムズ・キャメロンは必ず映画にそれ以前にはなかった最新技術を作品内に導入する。その見せ方、映画物語の結び付け方にジェイムズ・キャメロンの天才性が現れている。10年前、20年前の映画を見ても、すでに古い技術になっているはずなのに、「凄い」「格好いい」と圧倒させられるものがある。ジェイムズ・キャメロン映画は、映画×技術の教科書だ。
 必ずしも「技術」をアピールする必要はなく、「思想」だったり、誰も見たことのない「風景」や、すごい体術を持った人の「肉体」であるとか……。最近ではチープさをウリにした「素朴さ」なんてものもある。ああいうのも可愛らしくて良いものだ。
 大事なのはその作品で何を見せたいのか。それで間違いなく感動させられるのか。それをしっかり見定めて創作することだ。
 だから「驚き」とは「構想」のこと……ってぜんぜん考えをまとめず書いているな、私。

 もう一つ欲しいものといえば「画」。脚本と構想を実現するため、画をしっかり作れる人が必要だ。実写ならカメラマン。アニメならアニメーター。ここに実力ある人を押さえないとどうにもならない。逆にいえば、ここで信頼置ける人がいれば、あとはお任せでもいい。
 一応念のため。私が「画」と書いたらそれは「画面」全体のことを指す。画面全体のトーンやコンセプト、ルックなどを「画」と書く。「絵」と書いた場合はそれぞれの個別の絵のことになる。「背景絵がうまい」とか「キャラ絵がうまい」とか、そういうときに「絵」を使う。ここだけではなく、私のブログ全体がこういう書き分けになっている。

 「構想」「脚本」「画」が作品に私が必要だと思う3大要素です。

 映画会社に勤めている人は「数字を出せる俳優」を求めたがる。作品を売りたいから、有名俳優、あるいはただの有名なだけの“有名人”をとりあえず並べてしまう(そのとき売れている芸人とかね)。
 私はこれ、どうかな? とずっと思っている。これで売れなかったら「あいつは数字が出せない」とかお抱えのライターに書かせたりする。でも映画の良し悪しなんてものはコンセプトがしっかりしているかどうか。俳優は呼ばれて、言われた通りのことを全力をこなしてやっただけ。映画の失敗を俳優のみに押し付けるのはどうなんだ?
 というか、数字を出すためだけに、とりあえず有名人だけを連れてきて、そこに当てはめました。するとどうにもその俳優のイメージとかけ離れているために、脚本を書き換えました……こういう話もわりとあるけど、それで面白いものができるわけないじゃないか。でもとりあえず失敗は俳優のせいにされてしまう。こういう失敗は、もうそもそも映画のコンセプト自体が失敗しているからじゃないか、という気がするのだが。
 と、数字にしか興味のない連中に言っても無駄な話だけど。

 最後にどうしても引っ掛かったある一文について。

 宮さん自身も「自分があと3人いたら誰もいらない」と公言している。
                                                                                                    166ページ

 ……あれ? これは宮崎駿さんの発言ではなく、元は北久保弘之さんの発言だったような……。いや、もしかしたら後に宮崎駿本人も言ったかもしれないし。私も発言元がうろ覚えなんで、はっきりしたことは言えない。家にある押井関連本全部読み返したら出てくるかもしれないけど……大変だな。
 とにかく、この一文に引っ掛かった、ということで。


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