映画感想 好きでも嫌いなあまのじゃく
孤独を乗り越えるための戦い。
今月はアニメ月間だ……と、決めたものの最後の1本なんにしようか。そこにちょうどよくNetflixオリジナルアニメがあったので、こちらをネタに。『好きでも嫌いなあまのじゃく』2024年5月よりNetflixにて独占配信。劇場公開は、作品が山形県米山市からの制作依頼があって作られた作品なので、山形県内映画館などで上映されたらしい。それ以外の上映情報については、調べた範囲では記述がない。
監督は柴山智隆。Wikipediaすら作られていない、まだ表舞台に出てきたばかりの新人クリエイターだ。東京造形大学を卒業し、スタジオジブリに仕上げスタッフとして入社。『千と千尋の神隠し』の制作に参加した後、ジブリを退社して作画に転向。『ふたりはプリキュア Max Heat』『ケロロ軍曹』などの作画を担当した後、2006年のテレビシリーズ『よみがえる空』にて初めて作画監督を担当。様々な作品を経験した後、2022年『泣きたい私は猫をかぶる』で監督デビュー。本作は2作目となる。
はじめに「山形県米沢市から制作依頼があった」と書いたが、話はもうちょっと複雑だ。前作である『泣きたい私は猫をかぶる』という作品で、東海市のテレビ局が声優オーディションに協力したのだが、その東海市の姉妹都市提携しているのが山形県米沢市。その繋がりで「うちを舞台にした作品を作ってくださいよ」……と言われたか定かではないか、そういう流れで山形県米沢市が舞台のアニメの制作されることとなった。作品完成に先立つ2023年、米沢観光コンベンション協会などの団体が「米沢アニメツーリズム誘客推進協議会」が発足し、その事業の一環として作られた作品ということになる。
作品評価は映画.comなどを見ると5点満点中2.7。英語圏のオンラインス・トリーミングコンテンツ・データベースサイトであるIMDbでは10点満点中6点。やや低い。レビューを見ると厳しく評価している人は多いようだ。この辺りの理由も後ほど掘り下げていきましょう。
では前半あらすじ。
学校の美術の時間。
「じゃあ今、隣にいる人とペアになって」
先生がそう言うと、クラスメイトのみんながすぐ側にいる仲のいい友人とペアになって、ざわざわし始める。そういうなかで、あぶれる少年がいた。八ツ瀬柊。今回だけではない。八ツ瀬柊があぶれるのはいつもだった。
いつもはぐれ者の柊。でも柊自身は、どうにかみんなの中に入ろうとしていた。
「忘れてた! 宿題やったのに、机の上に置いて来ちゃったよ」
という生徒がいたら、自分のノートを見せてあげるし、
「俺たち、このあと約束あってさ、任せちゃっていい?」
と掃除当番を押しつけても引き受ける。
便利で役に立つ柊。
でも柊は孤独だった。みんな柊を“便利なやつ”として“使う”けれども、友人になってくれる人はいなかった。
そんなある日――バス停の横を通り過ぎようとすると、バスの中で女の子が運転手となにか言い合っていた。
「待って待って、すぐ見つかるから……あれ~? おかしいな……」
どうやら財布が見つからないらしい。柊はバスに駆け寄って、「バス代なら、僕が出しますから」と申し出るが、女の子は「いいよ、もう歩いて行くから」とバスを降りてしまった。
女の子はどうやら旅行中らしい。今夜泊まるところもないようだから、柊は女の子を家に招くことに。女の子はツムギと名乗った。
ツムギを招いての楽しい夕食の後、柊は父親の幹雄と話す。幹雄は「お前のために家庭教師を雇った。もう塾には通わなくていいぞ」と。しかし柊は今後も塾に通い続けたい。父親はそんな柊になんの相談もせず、勝手になんでも決めてしまう。そんな父親と柊の関係は冷め切っていた。
その夜、父親へのわだかまりで煩悶とする柊。その背中から、じわじわと冷気が立ち上っていた。その冷気が、気付けば奇怪な怪物の姿に変わる。
え、なに、これ……。柊は声を上げる間もなく、怪物に襲われる。
そこに、ツムギが飛び込んできて、助け出してくれた。そのまま、柊とツムギは夜の町に飛び出していく。
実はツムギは鬼。隠の郷からやってきて、失踪した母親を探しているという。柊はあの雪の怪物に襲われたことによって、怪異が見えるようになっていた。
ツムギの母親は、日枝神社にいるという。一緒に旅をしてほしい……そうお願いされて、柊は迷うが……ふと自分の日常を――学校でも家庭でも孤独だったことを思い出す。ツムギと行こう。それは柊にとってのささやかな日常への反抗だった。
そのまま家に戻らず、夜通し歩き続ける。やがて朝が来たけれども、いよいよ歩き疲れてしまった。
「ヒッチハイク! 米沢行く車にのっけてもらおうよ!」
というツムギの提案に、柊は難色を示すものの、付き合うことに。間もなくこれからフリーマーケットへ行く予定の竜二&澪兄妹の車に乗せてもらう。
そのままフリーマーケットの仕事を手伝うことになったのだけど、そこに現れたのがあの雪の怪異だった……。
ここまでのお話しでAパート25分。
細かいところを読み込んでいきましょう。
主人公八ツ瀬柊は孤独な少年。「はいペアを作って」と言われたら、いつもあぶれるタイプの少年。
かといってみんなから仲間外れにされている……という感じでもない。なんとなくいつもあぶれる。いつも孤独になる。学校でお喋りに付き合ってくれる友人すらいない。
八ツ瀬柊もそういう状況を変えたくて、積極的にクラスメイトに絡みに行くけれども……ノートを貸してあげたり、掃除当番を引き受けたり……結局ただの「便利なやつ」扱いにされているだけ。
八ツ瀬柊のクラスメイトだけど、描写はかなりマイルドだけども、よくよく見ると全員ナチュラルにクズばっかり。八ツ瀬柊はクラスメイトと友達になりたくて、なんでも首を突っ込んで「僕がやってあげるよ」って申し出るのだけど、クラスメイトは「便利な道具」扱いして、サラッと切り捨てる。意識的に描写をマイルドに描いているのだけど、一歩間違えるとイジメの話になる。
では八ツ瀬柊はどんな男の子なのか……それはお母さんの台詞からわかる。
「私も小さい頃は柊みたいなくせっ毛でね」
実はかなり母親の遺伝子を引き継いでいる。
こういう場面の体の細さを見るとわかるでしょ。もじゃもじゃの頭に、メガネ……といういかにもダサくて平凡な少年という装いだけど、よくよく見るとめっちゃ美少年。
実は美少年だけど……もじゃもじゃ髪とメガネでマイナスさせている。おかげで誰からも美少年だと気付かれてないし、本人も自覚がない(たぶん視聴者の半分くらいは、柊が美少年だと気付いてない)。これも意図的なキャラ作り。
八ツ瀬柊君のノートと手元。指先も、字の書き方も女の子みたい。アニメで、少年キャラだからこういう描き方にしているんじゃなくて、意識的に女の子っぽい感性の少年として設定付けされている。
で、10代始め頃の子供って、かなり動物的に考え、行動する。動物的な視点で、相手が強者かどうか、役に立つかどうか……そういう視点で友人関係を作ったり、切り捨てたりする。みんな覚えがあるよね。
その中で、女の子っぽい感性の八ツ瀬柊は切り捨てられがちになっていく。なぜなら動物的な感性が強い時期だから、男の子には「強さ」を求める。自分が強くなりたいか、強いやつについていきたくなる。そこから外れるやつは、本能的行動で切り捨てちゃう。そういう男性的強さを一切持たない八ツ瀬柊は、無条件にスクールカースト最下位に押し込められ、「あいつと友達になってもなんの得もないや」……みたいな切り捨てられ方をされてしまう。
なんで八ツ瀬柊をストレートに美少年として描かず、もじゃ髪+メガネというクソダサ・スタイルで描くのか。美少年に描いちゃうと、スクールカースト最下位に押し込められている説得力が出なくなるでしょ。美少年だったら、スクールカーストの上位にいけるはずだから。だから一見して誰も美少年だと気付かない……という描き方を意図的にやっている。
次に八ツ瀬柊の家の様子を見ていきましょう。
八ツ瀬柊の家はこんな様子。たぶん、新築注文住宅。で、お母さんは手作りでコロッケを作っている。手作りでコロッケ……だよ? 意味わかるよね。コロッケのようなやたらと手間のかかる食べ物を、当たり前のように手作りをやっているような家庭……。八ツ瀬柊は実は「勝ち組家庭」。
で、お父さんの幹雄がこちら。「幹」で「雄」だから、めちゃくちゃに男性的。こうやって見ると、柊がお父さんの遺伝子をぜんぜん受け継いでいないことがわかる。アニメの少年キャラだから……ではなく、明らかに意図的な設定。
八ツ瀬はご覧の通り「勝ち組家庭」で、柊は長男。お父さんは当然ながら、息子に勝ち組としての人生を歩んでほしいと思っている。「勝ち組家庭の長男」という振る舞いを期待されている。そこで「塾ではなく個人指導の先生」というのは、合理的には正しい。合理的な判断を優先させる……というところも男性的な行動だ。
でも八ツ瀬柊は明らかに母親の遺伝子を引き継いだ、女性的なタイプだ。男性的、父性的な決断を、スッと受け入れることができない。父親のように「勝ち抜く」という感覚ではなく、「和」を大事にしていきたい……と考えている(その「和」はないんだけど)。ここで子と親ですれ違いが生じる。
映画の前半で、八ツ瀬柊の家庭をかなりしっかり見せる。ここに尺取りすぎじゃないか……と思うかも知れないが、ちゃんと意図と狙いがある。八瀬柊が母親遺伝子を引き継いだ女性的な少年で、勝ち組家庭で、父親との葛藤を抱えている……という背景設定を見せる、というのがこのシーンの意味。
柊はある夏の日、ツムギという女の子と出会う。
鬼の女の子。アニメで鬼キャラにハズレなし……と昔から言われるけど、ツムギちゃんもめっちゃ可愛い。ツムギちゃんが可愛いので、八ツ瀬柊が実は美少年……ということがいい具合に霞んでくれている。
ツムギちゃんは「隠の郷」からやってきた鬼。「隠の郷」というのは本来「死後の世界」。「あの世」のこと。しかしこの物語では、もっと単純に異世界……と設定されている。
鬼はそもそも死後の世界で、罪人に罰を与える番人みたいな存在(そのもっと以前には、「死」を意味する語の一つだった)。でもそういう民俗学的視点ではなく、今時のアニメ的な感覚で描かれているので、鬼や隠の郷にそういう重い意味づけはされていない。ただの異世界と思えばそれでよし。
こちらが隠の郷の風景。永遠に冬の世界だという。やっぱり「死後の世界」のイメージがちょっと意識されているんだろう。
ツムギちゃんの役割はなんであるか、というと八ツ瀬柊の対象。八ツ瀬柊がまわりに気を遣う気質であるのに対し、ツムギちゃんはエゴの権化。自分勝手。わがまま。作品の中ではだいぶマイルドに、社交的に描かれるのだけど、よくよく見ると、かなり自分勝手で無神経な姿が描かれている。
八ツ瀬柊が周りに気を遣い、関係性をがんばって築き上げるのだけど、ツムギちゃんはさも当たり前のように、その関係性の上に立っていく。
そんなツムギちゃんに引っ張りだされることで、八ツ瀬柊は自分がこれまで成し得なかった「人間関係」の構築に成功していく――というのが本作のストーリー。
どうしてそうなるのか……八ツ瀬柊は自ら“便利なやつ”になっていっているけど、その背景には八ツ瀬柊のエゴがある。
僕はこんなに役に立つやつだよ。僕に注目して!
……という下心がある。しかしツムギちゃんと旅をして、人と交流する過程で、自分のエゴを捨てて、他人のために何かする。そこでやっと初めて他人とまっとうな交流を持てるようになる……というのがここからの展開。
こんなツムギちゃんに、八ツ瀬柊は「日枝神社まで案内してほしいの」とお願いされる。
八ツ瀬柊は一瞬戸惑うが……学校でのこと、家でのことを思い出す。
画面は掃除当番を押しつけられているところ。学校では「便利なやつ」扱い。家では父親との対立。自分にとって、学校や家庭は、本当に大切なものなのか? どこにも居場所なんてなかったんじゃないか? ツムギちゃんに旅の誘いを受けたとき、これまでの学校や家庭でのできごとがわっと浮かび上がってきて、ある種の逃避と反抗の意思を込めて、了解することに。決して「可愛い女の子に誘われたから」ではなく、内的な葛藤が動機として描かれている。
こんなふうにいきなり旅立ちを決めてしまった八ツ瀬柊。一晩帰ってこなかったことに、父親は心配し、「あいつの行きそうなところ探してくる」と行ったのが近所の公園。
いや、子供じゃないんだからさ……。父親はまだ柊を子供扱いしている……というのが見えてくる場面。こういうところも父と子ですれ違っている。
映像はとてもよく作られている。
たぶんほとんどのシーンは実際の風景なのだと思うが、よく描けている。空間に変な破綻は見つからないし、そのなかでキャラクターが生き生きと動いている。旅のシーンに入ってからの風景描写が特に良い。下積みがしっかりした絵描きの作品だということがわかる。
なんでもないシーンの作り方がいい。ここも、二人がただ歩いて話すだけの場面だけど、ツムギちゃんが田んぼがある、一段高くなっているところに登って歩く。ちょっとした一工夫だけど、こうすることで単調なただ歩いて話すだけが、このシーンならではの特別な印象になる。
こちらは対話をしながら、なぜかブランコを受け渡しをする……という場面。ここもちょっとした一工夫。ただ話すだけではなく、画面をきちんと作っているし、ブランコの受け渡しでキャラクターの感情を表現している。
キャラクター作りも非常に丁寧。この何でもないシーンにでてくるキャラクター達、みんなキャラ名が付いている。モブキャラではなく、ちゃんとどういうキャラクターなのか、ある程度の背景が作られている。映画の中で一瞬しかでてこないキャラクターであっても、きちんとキャラクターが作られている。とにかくも丁寧。
前半は現実の山形県、後半は鬼の住む隠の郷……という構成で、異世界へ入っていくのだけど、その世界観が小さくもなっていない。かなりしっかり世界観構築ができている。異世界だけど、どこか現実と地続きに感じられる世界……。このバランス感覚が絶妙。
この物語設計になにが必要なのか、よく理解した上で描いている。非常に賢い絵の作り方だし、全体を通しても絵が上手い。画面作りの筋がいい。
ここまでが本作の良いところ。前提設定がよく練り込まれている。空間設計がうまい。キャラクター作りが丁寧。単純に絵が上手い。
……しかし。
実際の作品を見ると、なんか拍子抜け。プロローグまでは「お、面白そう」という感じだけど、そこからの展開が「うーん、どうした?」という感じになる。
具体的にどこでそう感じたのか、を掘り下げていこう。
それまで八ツ瀬柊は家庭でも学校でもまともな人間関係を築けなかったのだけど、旅をはじめた切っ掛けに様々な人と会い、きちんとしたコミュニケーションを取るようになっていく。その末に、最終的には独立した個人として成長していく――そういう枠組みの物語で、それ自体はいいんだけど、問題はその過程……。そこが面白くないんだわ。
最初に会うのが竜二&澪兄妹なのだけど、この二人もなにかしらの葛藤を抱えている。その葛藤を解消しよう……というのが最初のミッションだけど、その内容が他愛もなさ過ぎる。え……だからどうした? という感じ。
しかもその解決が、ただ心情を台詞で喋るだけ……いや、テレビドラマじゃないんだから。心情をダーッと喋ってスッキリしたら、葛藤が解消されました……というあまりにもつまんない展開。
この後の展開もだいたいこんな感じ。会う人会う人、なにかしらの葛藤を抱えているけど、ぜんぶ対話で解決しちゃう。柊&ツムギがそこで何か行動する……というわけではない。ただ話をして、葛藤を解決する。
途中でも「絵作りがきちんとしている」と書いたけれども、それは物語の傍流のほうの話で、物語本編に入ると、なぜかドラマが薄くなる。「なーんだ」っていう印象になってしまう。ウォームアップはきちんとしているのに、全球空振り……という感じ。
お話しの前提設定についてだけど、最初に「柊にまつわる設定はよく練られている」と書いたけれども、一方でツムギちゃんの設定は雑。
ツムギちゃんは、柊の背中から白いモヤモヤしたもの(小鬼と呼ぶそうだ)が浮かび上がるのを見て、しばらく柊と共にすることを決める。
なんで? この理由がわからない。ツムギちゃんはなにを目的に、八ツ瀬柊の家へ行こうとしたのかわからない。
で、その後、ツムギちゃんは柊に「日枝神社まで案内してほしいの」とお願いをする。どうやらツムギちゃんは日枝神社の場所を知らなかったから、それで柊に頼ったのだけど……でもなんで? 地図をもらえばそれでよくない?
一緒に旅をすることになったのだけど、なんで荷物を取りに帰らなかったの? ツムギちゃんはリュックの中に着替えやら旅に必要な道具やら入れてたはずでしょ。なんで取りに戻らなかったの?
いろんな「?」があるのだけど、ぜんぶ投げっぱなしで物語が展開していく。
展開もまずくて、数日の旅の末、日枝神社に到着したけれど、そこにはお母さんはいない……じゃあここまでのお話しはなんだったの? ここまでの展開で柊の人間的な成長はあったのだけど、でも旅の終着点にお母さんがいない……。じゃあここまでの話は意味があったのか、という疑問になる。
観光事業で作った映画だから……という以上の理由がない。物語的な意味づけがされてないのだから、これを見て「聖地巡礼に行こう!」と言われてもね……。
その後、柊はユキノカミに喰われて隠の郷へ行くのだが、この展開もなんで? となる。なぜユキノカミは柊を隠の郷に連れて行ったのか? その理由が示されていない。
隠の郷に到着してからのエピソードも、ずっと「なんで?」「なんでそうなる?」の連続。最終的には奇跡が起きて、問題が解決するのだが、そこも「なんで?」。奇跡が起きて事件解決……がダメなわけではなく、そこまでの積み上げが必要なんだよ。当事者がギリギリまで頑張って、最後は運に任せるしかない……という展開で起きる奇跡なら納得感と解放感があるけど、本作の「奇跡」は「なんで?」って感じ。いきなりすべての問題が解決されるから、いくら「奇跡です!」って言われても納得感がない。
オープニングも「なに、これ?」という感じ。2回目の視聴の時に、このオープニングなんの意味があるんだろう……と考えたけれど、よくわからなかった。もしかしたら、このお話、実は何度かループしている……という小ネタが仕込まれているのかも知れないけど(だとしても意味がない)。
それからね……この作品のレビューをいくつか読んだけど、みんな「あの作品」を連想していた。私も「あの作品」を連想しちゃっていたんだけど……。
この作品のことね↓
本作と『すずめの戸締まり』、物語のフォーマットに少し似たところがあるんだ。各地を旅して、問題を解決して、その地域の人と交流する……物語の枠組みが似ているように感じる。そういうフォーマットの作品一杯あるけど、やっぱり近年の大ヒットアニメだから、どうしても頭の中にちらついてしまう。
『好きでも嫌いなあまのじゃく』がダメというわけではないけど、新海誠と比較しちゃうと……ねぇ。
新海誠はいま「国民的作家」になって、なんとなく低く見られがちだけど(これはチェーン店に対しても言える話だけど)、新海誠の構図作りは世界で一番うまい……と言っていいくらいにうまい。大衆作家になると、その作品のイメージがあちこちに溢れて、なんとなく「ありきたりなイメージ」という気がしてしまう。かつて新海誠が「知る人ぞ知る作家」だった頃は、一枚絵がもたらす圧倒的な絵力にみんな影響されていた。でもそれは、誰にも知られていない、たまにしか目撃できない貴重なもの……みたいな感覚だけど、今は新海誠フォロワーが業界に山ほどいる、という状況にすらなった。そういう状況を前にして、私たちの感覚も実は知らずにアップデートされてしまっている。私たちはもっと凄いイメージを、もっと凄い刺激を……という感覚になっている。
(「チェーン店の味」についても同じように言えることで、チェーン店になるとありふれたものになるから、その味が「安っぽいもの」という認識になっていく。でも、チェーン店を舐めない方がいい。そもそも、美味い、サービスがいいからチェーン店として広まったんだ……という認識は忘れちゃいかん)
私たちは新海誠の凄さを、国民的作家になったせいで忘れちゃってるけど、新海誠の絵作りとまともにぶつかり合って、勝てるわけがない。
本作『好きでも嫌いなあまのじゃく』も新海誠と比較されちゃうとね……どうしてもあらゆるものがダウングレードした作品……みたいに見えてしまう。『すずめの戸締まり』の縮小版。『すずめの戸締まり』というでかい作品が前景にあるから、どうしても同じフォーマットの作品である本作が、小さく小さく見えてしまう。もともとシナリオに引っ掛かりのある作品だけど、より小さく見えてしまう。
(素人さんはよく「売れたいんだったら『鬼滅の刃』みたいなの描けばいいじゃない」……と気楽に言うけれども、それが絶対ダメな理由がこれ。先行するヒット作品があると、絶対に比較されて批評されてしまう。作品がそこそこできがよくても、どうしても先行作品のファーストインパクトには勝てず、過小評価されてしまう。先行する大ヒット作を絶対に超えている……という要素がなければ、勝負すべきではない。……という認識を、素人さんにも理解してほしいんだけど)
途中に「映像作りはしっかりしている」と書いたけれども、実は引っ掛かりもあって……。
こちらの場面。
朝日を見て「きれい……」という台詞はいりません。
どうして「きれい」という台詞を入れたのか、というと自分で作った絵に自信がなかったから。新海誠だったらやんない(やっぱり新海誠と比較しちゃう)。自信を持って、いい絵ができている……という確信があるなら、一枚絵をドンと見せて、あとは観客に委ねればいい。それがまだできていない。
ここのシーンも同じく。キャラクターにリアクションさせないと、その場面の美しさや感動を伝えられない。まだ作り手として未熟……というところが見えてくる。
まとめです。
途中、私はかなり厳しく批評したけれど、だからといって「この作家の作品はもう見ません」……というつもりはない。なにしろまだ監督2作目。まだまだ修行中。まだまだ若い。これからの作家だ(Wikipediaすら作られていない作家なのだから)。むしろ、画面作りそのものはよくできている。筋はいいのだから、これからいくらでも成長するタイプだ。この段階で芽を摘んじゃうのが一番いけない。
それに作品を見ていて嫌な気持ちにはならない。作品作りの基礎はできているから、どのシーンも平均以上の画面は作り上げている。才能も実力もきちんとある。
さしあたって柴山智隆監督に必要なのはなんだろうか? それは優秀なプロデューサーに巡り会うこと。映像作りの基礎はもうガッチリできているのだから、あとは映画としての構成。こういう映像作家はいいプロデューサーに巡り会うと、いきなり化ける。私はそういう事例を何度も見てきた。
本作はあまりにも小さい、小さく収まりすぎている作品だけど、クリエイターの今後には期待できる。この作家に必要なのは、まずモチーフの選択、次にもっと大きな風呂敷、それから物語をきちんとまとめる能力。これさえあれば良いはずだ。
柴山智隆監督の次回作に期待しましょう!
この記事が参加している募集
とらつぐみのnoteはすべて無料で公開しています。 しかし活動を続けていくためには皆様の支援が必要です。どうか支援をお願いします。