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映画感想 ソニック・ザ・ムービー2/ソニックVSナックルズ

 青いネズミが超音速で戻ってきた!

 セガのシンボル的キャラクターである「ソニック」を主人公にした映画『ソニック・ザ・ムービー』は2020年に公開され、ゲーム原作映画史上最高の全米興行記録を達成。その続編が2022年に公開された本作『ソニック・ザ・ムービー/ソニックVSナックルズ』。原作ゲームからテイルズ、ナックルズの2人が参戦し、いよいよ本格的にゲームのキャラクターが集結する。
(原題は『Sonic the Hedgehog 2』。どうして邦題から『~2』を取ってしまったのだろうか?)
 2020年に公開された前作は爆発的な大ヒットとなり、2月に公開されたわけだが5月にはもう「続編」の制作発表。前作の監督、脚本家、キャストが続投されることも発表された。
 2021年の間に撮影は完了し、2022年4月に劇場公開。本作も爆発的な大ヒットとなり、全世界興行収入4億ドル(544億円)達成(うち日本での興行収入1億8300万円)。1作目で叩き出した「ゲーム原作映画史上最高の全米興行収入記録」を更新した。ただし、翌年には「キノコ王国」を舞台にしたあのゲームの映画化でこの記録は打ち破られることとなる。やっぱりライバルはキノコ王国のヒゲ男だった。
 映画批評集積サイトRotten tomatoでは批評家評が69%。それに対しオーディエンススコアが96%となっている。批評家からは厳しい評価が下された一方、一般観客は高く評価した……ということになっている。あの「キノコ王国」を舞台にした映画と同じパターンだ。
 なんにしても興行的に大成功し、第3作目へとプロジェクトを繋いだ作品であるが……。詳しく内容を見ていくとしよう。

 では前半のあらすじ。


 おぞましいキノコに満たされた惑星の中で、エッグマンは243日の時を過ごしていた。だが無為に時を過ごしていたのではない。すべての準備は整った。エッグマンはその惑星で得られた物資だけで次元ゲートをひらく装置を作り、起動する。
 するとその向こうから現れたのは――ナックルズだった。ナックルズはエッグマンが持っている青いトゲを見て、こう尋ねる。
「それをどこで手に入れた?」
 エッグマンはナックルズとソニックの間にある因縁を察し、
「地球の青いチビからだ。喜んで案内しよう」
 と答えるのだった。

 シアトル。大通りを車が突っ切っていく。その後をパトカーが追いかける。強盗だろうか? 警官が人質に取られて、手出しができない。
 そこに、ソニックが介入する。ソニックは超スピートで車自体を解体してしまい、解決してしまうのだった……が、その過程で色んなものを破壊してしまい、人々から憎まれるのだった。
 ソニックはこっそり帰宅し、ベッドに潜り込む。少しだけ眠ろう……しかし犬のオジーに起こされてしまう。今日はトムと一緒に釣りに出かける予定だった。
 ソニックとトムは小舟に乗って、湖の半ばを漂い、釣り糸を垂らす。そうしながら、静かに対話する。トムはソニックが夜な夜な家を抜け出し、「自警団」のようなものをやっていることを責める。
「俺たち友達だろ。父親ぶるなよ。独り立ちならできる」
 不満げなソニック。
 トムは諭すように語る。
「独り立ちってのはヒーローになることじゃない。他人への責任を負うことだ。悪いが今の君はまだ子供だ。ヒーローになるためには、もっと成長しないと。君の力が必要になるときが必ず来る。でも君は時を選べない。時が君を選ぶんだ」

 それから間もなく、トムは友人の結婚式に出席するためにハワイへと向かう。
 留守番を頼まれたソニックは、1人解放感に満ちた時を過ごすのだった。そこに帰還したエッグマンが、ナックルズを伴ってやってくる。
「祖先の無念を晴らすのが俺の運命。「究極の力」を我が民の元に取り戻すのだ!」
 とナックルズは攻撃してくるが、ソニックはなぜ攻撃をされるのか理解できない。戦いを避けていると、テイルズが救援に入ってくる。
 ナックルズはエキドゥナ族の生き残りで、銀河の中でももっとも危ない戦士だ。マスターエメラルドを探している――とテイルズは語る。
 マスターエメラルド? それはおとぎ話に出てくるアイテムだ。現実にあるわけはない。それがなぜ自分に関係があるのか、ソニックにはわからなかった。
 ソニックとテイルズはどうにかナックルズの追跡を逃れる。その後で、エッグマンはナックルズと改めて「同盟」を結ぶのだった。エッグマンの狙いは、ナックルズが口走った「究極の力」。ナックルズを騙してそれをうまく奪い取ってやろう……と画策するのだった。


 ここまででだいたい前半30分。
 詳しいところを見ていきましょうか。

 ソニックは夜な夜なこっそり街に出ては、「自警団」ごっこをやっていた。ソニックには超スピードというスーパーパワーがある。その力の使いどころに悩みを抱えていた。とりあえず、わかりやすく「バットマン」のようなことをやってみるが、あまり歓迎されない。

 小舟の上で、同居人のキャプテン・アメリカ……じゃなくてトムからこう諭される。
「独り立ちってのはヒーローになることじゃない。他人への責任を負うことだ。悪いが今の君はまだ子供だ。ヒーローになるためには、もっと成長しないと。君の力が必要になるときが必ず来る。でも君は時を選べない。時が君を選ぶんだ」
(※ トムの吹き替えを演じた中村悠一はキャプテン・アメリカでお馴染みの人)
 ここでの話が本作のテーマ。
 ソニックは明らかなスーパーパワーを持っているけど、しかしその力を役立てることができず、持て余してしまう。能力と社会をマッチングさせられずに、孤立してしまっている。Marvelヒーローと同じような葛藤をソニックも抱えるのだった。

 まあ、ここまではいいとしよう。

 それはそれとして、見ていると「アメリカ的だな……」と思うところが一杯。

 トムがハワイへ行き、1人留守番をすることになったソニック。監視する者がいなくなり、自由気ままな時を過ごす。その過ごし方というのがひたすらに大量消費。ああ、アメリカのキッズだなぁ……という印象だった。

 こちらは好きなシーン。犬のオジーと一緒にポップコーンを食べながら、語り合いをやっている。ソニックが投げるポップコーンを、オジーはしっかり食べる。よくそんな演技やらせたなぁ。

 その後はナックルズがやってきて、テイルズとともに突然の旅が始まる。そういえば故郷から持ち帰ったあの謎の地図……。その地図を頼りに、今作のマクガフィンであるマスターエメラルドを探すことになるのだが……。

 「マクガフィン」とはアルフレド・ヒッチコックが1930年頃に提唱した映画技法で、登場人物に行動の動機付けをさせるためのキーアイテムのことである。映画的なポイントは、そのマクガフィン自体ではなく、そこに至る過程をどう描くか。映画の大半は、「過程」を描くことになるわけだから、そこを面白くできるかにかかっている。
 で、本作の場合は…………それ、必要? と尋ねたくなるシーンばかり。
 ソニックはキーアイテムを求めてシベリアへ行くのだが、辺りは吹雪。飛び込んだログハウス風の小屋の中で、なぜか「ダンス対決」をすることになるのだが……。これ、必要?
 いきなりキーアイテムを獲得できちゃうのはつまらないから、何か変わったことをしよう、そこで笑えるものにしよう……という考えは理解できるが、作品のテーマとあまりにも乖離しすぎている。
 この特に意味のないダンス対決でたっぷり尺を使った後、肝心のキーアイテムは実に簡単に獲得してしまう。「本題」であるべき部分がやたらと薄い。ここでバランスが悪く感じられる。

 もう一つのサブプロットがハワイでのドタバタ。トムが友人の結婚式でハワイにやってきて、ここで事件が起きるのだが……こっちも「それ必要?」と尋ねたくなる。ここの一連のシーン、編集から抜いてもお話しは成立するんだ。ソニックやテイルズが活躍する場面でもないので、この映画にとって必要なシーンだろうか?
 それに、展開がご都合主義だらけ。テイルズが持ち込んできた謎のアイテムを使って問題を解決するのだが、どれも初めて見るものばかりで、どう作動するかわからない。でも投げつけるとすべて都合良く作動し、敵を次々と排除してしまう。「凄い!」ではなく「なんで?」となる。どうして登場人物達がそれらのアイテムを使えるのか……という前景が描けていない。

 他にもご都合主義的なシーンはそこら中に見られる。
 突如襲撃してきたナックルズに、ソニックとテイルズは車に乗って逃げ出すのだけど……、いや、君たち自分で走った方が早いでしょ。ナックルズも超スピードで走れるので、車くらい一瞬で追いつけるはず。
 ダンス対決のシーンでも、地図を取り戻すときになぜかソニックは超スピードを使わない。あの場面は超スピードで地図を奪い取り、ただちに小屋から脱出……で解決だったはず。
 都合良く超スピードが忘れられたり、かと思ったらあり得ないくらいの超スピードで敵の攻撃を回避したり……。どうしていつでも超スピードを使わないのか、と突っ込みたくなる。
 それぞれがどんな能力を持っているのか……という前提の置き方があやふやになっている。都合良く能力が出たり出なかったり。ソニックの超スピードでも、実際の速度はどれくらいなのか、発動時間はどれくらいなのか……といった「能力の限界」が定義されていない。なので、シーンによって都合良く超スピードが発動しなかったり、かと思ったら超スピードでいきなり問題が解決されてしまったり……。
 映画を観ていた印象では、おそらくソニックは時間を操作できるのではないかと予想している。自分自身の実感としての速度は変わってないが、回りの速度が変わる。だからノーマル速度の時、回りの人々の行動や喋りが「遅すぎる!」みたいに感じることはない。能力が発動したとき、回りがスローになり、自分だけがそのなかを移動できる感じではないかと……。ただ、そういう話すら、作中のなかで定義付けされず、あやふや。そのおかげでなんとなくスッキリしない。
 そのうえで、ダンス対決やハワイでのドタバタといった特に意味のないシーンが描かれる。これは「そういうシーンが描きたかったから」から無理矢理突っ込んだんでしょ。本当ならソニックやテイルズの能力だったら、こういった難題は一瞬で回避できるはず。でもそういうシーンを描きたかったから、無理矢理にそこで足止めされるように作っている。そこで展開がわざとらしくなっている。「そういうことだったら仕方ないね」じゃなくて「いや、それはないだろ」という印象になっている。

 作劇上の問題は他にもある。新キャラクター・ナックルズが登場するのだが、そのナックルズがどういう背景を持っているのか……なんと本人がすべて台詞で説明してくれる。
 こうやってソニックを追い詰めた状態で、長々と、過去に何が起きたかを語り始める。そうやっているうちに、誰かから妨害されて……というパターン。
 こういうところも展開がわざとらしくなっている。ナックルズが本当に恨みを持っているなら、問答無用でソニックを殺すはず。そうしないから、ナックルズは本当にソニックを恨んでいたのか……と疑問に感じてしまう。
(というか、ナックルズは「ロングクロー」たちに一族を滅ぼされたのであって、ソニックは関係ないはず……)
 それで、なんやかんやあって、最終的にソニックとナックルズは和解する。これもあまりにも理由が簡単すぎ。それだけの話で長年の恨みが綺麗に洗い流されるものか? となる。あの展開ではナックルズ自身の葛藤は解消されてないはず。なのに、なんとなく「和解した雰囲気」で話は進んじゃっている。雰囲気だけでお話しを作ってしまっている。展開で納得させるものがなに一つない。脚本の作りがあまりにも雑すぎる。

 納得感が薄いのは、今作の“ヒロイン”であるテイルズが登場してきた理由。孤独なテイルズは、あるときソニックが発した波動を感知した……。
 で、なぜそれで「ソニックに会おう」と思ったのか。この理由が説明されてない。重要と思える説明を一個飛ばしちゃってる。映画中の説明だと、「ソニックに会おう」という理由になってない。
 こういうところに納得感が薄いのも、設定作り込みの甘いから。

 はっきりいって『ソニック2』は前作よりも良くなったところは何一つない。すべてが「惰性」で展開していく。脚本の作りがあまりにも雑。CGだけがそれなりに作られたファンムービーでしかない。それが批評家から厳しく評価された理由だが、一方で観客評価はものすごく高い。理由はシンプルで「観客の見たいもの」を全部詰め込んだから。
 1人の留守番でお菓子の大量消費。意味のないダンス対決。スノーボード。とってつけたような友情物語……。どれもアメリカの観客が見たいもの。そういったものがあっても良いのだが、『ソニック2』はあまりにも無秩序に敷き詰められている。それぞれのシーンへの遷移に蓋然性がない。展開が強引。だからすべてがわざとらしく見えてしまう。
 それでも観客の見たいものだけは描かれているから、高い観客評価を獲得できた。これは新しい種類のポルノというべきもの。結局はそういうポルノ的なものを、無秩序にダーッと並べれば観客は喜ぶんだ……そういう実態を突き付けたような作品だった。

 『ソニック2』を見ながら、ソニックはすっかりアメリカ文化に取り込まれたんだな……という気になった。食べ物を大量消費し、意味のないダンス対決をしたり……というのはアメリカ人的な嗜好。アメリカ人が喜ぶようなことをやってみせているだけ。
 それに、スーパーパワーを持った者の葛藤……というテーマは、Marvel映画のメインテーマ。ソニックのテーマではなかったはず。こういうテーマをソニックで語ろう……というところが、もうアメリカ的。しかも、そういうテーマの作りを歓迎されている。もう完全にアメリカ文化に取り込まれた、アメリカのシンボル的キャラクターになっちまったんだな……。
 ソニックはかつて、日本発のキャラクターだったけれども……と言われそうだ。
 こんな無茶苦茶な描き方でも許容されるのは、やはりソニック&テイルズのスター性から。映画は無茶苦茶だけど、やっぱりソニック&テイルズは可愛い。ソニックのアメリカ人気の高さを再確認したのだった。


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