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分かりあうためでは無く、相手を知るために対話する② ストラテラ服用日記872日目

昨日も書いたように相手と分かり合えるというのは幻想だ。

話し合っても必ずしも分かり合えるわけではない。むしろ分かり合えないことは多い。

日本は他国と比較して同一言語・同一民族・同一文化が長いというバックボーンがあるので、分かり合えるだろうという安易な考えがあるように感じる。

しなしながら、主義主張やポリシーが一致するとは限らない。それとこれとは別の話。
この別の話、と考えるのが感覚的に分かりにくいという方は多いのではないだろうか。頭では分かっていても、いざその場面になると納得行かないという顔をされる方は結構います。

対話をしても分かり合えるということはない。ではなぜ対話をするかというと、相手を知るためだと認識している。
相手の考えを知る、人となりを知る。共感するところは共感するし、共感できないところについて、なぜそう感じるのか・考えるのかを聴く。

結果的にそうなると、自分の中に新しい考え方や感じ方が生まれる。
それが学びにつながるのではないかなと思う。とはいえ、学ぶために対話するわけではない。あくまでも対話は相手を知るためにするものであって、そういった学びを目的にするものではない。

すこし横道にそれてしまったが、分かり合う・分かり合えるという前提があると会話も対話も上手く行かない。
逆説的だが、お互いに分かり合えないという前提に立つと会話も対話もうまくいく。
お互いをよく知るために、お互い分かり合えないという前提に立って話をしてみるともっと相互理解が深まると思うので、もし分かり合えるという前提がある方は自信を省みるといいかもしれない。

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