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前門の三島、後門の保田

 いささか大仰なタイトルなのだけれども、昭和の文学を代表する美文家として知られる三島由紀夫と保田與重郎に挟まれて、美文を書け書けと責められている妄想に勝手に陥って、勝手に苦しんでいるという話である。

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 三島由紀夫はいつも自分の目の前に立ち塞がっている。通俗的にいわれる三島派と太宰派に分かれるとしたら、青年期の自分は完全に太宰派であって、三島といえばやたら装飾を施した文章を書く、自己陶酔的な煩わしい作家だと読まず嫌いをしていた。ところが、若い頃に多少関わった人々、ことに女性たちはことごとく三島の影響を受けており、例えば『憂国』の濃密なエロスを知るべきだと言って勧められたり、『美しい星』や『宴のあと』などにおいて、その理想を追い求める精神についてレクチャーを受けたりしたものだった。その影響で三島の作品は、嗜む程度には読むことになった。おかげさまで現在の私は、三島信者には至らないまでも、彼の文章が絢爛なばかりでなく、その論理構成においても優れて美しいことを知っている。私は三島の美文の構成要素としては、表現上の技巧よりもはるかに論理構成力に比重があるとみており、これだけの凝らされた意匠を論理的にまとめる力を大いに尊敬する。
 これまでに読んだ三島作品は主要な一部の作品に過ぎないので、自分が物知り顔に論じる資格があるとは思わない。美しさでは『豊饒の海』四部作のうち『春の雪』と『奔馬』が双璧だと思っている。通俗的な小説作品としては『青の時代』なども、美しさはあまりないが、嫌いではない。自分のもともとの学問的関心は『奔馬』や『憂国』に描かれたような熱情や至誠といった観念の政治的または社会的あらわれであったし、こうして並べてみるといずれも青年期を扱った作品であり、自分の関心の偏りがよくわかる。自分は青年が好きなのだろう。

 三島と青年といえば先日、Amazonプライムビデオで『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』を視聴した。死の1年半前、三島が東大に招かれて実施されたこの討論会の映像自体は過去に何度かテレビで放送されたので、思想史にかぶれていた若い頃に何度か見たことがあった。しかし嚙み合わない議論だという印象だけが残って、わけのわからない映像として記憶に留まっていた。ところが、この時の三島に年齢が近づいた時点で再度見てみると、自分をやりこめようと躍起になるインテリ青年たちに対してはぐらかすでもなく、正面から対話を成立させようとする真摯な姿に胸を打たれて、深く共感するところがあり、自分でも驚いた。若者たちに対する三島の正面切っての応対ぶりについては映画内で評論家の内田樹氏も指摘していた。かたや盾の会を組織して自分の信念に共感する青年を集め、かたや敵愾心を剥き出す青年たちに対しても諭すように対応していたわけである。映画では、三島が「青年が嫌い」だという真意についても、それは青年が頭でっかちでものを考え、地に足のついていないことを嫌うのではないかと、盾の会メンバーが代弁していた。若き観念のぶつけ合い、精神における肉弾戦が描かれたこの映画は、青春論として見るべき映画なのである。

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 保田與重郎のことは学生時代に橋川文三『日本浪曼派批判序説』を読んで知った。同時代に保田の美文に酔わなかった後世の人間にとって、橋川の文芸的な思想分析(あるいは自己批判)を通じて保田を知るという人は多いのかもしれない。師である丸山眞男が摘出した「超国家主義」という概念についての疑問を、橋川は保田與重郎を引照しつつ展開している。それはまさに理性的学知に対して情動的詩をもって対置するといった思想であって、鮮烈な衝撃だった。橋川が保田を咀嚼して食べさせてくれたことにより、私にとっての保田は、皮肉にもむしろ喉に刺さった小骨のように引っ掛かる存在となった。読まねばならない存在でありながら覚悟が決まらないために触手が伸びず、かといって放置して前に出ようとすると、俺を忘れるなよとばかりに後ろから髪をつかんで引き止められるような、そんな存在である。せいぜい近代批判の論理としての『近代の終焉』(保田與重郎文庫)を読んだ程度で、保田の文名を高からしめた評論「日本の橋」や「後鳥羽院」には、今なお正面から取り組めてはいない。いつか解決しなければならない問題なのだろうか。
 保田が気になる別の理由に、私の同郷人ということがある。保田は奈良県桜井市の出身である。彼の写真を見ると、いかにも奈良県のおじさんという感じの朴訥とした顔付をしている。奈良県の顔などというと単なる思い込みで、どこにでもよくあるおじさんの面相なのかもしれないが、わが古都によく見られる顔という印象が拭えない。自分もいずれああいう顔付になるのかもしれないと思っている。彼は桜井市の大神おおみわ神社の巨大な鳥居の足元で、隠遁者のように過ごした。

 三島由紀夫は保田與重郎の文章に魅せられた一人で、両者は一度会っている。そして、三島は会って失望しか残らなかったという。イタリア人外交官であるロマノ・ヴルピッタによる保田の評伝『不敗の条件』は、三島の『私の遍歴』を典拠として「保田の本を集めて、その文章の美しさに感心した学習院時代の三島は、『その神秘的な保田氏に、いよいよ会ふチャンスがめぐつてきた』時、その出会いから記憶に残ったのは、失望だけである。この一回だけの出会いの後、三島は保田に会おうとしなかったことを考えると、失望がかなり大きかったのであろう」と書いている。ヴルピッタ自身も、保田に初めて会った時、著作を通じて想像した人物と現実の本人との格差を感じたと述べている。

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 ところで、最近はアホ面でYoutubeを見ている時間がすっかり長くなってしまい、コロナの影響でますますその傾向は助長されている。ある日あるチャンネルにて、そのチャンネル主が語る回顧談をぼんやり見ていると、その語り手の前にある机に、『保田與重郎全集』が1冊と、それと並べて上記ロマノ・ヴルピッタ著『不敗の条件』が置いてあるのが目に留まった。これらが並んでいることは偶然ではなく、明確に保田を意識して読んでいる人間によるレイアウトである。動画で語られている内容は保田與重郎とも日本浪曼派とも、さらには文学とも全く関係がない。コメント欄を見ても、机に置かれた本について指摘している人は誰もいなかった。
 その語り手とは、元プロレスラー・格闘家の前田日明氏であった。前田氏が読書人で該博な知識をもっていることや、かつて現役時代に太宰治を引用してヴェルレーヌの「選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり」を新団体旗揚げの挨拶で使ったことはファンならよく知っていることだろう。また、自身の主催する荒くれものを集めた格闘技興行に出場した不良少年に、小林秀雄の『本居宣長』を贈って読ませたというエピソードもまた別の動画で紹介されていた。また、前田氏は保田與重郎伝を書いた福田和也氏と対談しているようなので、そのあたりの流れもあるのかもしれない。
 考えてみれば、太宰は保田の主宰した日本浪曼派の同人であったし、小林秀雄は日本浪曼派に同調はしていないが、近い位置にあったとも言えるので、こうした流れから前田日明が保田與重郎を読んでいても、特段不思議はないのかもしれない。取り合わせの妙である。

 また、2020年1月に急逝した坪内祐三氏は、時評やコラムのような軽妙な短文から、『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』にみられるような文学史に迫る長編エッセイまでものし、また、講談社文芸文庫で正宗白鳥や十返肇とがえりはじめなどの、ちょっと通好みっぽい著者の随筆集の編者としても活躍された。文壇に関心がある者としては、坪内氏自身も気になる存在であるわけだが、そんな坪内氏の蔵書の中にも、保田與重郎全集があったらしい。(それが「本の雑誌」2020年4月号の書棚写真からわかるというのを、下記のnote記事で知った。なお、記事にはアイザイア・バーリンの選集も揃っていて驚いたとあるが、ロマン主義研究の筋道と考えれば合点がいく気はする。)

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 以上、三島由紀夫と保田與重郎について考えていたことの断片を、ただずらずらと並べてみた。
 あまりに雑駁で、もっと突き詰めて考えたい問題がたくさんあるが、20年越しで漠然と考えるばかりでこのとおりほとんど煮詰まっていないので、死ぬまでに解決できるかどうかはわからない。当分は彼らに悩まされて美文を書けと迫られ続けるばかりかもしれない。




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