独居、閉所に籠る
閉所で抑圧された人間は、広い場所に逃れたいという指向性が出て来るのが自然なように思われるが、案外、さらに狭い隙間に閉じこもりたいという指向性が出て来る場合もあるようだ。一人の人間でどちらも併存するというのが本当のところかもしれないが、自分の場合は後者の傾向が結構強いように思われる。自分の狭い部屋から、さらに狭い浴室やトイレへ。狭い場所から狭い場所へとどんどん奥に分け入っていく。そうすることで思考が湧きだしてくる気がする。閉所に籠っている状況で発想が豊かになることは、経験が実証している。例えば浴室に籠り、外部の情報を一切遮断して自分に向かい合っているとき、発想が湧きだして止まることがない。
風呂はこれまでもっぱらシャワーのみで済ませる人間だったけれども、ここ数日は湯舟に身を沈めて入浴することを続けている。それによって、スマホ中毒あるいは煩わしい「文字の麻酔」から逃れられる唯一の場を確保している…というのは後知恵で、実際のところ、今夏の猛暑に備えて身体を慣れさせておくという健康上の豆知識を実践しているに過ぎない。
たった10分だけでも湯温を身体中に行きわたらせ、血がめぐると、寝起きの気分の良さが全然違うことに気づく。そのまま陶酔に身を任せて一人狭い浴室で湯に浸かっていると、頭の中もぼんやりしてきてふわりふわりと考えがめぐる。そういえばなぜ浴槽のことを湯舟というのだったっけ。「舟」の中に水を張っては沈んで困ってしまうじゃないか。調べてみるに、もとは屋形船に浴槽を備えた移動式銭湯を「(大江戸)湯舟」といったようだが、それが転じて浴槽自体を湯舟と称するという説がある。船の中で溺れないようにという逆説的な戒めの気分が反映されているのかもしれないが、それにしても不吉な転用ではないか。もし自分が不吉にも、このまま何らかのトラブルによって浸水した湯舟で溺れたとしたら、誰も助けてくれる人はいない。数日たって異変を感じた誰かが発見してくれた時には肉体は沈黙してふやけきっているだろう。この部屋が事故物件になってしまうのは若い頃からお世話になった大家さんに対して申し訳ない。
湯舟に浸っていると、時間が無限にこのまま打ち過ぎていくのではないかと錯覚する。そのうちにいつしか「肉体はいつか滅びるが、精神はどうなる」というとりとめのない考えに頭脳が浸されている。死後に肉が滅びることは他人の死を目で見て、経験として知ることができる。考え方というのはあるけれども、精神なんてものはあるのかどうかもわからないものだ。精神(あるいは魂というのが適切かもしれないが)とは、死後の世界に一縷の望みを託す人類の発明であり、精神または魂の不滅を否定する根拠は誰も持ち合わせていない。肉体が死ねば脳も失われるのだから思考も精神もなくなる、だから考えても仕方がないと言われればそれはそうなのかもしれないが、それでもどことなく意識の残留なんてことがあって欲しいし、それがないとしても自分が自分であったことの証明が誰かの意識または無意識に残って欲しいと淡い期待を抱いている。ところが現実世界では我が我がと主張するばかりの連中に反吐が出て、むしろ自分は目立ちたくない、控えめでありたい、つまらない自己主張の塊は相手にしたくないし、また相手をして面倒ごとの関わり合いになりたくないと考えている。それにも関わらず、自分については死んでまでも自己に拘泥するエゴイズムがあるのはどういう矛盾か。今の目の前の課題を真剣に生きていないからであろうか。人生の課題なんて何にもないけれども。このような馬鹿げたことを考え続けなければいけないのが自分の人生の課題であるのかと思うと虚しくもなるが、なんにせよ自分にとって閉所は詩情とともにくだらない考えを運んでくるものらしい。
入浴の陶酔が覚めれば、寂しさの然らしめるものか、再び文字の麻酔に戻らざるを得なくなる。時には男やもめの特権を発揮して、酒をちびりちびりとやりながら、これまたちびりちびりつまみを食うのだけれど、そこは胃腸の弱い男のこととて、暴飲暴食を身体が拒絶する。満足に飲食しないままたちまち赤面が始まり、うつらうつらと楽しめない酩酊に入るのみ。
ところで酩酊と言えば、中江兆民『三酔人経綸問答』は座右の書である。三人の酔っ払いが政論に耽るこの著作の中で、議論の主催者である南海先生は酔えば酔うほど思想が深く、広くなっていくという。なんとも憧れる性質だ。その冒頭の一節。
男たるもの、酒の威を借りてでも天下国家を論じたい。そんな気概が過去の若き心に宿っていたように思われる。しかしたちまち酔っ払ってそれどころではなくなる自分にとっては、同じ小部屋の閉所にあっても、ただ兆民の文章を味わい、文章に酔うことで気炎を吐いているだけである。このように言って格好の悪さを弁証で誤魔化して格好つけているのだけれど、ただ兆民の原文は何度も読みたくなるので、読者に押し付けてみたに過ぎない。
自分は酔いが回れば回るほど考えが深くなるわけでなし、ただ居眠りの舟を漕ぐばかりである。湯舟で漕がない舟を、上陸してから熱心に漕ぐ有様。これではとても南海先生にはなれまい。
またところで、『塵中日記』と題された樋口一葉の日記にはしばしば和歌が記されている。そのうち「つゆしずく」と題する連作のなかの一首に次のようなものを見出した。
泡沫に自分の命の儚さを載せるという発想は、ありきたりで平凡なのかもしれないが、自分のような和歌の素人にはこのくらい単純でわかりやすい方が訴えるものがある。一葉の日記は偶然のきっかけでつまみ読みを始めたのだったが、現実政治への批判から発して強烈な文明批評の表現が随所に顔を出していることに驚く。時代的制約といおうか、自分が女性であることから自嘲的に表現されているが、その激情迸る「国士」風の考え方の開陳はとどまることを知らない。例えばひとり蒲団の中で彼女が考えるのは以下の如し。これを見るとつい先ほど「男たるもの天下国家を論じたい」などと臆面もなく述べたのは撤回せねばなるまい。
これぞ憂国の士ではないか。私は右翼とか左翼とかの思想傾向の話をしたいのではなく、感傷を垂れ流したいだけである。身を閉所に預けてなお一個人の悩みに留まらず、そこから転じてひとのよの憂いまでを一身に引き受けるこれらの人々の態度に心を掴まれる。個人と外の世界(社会と言っても個人と言ってもいい)が有機体のようにひとつの線でつながっている。勝手な思い入れだと承知しつつも、明治人の気概とはこういうものだと感じる。
そして翻って、わが身のお気楽さ、個人の小心翼々たる悩みにはまり込んでうじうじと蛆を湧かしている自分のありように失望する。ひとりで小部屋の中に籠って、縮こまって妄想だけ膨らませながら、国家社会から取り残されて、休日を漫然と過ごしている。
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