見出し画像

合羽橋。残暑、カレーに装いを。

 長らく置き去りにしてきた夏休みの宿題を思い出した。夏のうちに最適なカレー皿を見つけ、そこに自作のカレーを盛っておかなければならないと、つねづね思っていたのである。ならば今がそのときであると奮然決意し、自分にぴたりとふさわしい理想のカレー皿を求め、暑中をおして合羽橋の道具街に向かった。

画像1

 合羽橋のランドマークたるニイミ食器店のひげおじさんは夕暮れ前の西日の中で目を伏せることなくしっかりと遠方を見据えており、地上を歩く当方痩せおじさんに目もくれないが、とにかく洋食器店に入る。いつも買い物ではぐずぐず迷うのが常だが、この日は案外迷いは少なく、いくつかのよさそうな器を入手していそいそと帰宅した。なにしろカレーを盛るところまでが任務なのだから。


 まずは昭和の洋食店を思わせるステンレス食器を試す。これにカレーを盛るのであれば、真赤な福神漬けが欠かせない。なお、カレーは市販のルーを用いた自作品で、いわゆるご家庭のカレーである。

画像2

 この記事を書いている人間は平凡極まりない市井の人であるが、平凡たる自分をなかなか認めたくないがために、普通にカレーライスと器のバリエーションを紹介するだけでは物足りないと考えた。とにかく何でもひと手間を加えないと気が済まない性質をもっている。
 すなわち、食べる対象があれば当然食べる主体があるのであるから、食べる主体も食べ物との調和がとれていると、より美しい絵面ができるに違いない。ということでついでに、このカレーを食すのに適当なスタイルはどんなものかということを考えた。とりあえず手持ちの服から選んで勝手に並べてみただけで、ファッション的な評言も写真も適当であるので、専門的な突っ込みはご容赦願いたい。

 スプーン、器ともにステンレスであってメタリックな無機質さを押し出している。しかしどこか懐かし気である。カレーライスというよりはライスカレーと呼びたい。こんな古食堂風のカレーには、こちらも無機質なケミカルさを持ちながらどこかしらレトロな雰囲気を感じるブライトオレンジのポロシャツを合わせてみると、どうだろう。いい感じ風に見えなくもない。
 経営者の集まりでゴルフに出向いた帰り、立ち寄った片田舎の年季の入った食堂で、カレーを童心にかえって流し込む。そんな時にこういうスタイルはいかがだろうか。(そんな機会はない。)

画像3

 

 次に紺の縁取りのある楕円の器を使ってみた。スプーンは柄の部分が木製になっているものを選んで、やや自然な感じを出した。鮮やかな紺は海をイメージさせる。夏の海辺のカレーである。

画像4

 これには、グレーネイビーのボーダーの七分袖カットソーを合わせてみた。もちろん縁取りのネイビーは衣服のネイビーで拾いつつ、厚手のコットン生地とグレーで少し重みを出すことでイメージを中和させてみた。海辺の潮風がそよぐ別荘で、気ままな読書の合間にカレーを食べるときに、このようなスタイルはいかがだろうか。(そんな機会はない。)

画像5

 

 次に、社食を思わせるような、均一的な白いプラスチックの器である。中身はさりげなくカツカレーにバージョンアップしている。なぜならこれだけ翌日に撮影したからである。福神漬けとらっきょうを両方入れて、盛りは一番贅沢になった。こちらもスプーンは取っ手が木製のタイプを使用して、少しナチュラルさを醸している。

画像8

 白の爽やかなイメージから、これを食す装いは紺と白の縞模様、あるいはトリコロールがよろしかろう。写真ではトリコロールに見えないが、背中側のほか、裾のほうにも赤いラインが入っている。海の上のクルーザーで、海水浴で疲れた身体を癒すようにカレーをガッツリと食べる。そんなイメージだろうか。(そんな機会はない。)

画像9

 

 次に陶器の皿に盛ってみる。陶器にカレーを盛る場合、鮮やかな模様入りの正円の器もよろしいが、今回は少し遊んでドロップ(水滴)型の重厚なものを選択してみた。ここまでのレトロ路線から外れた現代風のおしゃれカフェをイメージしているが、カレーはこれまでのものと同じである。
 この器に赤系統の色はそれほど必要なく、とにかく落ち着いてまとめたほうが良いように思われた。したがって、福神漬けを要するかは議論のあるところだが、らっきょうも併せて添えてごまかしてみることにした。らっきょうだけにした方が色味が締まってよかったかもしれない。スプーンは木製の匙を使っている。匙は実のところ、この器にセットで付属していたもので、これはニイミ洋食器ではなく、ニイミの向かいの「和の器 田窯」で入手したものである。田窯は安くて上質なものが揃っていて素晴らしかった。カレー皿フェアが開催されていて、世間でも夏のカレーの器に対する関心の高さがうかがい知れた。

画像6

 この紋様の渋さには、洋服でも渋さを添えてみよう。濃いオリーブ色をした、麻のハイゲージのニットポロなんてどうだろうか。少し年かさの見える、かさついた色気を放つ大人が、そのイメージからは想像がつかない大盛のカレーを食べるという健啖ぶりは見る人を感嘆させる。たとえ枯れ萎びた男であっても、カレーが活力を与えることを再認識させてくれるはずだ。壮年の同窓会で再会した旧友に、また会おうと約束した際に待ち合わせるのは小粋なカフェである。お互い、鼻たれ小僧だったのに出世したもんだなあと笑いあいつつ、そのカフェでオシャレなカレーを二人で食べるときなど、ぎらつきを抑えたこういったスタイルがよろしいだろう。(そんな機会はない。)

画像7

 

 以上、簡単ながら、比較的庶民的な感覚で、カレーと装いを満足させるいくつかのバリエーションを考察してみた。何の意味があるのかはわからないが、とりあえず自分の中での夏休みの宿題は最低限度は果たせたようである。今回購入したカレーのための器は、いずれも高価なものではない。また、衣装もセールや古着で購入したもので、何万円もする高級なものは使っていない。そもそも筆者は金持ちではないので、一人の平凡な市民の立場から、いろいろとカレーライフを楽しむ工夫を考えてみた。

 もちろん、これを研究として突き詰めるのであれば、残された課題はいくらでもある。カレーについての最大の課題は、器ごとに適切なカレーを作り分けるべきであったという点がある。例えば陶器には具材のゴロゴロしていないカレーが適当にも思うし、白い器に盛るカレーはもう少し黄色味のあるカレーが相応しい。また、装いについての課題は全身、少なくとも下半身のコーディネートが考慮されていない点(これは主として写真に収めきれないという技術的な要因が大きい)や、色彩以外の観点(サイズ感や質感、素材の考慮)が少ない点が挙げられるだろう。

 食べ物で遊ぶなとよく言われるが、こうして食すための意匠を考えることは、遊び半分であったとしても遊びではありえない。食べ物をより美しく美味しくするために、いわば崇める行為であり、カレーという日本人の多くが愛する料理を、筆者もまた愛するがゆえの営みであることをご理解いただければ幸いである。もちろん記事にしたあとはスタッフ一名において美味しくいただきました。この記事のために使ったたいそう無駄なエネルギーは、カレーを食べることで補われた。カレーばかり食べすぎたのでこれでいったん終わりにしておきたい。毎日カレーでもいいという人もいるが、昔の料理本にも、この黄土色の悪魔について「毎日用ふる時は胃に辛みを慣れしめ健康上餘り宜しからず故に一週間に一二回を適度とす」と述べられている。食べすぎにはくれぐれもご留意ありたい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?