ワーキングママが「夕方5時」に幸せを感じる理由。
6時半。起きて、顔を洗って、ちょっと体を動かして。私の1日ははじまる。
7時10分くらいまでに息子のお弁当を完成させることをゴールに、お弁当を作る。
7時25分くらいまでに朝ごはんを完成させることをゴールに、朝ごはんの準備をする。
7時30分までに猫たちにごはんを食べさせることをゴールに、猫たちのごはんの食器を洗って、そこにごはんを入れる。
ここまでは、私1人でゴールを目指す。だから、自分で自分の足と手を動かしさえすれば、必ず時間通りにゴールにたどりつける。
ここから先がむずかしいのだ。
7時40分くらいまでに息子を起こすことをゴールに、息子のほっぺをツンツンしながら「朝だよ〜♪おはよう〜♪」ってモーニングコールする。子供の寝顔以上にかわいいものはこの世にないと思っている私は「かわいいなぁ」と思いながら優しい優しい声でささやく。でもそんな優しい声では全く反応なし。
「起きなよ!」
ちょっとずつ声が大きく、荒っぽくなっていく。それでも起きないときは、まだ目を閉じている息子をお姫様抱っこして、リビングに運ぶ。ソファにおろして、速攻テレビ攻撃だ。おもしろそうなテレビがはじまると、息子の目がだんだん開いていく。
次は8時15分くらいまでに息子が朝ごはんを食べ終わることをゴールに、必死に声がけをする。
家族3人で「いただきます!」と手を合わせて同時に食べはじめるけれど、私と父ちゃんは10分くらいで食べ終わる。息子はそこから30分くらいかけて、のんびりと食べる。テレビを見ながら食べさせてしまうのが原因なのはわかっているけれど、朝だけはテレビを見ながら食べてOKということにしている。幼稚園に行きたくない息子を、テレビなしで起こす方法がわからないからだ。でもテレビに集中しすぎると、やはり食べる手が止まりがちになってしまう。
「おーい!食べながらテレビ見なよ〜!手が止まっちゃってるよ〜!」
後片付けや、自分の身支度や、息子の荷物の準備をしたりしながら、5分間隔くらいで同じセリフを繰り返す。
「お腹すいてないなら食べなくてもいいよ〜!残しときなよ〜!」とも言ってみる。食器を早く食器洗浄機に入れたいのだ。
でも「食べるもん!」と言う。仕方ないのでギリギリまで待つけれど、だいたい8時15分のゴールに間に合わない。「もう間に合わない!」と思い、息子の口にせっせと残っているごはんを運ぶと「母ちゃん、食べさせてくれてありがとう〜」と可愛い顔でのんびり笑う。時間は刻一刻とせまっているのに。でもかわいい。ずるい。
8時30分〜9時が登園時間なので、とりあえず9時までには幼稚園に着くことをゴールに、息子の身支度をはじめる。
トイレに行って、制服に着替える。
たったこれだけのことに、最低15分はかかる。
チョケたりふざけたりするのをなんとか抑えながら、「幼稚園に行きたくない」やら「制服なんて大嫌い!」とかいう愚痴をなんとかなだめながら、なんとかトイレに行って制服に着替えおわったとしても、ここからまた難関が待ち受けている。
わが家はマンションの8階にある。エレベーターで1階まで降りて、自転車置き場まで行くのに、私1人でも2〜3分はかかる。
息子と一緒なら、その倍以上かかる。
今の時期なら、8階の廊下にあそびにきているカメムシやカナブンなどの虫一匹一匹に興味を示す。
1階に行くというのに1階のボタンを押さずに、ふざけて6階のボタンを押したりするから、6階で開いて閉まってから1階に降りたりする。
1階のマンション入口にある花壇の花を愛でて、花壇に住むダンゴムシたちを手にのせようとする。
そこから自転車置き場までの道のりは、まっすぐ歩けば25mくらいだろうか。道の端から端までを行ったり来たりしながらフラフラ歩くので、おそらく息子は直線距離にすると75mくらいの距離を歩いているにちがいない。
やっと自転車に着くと、なぜかいつもペダルを手で回す。手でペダルを回すと、自転車の後輪がぐるぐる回り出す。
せかしてせかして、なんとか自転車に乗せて、5分ちょっと自転車をこぐと幼稚園に着く。ギリギリ9時直前の登園だ。
重い足取りで教室の中へと消えていく息子を見送ったら、また5分ちょっと自転車をこいで1度家に戻る。ササッと掃除機をかけて、仕事場に向かう。
次は、「時間通りに仕事場に着く」ということをゴールに、原付きにまたがるのだ。
わかっているつもりだったけれど、外で働くママの大変さというのは「10分単位で、ゴールしなければならない時間が決まっている」という部分なんだな、とひしひしと感じている今日このごろだ。
もちろん、もっと早起きしたらいいんだろうし、もっと厳しくルールを作ればいいのかもしれないし、もっと生活リズムを工夫すればいいのかもしれないけれど、ワーキングママになって1ヶ月ほどの私はまだまだそのスキルが皆無だ。約5年間"ほぼ専業主婦"だったので、時間に対するフワッとゆるい感覚が抜けなくて、いつもギリギリになってバタバタしてしまって、ひやひやしながら「なんとかその場を乗り切る」ような感じになってしまう。「理想の朝」とはほど遠い。
「私は1日中、ゴールを目指しているなぁ。ゴールしたらまた次のゴールがあって、そのゴールの先にはまたゴールがあって。いつもゴールのことばかり考えていて、しんどいなぁ。」
そんなことを考えながら、原付きに乗って仕事場にむかった。
でもとりあえず、今は風が気持ちいいな。
でもとりあえず、今は運転することが楽しいな。
今だって一応「時間通りに仕事場に着く」というゴールにむかっている途中なんだけどな。
ふと、そんなことを思った。
そして、"途中"という言葉。
その言葉が、なんだかキラッと光っているように感じた。
「ゴール」の反対は「スタート」で、スタートとゴールの間にある「途中」という時間。
ゴールに到着したら、「間に合ってよかった」とホッとしたり達成感があったりするけれど、1日のほとんどは「途中」という時間でできているんだよな、と当たり前のことを思った。
「途中」という言葉に思いを馳せていると、不思議と息子の顔がよぎる。
ゴールなんてまるで"ない"かのように
時間なんてまるで存在しないかのように
のんびりごはんを食べて
目の前にあるおもしろそうなことや楽しそうなことに手を伸ばして
今行きたいと思った方向に足をすすませて
今動きたいと思った方向に体をむけて。
そんな朝の息子の様子がブワッと頭に浮かんできたとき、時間通りにゴールにたどり着くことだけになっていた私の頭の中が、フワッとゆるんでいくのがわかった。
もちろん、時間通りにゴールにたどり着くことは、外で仕事をするママにとっては大切なことだけれど。
1日のほとんどは「途中」でできているのだから、「ゴール」よりも「途中」を楽しめる私でいられたらいいな。そんな私でいられる方法はないかな。「時間」という制限がある中で、「途中」をのびのび楽しむことが果たして私にできるのかしら。
そんなふうに、1日の中にたくさん散りばめられている「制限時間のあるゴール」という"縛り"から逃れる方法をなんとか探そうとしている自分に気づいた。その方法はまだよくわからないけれど。
仕事がおわると、雨がパラパラと降っていた。カッパを着て、原付きにまたがり、また家に戻る。そして自転車に乗り換えて、息子を幼稚園に迎えにいく。
雨のニオイ。
カッパが肌にはりつく感覚。
どんよりとした曇り空。
道路の車が水をハネる音。
鼻と肌と目と耳で、いろんなことを受け取りながら幼稚園へとむかう。
幼稚園に着くと雨がやんでいて、ひょこっと息子のいる部屋をのぞくと、すぐに私に気づいた息子が全速力で走ってくる。
その痛いくらいのエネルギーを全身で受け取ってから、「おまたせ〜!」と言いながら、小さくて丸い頭をワシャワシャと撫でた。
のんびりと帰る準備をする息子。
夕方5時。
ここまできても、今からまた家に帰り、お風呂に入り、ご飯をつくり、ご飯を食べさせ、後片付けをして、歯を磨かせ、洗濯物をする、というたくさんの小さなゴールが待っているけれど。そのたくさんの小さなゴールに「時間」は決められていない。
ちょっと帰るのが遅くなったって
ちょっとご飯を食べるのが遅くなったって
ちょっと寝るのが遅くなったって
たいしたことはない。
10分、20分、30分の遅れなんて、
今からたっぷり待っている夜が、全部チャラにしてくれる。
その"余裕"が生まれる、夕方5時。
私の肩の力が抜けていく。
「あ!虹だ!」
息子の声が聞こえた。
息子の指差す方向を見ると、大きな大きな虹がかかっていた。
「みんな〜!虹が出てるよ〜!」
先生が教室にいる子供たちに声をかける。折り紙に夢中になっていた子供たちが、一斉に教室を飛び出して、にぎやかに空を見上げていた。
「母ちゃんさ、こんな大きい虹、久しぶりに見たわ。」
「ぼくはこんな大きい虹みるの、はじめて!ぼくも母ちゃんもよかったね。」
私の左腰に届くか届かないかの位置に息子の顔があって、空には大きな虹があって、先生も子供たちもみんな笑顔で。
その絵の中に自分もいるんだなぁと思うと、なんだか涙腺がゆるんだ。
たっぷりと虹を見た。
ふと園庭の時計が目に入る。時計の針は5時30分を指していたけれど、特に何も思わなかった。
自転車に乗ると、今日も息子が言う。
「母ちゃん、遠回りして帰ろうよ!」
今日もやっぱり"遠回り"のリクエストがあった。ほとんど毎日だ。
"行き"とはちがうルートで帰る。そのルートの途中に「桜井商店街」という小さくて短い商店街がある。通らなくても全然帰れるけれど、その商店街を通って帰るのが息子と私のお気に入りだ。
数年前くらいまではほとんどのお店がシャッターを締めていたのに、ここ最近は小さなカフェやギャラリーや教室が少しずつオープンしている。
「自転車はおりて通ってください」という看板があるので、自転車をコロコロ押して歩く。商店街に一歩入ると匂いが変わる。いつも数人の子供たちがお絵描きを習っているアトリエと、いつも笑い声が聞こえてくるピアノ教室と、カフェが2つと、プリン屋さんの前を通り終えると商店街が終わる。また自転車にまたがって進みはじめると、匂いが元に戻る。
その異空間に入ってまた戻る感じが、私も息子も、きっと好きなんだと思う。
「あ!月だ!」
息子は月を見つけるのが上手だ。まだぼんやり明るい空に月が浮かんでいた。今日の月は少し欠けている。
「母ちゃん、月が僕についてくるんだけど!なんで?」
「ほんとだ!なんでだろうねぇ。りんりんがちゃんと家に帰れるかどうか見てくれてるんちゃう?」
「そうなの?ありがとう〜月〜!!!」
息子が急に大きな声で叫ぶからビクッとして、そのあとゲラゲラ笑った。私は息子に作り話を植えつけるのが好きだ。いつかそんな小さなウソが通用しなくなるまでの、つかの間の大人のイタズラだ。
楽しいな。
幸せだな。
じわじわっと湧き上がってくるそんな気持ちたちは、いつも1日の終わりかけにやってくる。
仕事は楽しいけれど、やっぱり夕方のこの気持ちたちは格別だ。
みんなが家に帰る時間。
何時何分に帰らなきゃいけないなんて決まっていない。
朝の街よりも夕方の街は、なんだか時間がゆっくり動いているような気がする。街行く人の顔がゆるんでいるように見える。
夕方のこの時間がすごく好きだな、と思った。
1日の中で、ほんとひとときでもこんな時間があればきっと大丈夫だ、と思えてくる。
人には誰にでも「がんばりどき」があって、ママである私の頑張り時は「今」なんだと思うのだ。
「ゴールも時間もない世界」を生きている時期の子供を、「ゴールと時間のある世界」に毎日連れていくという、とても大変な時期を今がんばっている。
でも同時に、もう長い間「ゴールと時間のある世界」を生きている私に、「ゴールも時間もない世界」を思い出させてくれるのは「息子」だったりする。
虹をみてキレイだと思ったり
寄り道をしたり
他愛のない話をしたり
そんなことをしていたら、ゴールにたどり着くのが遅くなってしまうし、「途中」の時間が長くなってしまうし、なんの意味もなくて、なんの為にもならないことかもしれないけれど、たまらなく幸せを感じてしまう愛おしい愛おしい時間。
時間の決まっている「行き」は
仕方がないとしても、
帰るときくらい、ゴールを忘れて。
帰るときくらい、時間を忘れて。
ゆっくりゆっくり帰ろうじゃないか。
送り迎えが毎日必要な日々は、あと数年も続かないだろう。小学生になったら息子もきっと「ゴールと時間のある世界」に片足を突っ込みはじめるのだろう。
それまではできるかぎり、
息子の生きている世界に寄り添って。
そしてその横で、
その「世界」を一緒に楽しめたら。
ゆったりとそんなふうに思えるのは、秋の心地よくてやわらかい、夕方の風のおかげだろうか。
私は今、
家に帰る「途中」で
子育ての「途中」で
やりたいことをやっている「途中」で
夢を叶える「途中」で
そして、人生の「途中」で。
もう「途中」のことが多すぎてウンザリしちゃうこともあるし、ゴールまで急ぎたくなることだってあるけれど、きっと「途中」は楽しいことなんだと思うのだ。
そう感じさせてくれているのは、
今日の場合は
大きな虹だったり
息子の笑顔だったり言葉だったり
遠回りだったり
少し欠けた月だったり。
そのことを、ただ忘れずにいたいなと思った。