子供が「ほしいもの」をコントロールしてしまいそうになったサンタクロースの話。
12月に入ると、もうすぐクリスマスだ!という気持ちが急に湧いてくる。
それと同時に、サンタクロースも動き出す。
先週土曜日、わが家ではクリスマスツリーのタペストリーを壁にペタッと貼った。画用紙に絵を描いてもらって、絵の具で好きに塗ってもらった。そしてその絵をザクザクとハサミで切り抜いたものをペタペタとツリーに貼る。
最後に、息子に聞いてみる。
「サンタさんに何たのむの?母ちゃん、りんりんの代わりにお手紙書いてあげる。」
「リバイスのベルト!」
息子が間髪入れずにそう答えたとき、サンタクロースはギクッとしてしまった。
でもサンタクロースにほしいものを頼むのは息子なのだ。何を頼んだって私には関係のないことなのに。
「OK!」
しれっとした顔でそう答えて、1番細い筆を手にとって、真っ黒の絵の具をブチュっとパレットに移した。チョンチョンと筆に絵の具をつけて、大きな字で「リバイスのベルトがほしい。」と書いた。その手紙をクリスマススリーのど真ん中にベタッと貼った。
「リバイスのベルトってさ、どんなオモチャなの?」
「仮面ライダーリバイスが巻いてるベルトだよ。めっちゃかっこいいで!」
「そうなんや。母ちゃんもどんなオモチャか見てみたいから、一緒にリバイスのベルトのYouTube見てみない?」
「見よう見よう!」
かっこいいやろ?という感じで、なぜか得意げな息子とリバイスのベルトの遊び方動画を見てみた。おおよそ想像はしていたけれど、想像していた以上に好きになれなかった。私は「やっぱりこれカッコよくないから違うのにする!」と息子が言うのを、心のどこかで待っていることに気づいた。その小さな可能性にかけて、こうやってYouTubeを一緒に見ているのだ。
サンタクロースたるものどんなものであれ、息子が今ほしいと思うものを確実に届けるということに徹しなければならない。私はサンタクロース失格だ。
私はあの戦隊モノの電子音がどうも苦手だ。苦手だし、あんな遊び方の限られているオモチャは1週間もすれば飽きてしまうだろうな、と思った。「安いものでもないし、もったいない」という気持ちがムクムクと湧き上がってくるのを感じた。
「母ちゃん!ぼくこれも見てみたい!」
息子が関連動画のうちの1つを指差した。
それはまさしく、リュウソウジャーという数年前の戦隊モノのロボットの動画だった。2019年のクリスマス、息子は10種類以上もいるロボットのうちの2つをゲットした。そのロボットは、ブロックのようになっていて、バラバラにして好きなように合体することができるのだ。息子は2022年になろうとする最近でもよくそのロボットを自由に組み替えて遊んでいる。2年間もお気に入りのオモチャはなかなかないものだ。
その動画は、10種類以上もいるロボットをすべて使って「全部合体してみる」という動画だった。私は一筋の光を見つけたような気がして、その動画をポチッと再生した。
最後まで見終わると、息子は私が望んでいた言葉を言ってくれた。
「母ちゃん!ぼくやっぱりリバイスのベルトじゃなくて、リュウソウジャーのロボットのまだ持ってないやつがほしい!」
「いいやん!ロボット増えたらさ、今持ってるのと組み合わせて、もっとカッコよくて大きいロボット作れるやん。」
「うん!たのしみ!」
息子が選び直したプレゼントをヨイショしながら、心の中でガッツポーズしてしまった。リュウソウジャーのロボットなら、また長い間遊んでくれるだろう。ブロックとしての機能もあるし、ロボットを買うお金を「もったいない」とは思わなかった。
でもなんだか心がモヤモヤしていた。
そのモヤモヤを取り払いたくて自分の心の中をのぞいてみると、「息子のほしいものを息子にバレないようにコントロールしようとした自分」が「わっはっはっはっは!思い通りになったぜ!チョロイチョロイ!」と高笑いしている姿が浮かんできた。私はその自分がすごく嫌だなと思ったのだ。
「バレないように」というあたりがイヤラシイ。言葉巧みに、自分の思う方向へ誘導する営業マンみたいじゃないか。仕事ならそれも必要だけれど、家の中でその技術は使いたくないものだ。
「リバイスのベルト、すぐ飽きちゃうと思うよ?せっかくサンタさんにもらえるプレゼントなんだし、なんかもっと長く遊べるオモチャ、母ちゃんと探してみない?」と正々堂々と素直な気持ちを伝えていた方が、まだよかったのかもしれない。それでもリバイスのベルトがほしいというなら、清々しく腹もくくれただろうに。
でももしリバイスのベルトをプレゼントしていたとしたら、どうなっていただろう。もらった瞬間はすごく喜ぶだろう。1週間くらいはずっと腰につけて眠るかもしれない。でもすぐに飽きて、たまのたまに引っ張りだしてくるオモチャを手に入れることは、総合的に考えて息子にとって嬉しいことなんだろうか。
逆にリュウソウジャーのロボットを手に入れた息子は、どうなるだろう。まずそのままの状態で遊び、そのうちバラバラにして、今持っているロボットと組み合わせて変形させて、いつも息子が2体のロボットとあそんでいる世界が3体になることでより豊かになるだろう。
私は「コントロールした」とも言えるけれど、長い目で見ると、息子が楽しめる方向へ「導いた」とも言えるかもしれない。「導いた」という綺麗な言葉で、心のモヤモヤを取り払おうとしたけれど、やっぱりスカッと心は晴れてくれなかった。
今回は「プレゼントを何にするか」という小さなことだったけれど、これから息子は自分でたくさんのことを選んでいく。
どんな服を着たいのか
どんな髪型にしたいのか
どんな靴を履きたいのか
どんな自転車に乗りたいのか
何を知りたいのか
何を勉強したいのか
何をやりたいのか
誰と過ごしたいのか
どこに行きたいのか
そんなとき、息子がある程度大きくなるまでは、それらにお金を払うのは私と父ちゃんだ。「母ちゃんはソレが好きじゃない」「そんなの飽きるからもったいない」「そんなの意味がない」と感じて、息子がはじめに選んだソレを変えようとはしたくない。1つの意見として伝えるならまだしも、バレないようにコントロールなんてしたくない。
コントロールされているな、こっちに誘導されているな、というのは何となく伝わってしまうもので、私にも経験がある。「いろいろ言っているけれど、お母さんは結局こっちにしてほしいと思っているようだから、こっちにしておこう」と自分の気持ちにフタをして、大好きなお母さんが喜ぶ方を選ぶということは、多かれ少なかれ誰にでもあるのかもしれないけれど。
そしてそれを完全にゼロにすることはむずかしいのかもしれない。「お母さん」は子供にとっていつも大きな存在なのだ。お母さんが悲しそうな顔をするくらいなら、自分の気持ちをねじ曲げてもいいかと思えるほどに。
でも息子には、できる限り自分の心で「これがいい」と思った物や事を大切にしてほしい。
それが「思っていたのと違った」と感じることもあるだろうし、「偽物だった」とわかることだってあるだろうし、「無駄だった」と思うこともあるかもしれない。
でもそうやって、失敗したり無駄にしたりして、本当に好きなものを自分で見つけていってほしい。本当に自分にとって大切にしたい"物"や"事"や"人"を自分自身で探していってほしい。
この世界は、手に入れてみないと、やってみないと、わからないことだらけなんだと思うのだ。
時間のたっぷりある子供のうちに、無駄で意味のないことをすればするほどに、大人になったときに「自分にとって本当に大切なもの」を見つけやすいような気もしている。
カラッとした笑顔で、
「とりあえず1度やってみたら?」
「とりあえず1度買ってみたら?」
「とりあえず1度着てみたら?」
「とりあえず1度行ってみたら?」
と言えるお母さんでありたいなと心でいつも思っていたから、今日のネバッとした自分にモヤモヤしてしまったんだな、とストンと腑に落ちた。
来年のクリスマスには、息子は字が書けるようになっているだろうか。
来年のクリスマスは、息子がサンタクロースに「ほしい」と頼んだプレゼントを、ただ淡々と準備できる私になれているだろうか。
「導く」お母さんもかっこいいな、と思う。
専門的な知識やいろんな情報を集めて、ごはんやオモチャや過ごし方や遊び方や行く場所などなど、「子供の成長にとって本当に良いもの」を吟味して、その方向にきちんと導いているお母さんは、凛としていて素敵だ。
でも私はめんどくさがりやで、朝ごはんにはチョコパンをあげてしまうし、チープなジュースをついついたくさん飲ませてしまうし、テレビやYou Tubeだってたくさん見せてしまう。
それならばもう中途半端に「導く」ことはあきらめて、コントロールしないお母さんに徹したい。
「何でもやってみな、何でも試してみな。」と応援して、それで失敗したり無駄になっても「大丈夫大丈夫!」とその失敗や無駄をケラケラ笑えるようなそんなお母さんになりたい。完璧にはできなくても、そうあろうとすることは私にもできる。
息子がサンタクロースを信じている間のクリスマスは毎年、そんなお母さんに自分はどのくらい近づけているかどうかのバロメーターになりそうだ。
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