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「"猫的"寄り添い方」のできるママになりたい。

お腹が大きく大きくなってきて、だんだんと仕事に行くことが億劫になってきた頃、遅番の日には昼寝をしてから仕事に向かっていた。

太陽の光がさしこむ明るい部屋にたった1人。いや、お腹の中に1人いるから、正確には2人。

ベッドにゴロンと転がって、目をつむる。しばらくすると、左手にフワフワしたものを感じる。目をあけると、愛猫のムギがいて。

脇にスキマをつくると、そのスキマにいそいそと入ってくる。

温かくてふわふわの茶色の体をなでながら、私はムギに話しかける。

「仕事いくの、めんどくさいよ〜。」


ムギにとっては、私が仕事に行きたいかどうかなんてどうでもいいのだろう。私の温かい脇のスキマで私になでられて、うっとりとした顔をしている。

その顔を見ながら、いつのまにか寝てしまう
。目覚ましの音でハッと目をさますと、脇にはまだムギがいて、足元にはだいたいコメがいるので、起き上がってコメをなでる。

「いってきます。」

そう言いながら、またコメとムギをなでて、家を出る。


猫たちは「がんばれ〜!」なんて励ましてくれないし、「仕事しんどいよね〜!」なんて共感もしてくれないけれど。

手に残るフワフワの感触は、そんな言葉以上に私の力になってくれた。




息子とべったりと過ごした3年間。

急に増えた小さな家族に、はじめはビクビクしていたコメとムギが、だんだんと息子に慣れていく過程が可愛かった。

↑息子と初対面から1週間後

↑2ヶ月後

↑1年後

父ちゃんが不在の朝8時から夜8時まで、息子と2人きりで煮詰まってしまって「もうダメかもしれない」と何度も思った。

そんな私の心を読みとっているかのように、絶妙なタイミングで私のそばにやってくるコメとムギ。

その瞬間、「2人きり」から「2人+2匹」になって、私の気持ちがフッとゆるむ。

何食わぬ顔で毛づくろいしたり、真顔で遠くを眺めて座っている様子を見ていると、自然に目尻と頬がゆるんだ。




そして息子が幼稚園に入ってからのこの1年ちょっと、父ちゃんと息子を送り出して、シーンとした家に戻る。

残った家事をすませ、掃除機をかけおわると、ソファにドカッと腰掛けて休憩する。しばらくすると、どこからともなくコメとムギがあらわれて、私の横に座ってのんびりしたり寝たりしはじめる。


息子が幼稚園に入って少し気持ちがゆるんだのか、3年間の疲れが一気にドッと押し寄せてくる感覚がしばらく続いていた。「しばらく休みが必要だな」って自分でも感じていた。


でももしコメとムギがいなかったら、私はこんなにのんびりできていなかったかもしれない。

父ちゃんは会社でがんばってくれていて、
息子もがんばって幼稚園に行ったんだから、
私も何かしなくちゃ。

そうやって焦っていたかもしれない。


コメとムギが私のそばで、ただのんびりダラダラしてくれていた。それにつられて、私ものんびりダラダラすることを許されているような気がした。

↑1人でのんびりお昼ごはん中


そして最近、なんだかあの独特な体と心の重さが消えていることに気づいた。

3年間の疲れが1年ほどかかって、ようやく体と心から抜けていったのかもしれない。






コメとムギがいなかったら・・・と考えるとゾッとする。私はもしかしたら、育児ノイローゼとか産後うつとかになっていたかもしれない。そう感じるほどに、ふりかえってみるとコメとムギの存在は大きかった。




猫は「寄り添う」天才だなって思う。



本当につらいときに「がんばって!」って言われるほどしんどいことはない。

「わかるよ!」「しんどいよね!」と共感の言葉をかけてくれても「このしんどさを本当の意味でわかってくれている?」ってひねくれてしまうことだってあった。

私のためにアドバイスをしてくれている友達の言葉を、もう素直に実行できないくらいに、すでにいろいろ行動していてヘトヘトだったこともある。


「言葉」に助けられることも多いけれど、「言葉」はパワフルで、それゆえに本当の本当に疲れてしまっているときには、刺さりすぎてしまうことがある。



もう十分にがんばっているんだ。
もう十分に考えているんだ。
もう十分に行動してるんだ。

そんな当時の私には、猫たちの寄り添い方がありがたかった。



共感するでもなく、励まそうとするでもなく、ただ普通にそばにいてくれる。

簡単そうだけれど、それをできる人はなかなかいない。


私たちは近くにいる人の影響を少なからず受ける。だから、元気がない人を元気づけようとするし、落ち込んでいる人を励まそうとする。なんとか相手の気持ちをわかりたいと思うし、わかりたいから聞くこともある。言葉をもっているから、言葉を投げかけようともする。


猫はマイペースで、元気のない人を元気づけようなんて気はさらさらない。言葉をもっていないから投げかけるものは何もない。ただ私のそばにいたいときにそばにやってきて、気分次第で容赦なく去っていく。

だからそばにいるときは、本当に私のそばにいたいときなんだな、と思う。だから変な遠慮をしなくてもいい。それがすごく心地良い。




私も猫みたいに、人に寄り添えたらいいなと最近思う。


元気がないな、という家族や友達がいると、気になって気になって仕方がなくなってしまう私。

「何かあったのかな?」「私、何かしたかな?私のせいじゃないよね?」「この間○○って言ってたけど、そのせい?」

みたいな想像がどんどんふくらんで、止まらなくなる。

頭がそのために使われるから、私は今ここでするべきことやしたいことに集中できなくなって、「今ここ」からいなくなって。

そしてその人はけっきょく、次の日にはケロッと勝手に元気になっていたりする。

昨日の私の1日はなんだったんだろう?なんて思ったことが数え切れないほどあるのに、今でも懲りずにそんなかんじになってしまうことがある。特に息子に関しては。



でも猫を見ていると、自分をすり減らして誰かに寄り添うよりも、自分が元気な状態でただそばにいることの方が大事なような気がしてくる。

私は私。あなたはあなた。
あなたの心がどんな天気かなんて関係なく、私は今あなたのそばにいたいからいるの。


そんなような、存在ごとをまるっと認められているような感覚は、ザワザワしている心を静かに戻してくれる。

こんな安心のできる場所に1日1回は戻れるのであれば、心がどんなにグラグラゆれていたって、どんなに荒れていたって、なんだか大丈夫なような気になってくる。



まだまだ私に秘密はなさそうな4歳の息子だって、だんだん母親には言いにくいことや言いたくないことが増えていくだろう。私の知らないことで落ち込む日だってやってくるだろうし、日々の中で私の知らない理由で元気のでない日だってやってくるだろう。



そんなとき。


何も聞かずに、息子の大好物をさりげなく作って一緒に食べたり

何も聞かずに、息子の横でゲラゲラ笑いながらテレビを見たり

何も聞かずに、お風呂のお湯をためて、

何も聞かずに、鼻歌を歌いながら洗濯物をほしたり、布団を敷いたり。


そんなふうにできたらいいな。

息子に影響されて私まで沈んでしまわないように。アタフタせずに、どっしりと。



何があったかはわからないけれど

お腹を温めるごはんと、
体を温めるお風呂とお布団と、
心を温める雰囲気を作って待っているから、

とりあえずこの場所に戻っておいで。


そんなふうな寄り添い方のできるお母さんになれたらいいな。




猫に寄り添ってもらって元気になった私は今、そんなふうに思っている。

簡単そうでとてもむずかしいことだから、完璧にはできないと思うけれど。




時と場合によって、相手によって、
いろんな「寄り添い方」があると思う。

私の場合は今のところ、「"猫的"寄り添い方」が最強だと感じている。




コメ、ムギ、いつもありがとう。

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