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ママのお腹の中のような場所で"3日間"を過ごしたら。

土曜日、日曜日、祝日の3連休は、布団の中で丸まって過ごした。

胃がムカムカして、吐き気がする。熱をはかってみると37度5分。丸まっていると少し楽なので、ずっと丸まっていた。


暖房のきいていない部屋で寝ていたので、顔と手を布団から出していると寒い。だから頭のてっぺんから足の先まで、布団をかぶった。布団の中は、朝ならば案外真っ暗にはならない。太陽の光が透けて入ってきて、薄暗い。

しんどくてスマホをさわる気にもなれないので、本当に何もせずに丸まっていた。ウトウトして、意識がなくなって、またウトウトして、というのを繰り返していると、不思議な夢を見た。




私は真っ暗でせまいところにいて。電車みたいにずっとやさしく揺れている場所だった。

その中には小さな小さな穴が1つだけあいていて、そこから一筋の光がさしこんでいる。

その小さな小さな穴をのぞいてみると、近所のよく行くドンキホーテの店内の様子が見えた。

「あのカツサンドが食べたい!」

そう言おうとしたら、まるで水の中にいるときにしゃべったときのように、ゴボゴボゴボゴボっと口から泡が出るだけで、声が出ない。




ハッと目が覚めた。

布団からプハァと顔を出す。ひんやりとした空気が顔に当たって気持ちいい。体はじんわり温まったまま、頭だけが冷えていく。その感じは冬の露天風呂に似ていて、たまに行く近所の温泉がポンッと頭に浮かんだ。



あの夢はなんだったんだろう。もしかしてアレはお腹の中?あの光が差し込んでいた小さな穴は、オヘソ?


そんなことを寝室の白い天井を見上げながらボンヤリと考えていると、また胃がムカムカしてきた。急いで体を丸めて、目をギュッとつむる。目をつむっても、まぶたに感じる太陽の光がうっとおしく感じて、また頭からつま先まで布団にもぐりなおした。



ベージュのフワフワカバーをかけた、掛け布団と敷布団。

その中で、お腹の中の赤ちゃんみたいに丸まる私。


この状況、まるで本当にお腹の中にいるみたいだな、だからあんな夢をみたのかもしれないな、と思った。





「母ちゃん、だいじょうぶ?」


息子が寝室にやってきた。


「りんりん、せっかくの休みなのに遊んであげられなくてごめんね。」


また頭だけを布団から出して私がそう言うと、息子は枕元にしゃがんで、私のおでこに手を当てた。


「母ちゃん、あついねぇ。かわいそうに。」


息子の小さな手はひんやりと冷えていて、私のおでこを冷やした。そしてきっと私のおでこは、息子の手を温めている。


「ぼくの手は魔法の手やからさ。ほら、母ちゃんのおでこ冷えてきたでしょ?ん?ぼくの手も温まってきた!母ちゃんのおでこも魔法のおでこ?」


そんなことを言う息子に「魔法のおでこって何や〜!」とツッコミながらも、なんだか涙腺がゆるむ。


私をなぐさめる息子が、息子をなぐさめる私にそっくりすぎたのだ。





「りんりん、大丈夫?」

公園でコケてしまった息子のそばに、私はかけよる。


「痛かったなぁ。かわいそうに。」


泣きじゃくる息子を抱っこしながら、そう言ってなぐさめる。


「母ちゃんの手は魔法の手やからさ。ほら、だんだん痛いのなくなってきたやろ?」


時間と共に痛いのがなくなっていくのは当たり前だけれど、そう言いながらケガをしたところに手を当てるのがお決まりだった。




「自分がやったことは返ってくる」なんていうけれど、あまりにもそのまんますぎやしないかと笑けてくる。でも返ってきた言葉は私の心を温めたのだから、それでいい。





「もよ、大丈夫?」


次は父ちゃんが寝室にやってきた。


「これがお白湯で、これがしょうが湯。」


ふだんキッチンにほぼ立たない父ちゃんが、ぎこちない様子で私の枕元にお白湯としょうが湯を置いてくれた。横になったままでしょうが湯を一口飲んでみると、体にグンッと染みた。おいしすぎた。



「自分がやったことは返ってくる」なんていうけれど、私は父ちゃんの枕元にお白湯としょうが湯を置いたことはない。そもそも父ちゃんが立ち上がれないほどにしんどくて寝込んでしまう姿を見たことがない。


今後父ちゃんが寝込んでしまうようなことがあったなら、お白湯としょうが湯を枕元に置いてあげようと思った。あまりにもそのまんますぎやしないかと笑われてしまうかもしれないけれど。







そんなこんなで、父ちゃんと息子にやさしくされながら。のどが乾いたら枕元の飲み物を飲んで、トイレに行きたくなったら背中を丸めながらトイレにかけこんで。それ以外は布団の中で丸まって何もせず、ただぬくぬくと3日間を過ごした。


まるでお母さんのお腹の中にいるような3日間だった。


温かくて、楽で、ストレスがなくて、もうこのままずっと布団の中で丸まって過ごせたならどんなにいいだろうかと思った。寝込み始めて2日目までは、確かにそう感じていたけれど。


寝込み始めて3日目くらいからは、ウズウズし始めた。

3日目の朝、急に退屈になってきて、布団の中でスマホを見始めた。昼すぎくらいにトイレに行くために立ち上がると、丸まらなくても歩けるようになっていた。久しぶりに背筋を伸ばして歩くと、背が伸びたような気がするくらいに地面が遠い。息子と父ちゃんは外に遊びにいっていたので、荒れた家の中を片付けたり、締切が迫っている息子の劇の衣装を作ったりしていると、あっという間に夕方になって。久しぶりにキッチンに立ってみると、空になったカップラーメンの容器がいくつも置かれていた。2日間、父ちゃんなりに精一杯息子を食べさせてくれていたんだな、と思うのと同時に、父ちゃんと息子に「栄養のあるごはんを食べさせなきゃ!」という気持ちがムクムクと湧いてきた。



おでんの材料が冷蔵庫にあったので、おでんを作った。

そして自分のために、おかゆを作った。


おでんの鍋と、おかゆの鍋が、隣同士でグツグツと音を立て合う。シンッとした家の中に響くその音は、なんだか「生きている」という感じがした。

そして3日ぶりに胃袋の中にやわらかい固形物が入ってきた。おかゆを噛んで、飲み込むと、のどと胃袋をつなぐパイプを通っておかゆが落ちていく"速度"を感じることができた。それほど私の体は「食べ物」を待っていたんだと思う。

おかゆが胃袋に到着したとき、なぜか「またここから始めよう」という気持ちが湧いてきた。

胃袋も、体も、心も、リニューアルオープンしたような感じがしたのだ。






お母さんのお腹の中は、温かい。
栄養は自然と自分の体に流れこんできてくれるし、お母さんのお腹の皮にいつも守られていて安心だ。

でもずっとそこにはいられない。


寒いから服を着て、
自分の歯で噛んで飲み込んで栄養をとって、
いろんなストレスを自分の心と体でキャッチする。

お腹の中からそんな場所に、必ず行かなければならない。



でも毎日私たちは、布団に包まれて眠る。
安心なところに戻る。

すごくすごく疲れてしまったときには、布団に包まれて寝込む。安心なところに戻る。安心なところを思い出す。


布団の外に出ることが「生きる」ということなんだろうな。お布団の中のような、お母さんのお腹の中のような、楽で安心できる場所にいつも身を置きたいと思ってしまうけれど、そんなことはきっと不可能に近いのかもしれない。


生きて、戻って、生きて、戻って、生きて、戻って。

戻れるから、生きられる。

それは、"戻れなかったら生きられない"くらいに、生きることは大変なことなんだということかもしれない。

でも3日間寝込んだあとは、生きることがしみじみと楽しい。「戻る」と「生きる」のバランスがいい感じにとれてさえいれば、きっと生きることは急に「大変だけど楽しいこと」になるのだろう。


そんなことを感じた。





毎日必ず眠る、私。

今日1日どんなことがあっても

お腹の中に戻るように、
布団に包まれて眠る。

毎朝私は「生まれる」のかもしれない。



さあ、今日も新しい1日を生きよう。


手始めに、あついおでこに冷たい手を当ててくれた息子と、枕元にお白湯としょうが湯を運んできてくれた父ちゃんに、朝ごはんを作るとしようか。

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