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"愛おしい形"に応援されながら、ママが育んでいるもの。

何なんだ、この形。
この形を考えた人、天才すぎる。


わが家にいる2匹の猫をモフモフしたり、ナデナデしたりしながら、ふとそんなことを思う。

まんまるの顔に、三角の耳が生えていて。
あの口の形とか、ヒゲの生え方とか、
肉球の形とか色とか触り心地とか、
手足や体のフワフワ具合とか、
手を折りたたんで座る感じとか。


あんなに可愛い形、だれが考えたんだろう。私は猫の形が好きすぎて、あまりに愛おしい形すぎて、ふとした瞬間にその形ができあがった奇跡と不思議に思いを馳せることがある。


「コメとムギ、かわいすぎへん?こんな可愛い形、だれが考えたんやろう。すごすぎる。」

私がよくそう言いながらコメとムギとモフモフ戯れているものだから、最近では息子もコメとムギと戯れながら同じようなことを言うようになった。


「コメとムギかわいい〜!こんな形、だれが考えたんやろうなぁ!」


そんなことを言いながら、コメとムギとモフモフする息子。彼らが戯れている姿が目に入ると、私はうっとりする。



愛おしい形と、愛おしい形と、愛おしい形が戯れているものだから、もう愛おしさが膨れ上がってしまう。



子供の形というのも、なんて可愛いんだろう。この形を考えた人も、天才すぎる。


まんまるの頭と、まんまるの目。
ツルツルのお肌に、モチモチのほっぺ。
小さな手とやわらかくてフニャフニャの体。
ぽっこり飛び出た、おなか。


もし息子が、おじさんを小さくしたような形だったとしたら、私はもしかしたら息子を育て続けることができなかったかもしれないな、と思うことがある。

大変な子育ての時期を、お母さんたちが大変ながらも幸せに過ごせるように、子供たちは意図的にあの"愛おしい形"で生まれて来るようにさえ思えてくる。





息子と過ごしてきた5年間。

見るもの触るものがすべて"初めて"の息子が、手の届くところにあるもの全てを手にとって、マジマジと舐めるように見入る姿を毎日見てきた。


そんな息子といっしょに、当たり前に身近にある物たちを、私も改めてマジマジと見てみると、なんだか不思議な感覚になることがよくあった。


特に、野菜とか果物の形はすごい。


トマトのツルツルした赤色、ブロッコリーのブツブツ、粒のそろったトウモロコシなんてもう芸術的だ。バナナの皮の剥きやすさには脱帽だし、みかんの実の部分なんて本当にすごい。



人間の形だってすごい。

目と耳が2つずつあって、鼻と口が1つ。
手が2つと足が2つ。
骨があって、そこにくっつく筋肉たち。
骨に守られた内臓たち。
絶妙なバランスを保って2本足で立つ、
あの感じ。

一人一人少しずつ形や大きさは違えど、おおよその形と仕組みは同じで、一瞬も休まず心臓を動かし、循環し続けている。




なんだかもうクラクラするくらいに、私たちの周りには"奇跡的な形"をしたものが数え切れないくらいに溢れている。



だれが何のために、"この形"にしたんだろう。

きっと何か理由があるはずなんだけれど、どんなに考えてもその理由はわからない。


私にできることは、"愛おしい形"だと感じる人や物を「愛おしいなぁ」と思いながらうっとりすることくらいだ。




でもずっと"同じ形"でいられるものなんて、1つもない。

この間、Googleフォトで息子が生まれたときの写真を何気なく見ていて、ふと気づいてしまった。


息子はこの5年間で、ものすごいスピードで形を変えていき、赤ちゃんから子供になっていった。猫たちだってこの6年間で、ヒョロヒョロだった体が、フワフワまるまると膨らんでいった。


息子も猫たちも、当たり前に年をとるのだ。

いつかは"おじさん"になり"おじいさん"になり、いつかは心臓が止まって、焼いてもらって骨になる。

野菜や果物だって、熟して腐って、最後には種だけを残すように。



1週間とか1ヶ月とかでは、ほとんどその変化には気づけないけれど、自分も含めてすべての人と物はジワジワと確実に変化し続けているんだなぁと思うと、「待って待って!」と焦りのような気持ちが湧いてきたりする。

同時に、おそらく人生で1番"かわいい形"である今この瞬間の息子と猫たちを、この目にしっかりと焼きつけておこうと、背筋がシュッと伸びるような感覚になったりもする。


でもきっと、おじさんになった息子を、当たり前に"愛おしい"と思うのだろう。

ヨボヨボになった猫たちを、当たり前に"愛おしい"と思うのだろう。

顔にシワができて、手足もシワクチャで、髪の毛が薄くなった父ちゃんのことだって、当たり前に"愛おしい"と思うのだろう。


"形"を超えて"愛おしい"と思う日が、私にもきっといつの日かやってくる。


それを「愛」なんていうのかもしれない。

私はそこに向かっているのかもしれないな、なんて思う。


でもそこに辿り着くためには、"愛おしい形"に応援されながら、泣いたり笑ったり怒ったり喜んだり、忙しく心を動かす日々がきっと必要だ。そんな時間の積み重ねがきっと必要だ。


そんな日々が、そんな時間の積み重ねが、未熟な私に「愛」と言われるようなものを教えてくれるのかもしれない。「愛」と言われるようなものを育ませてくれるのかもしれない。


"愛おしい形"に励まされながら、
今日も私は「愛」を育てている。


愛を育てているんだと確信を持ちながらも、愛って何なのかはまだよくわからないという矛盾を、ソッと胸に秘めながら。

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