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10年ぶりの新作へのエッセイ、連載スタート!⑴

noteのみなさん、はじめまして。
orange pekoeのナガシマトモコです。
2024年に、新しいプロジェクトTomoko Nia(ともこにあ)を始動します。
私のことを応援してくださっている方も、よく知らないよーっていう方にも、少しだけこのエッセイ公開に至る道のりを紹介させてください。



orange pekoeとしてデビューした2001年から、怒涛のような日々を駆け抜け、2014年のリリースで、遂に私は心身ともに燃え尽きてしまいます。
それからの10年間、ライブはマイペースに続けていましたが、新作を出すことができずにいました。
なんというか、繭の中にいたというか、ヴェールの中にいたというか、そんな気分でした。
そしてこの度、2024年に約10年ぶりのソロの新作をリリースします。
どうしてこんなに間があいてしまったのか、その間にニューヨークやロサンゼルスに移住し、3年間過ごしたのですが、その時にどんなことを感じていたのか、セルフライナーノーツのつもりで書き始めたら、結構な量になってしまいまして、笑。

そこで、せっかくなので、連載形式で今日から週に一度、エッセイとして少しずつアップしていくことにしました。

というわけで、そんな私の10年間の沈黙の期間に、何を考え、何を感じていたのか。もしご興味があったら、読んでみてください。
(ちなみに、アメブロでも読めます。そちらによくいる方はフォローしてみてくださいね)

ちなみにリリース情報などは、SNS(InstagramX)やオフィシャルサイトでもチェックしていただけるので、もしよかったらそちらも是非。

ではでは早速、いってみましょ〜。

⑴はじまり

orange pekoeとして、ビッグバンドアレンジでのベスト的なアルバム『orange pekoe with the Big Band Party Night!!!』を作り終えた2014年、私は燃え尽きたような気持ちでいた。
やれることは精一杯やったけれど、何か別のアウトプットの道が必要だった。

Big Bandのレコーディング風景

同年9月には、2012年に録音していたソロアルバムをリリースしていた。
それもその模索のひとつだった。
私の中でorange pekoeとして表現しきれていなかったものとして、R&Bへの愛があった。そんな作品を創るためだ。

レコーディング時(2012年)にNYを訪れ、10日間ほど、日本に里帰りしていた友達のアパートを借りて、暮らすように過ごした。
なんて楽ちんな街なんだろう。こんなにのびのびとしたのは久しぶりだ。
そんな気持ちだった。

好きなものや、それを良いと感じる感覚を共有できるうれしさ。街に住む人たちが自由に、音楽やアートを愛しているのがそこかしこから伝わってきた。

日本の音楽業界の息苦しさから、自然と解放されている自分に気づいた。

ブルックリンから臨むマンハッタンと夕陽

そういえば、初めてNYを訪れたのは、さかのぼって2009年、セントラルパークでのJAPANフェスに呼んでいただいた時だった。

その時も、街を歩いたとき、こんなに大都会なのになんて気持ちのいい街なんだろうと思った。もっとコンクリートジャングルみたいなのを想像していたのに。

そのまま30歳の誕生日をみんなにお祝いもしてもらえたり、不思議な縁を感じる街だった。

30歳のバースデーパーティーin NY

2012年のバンドトラックのレコーディングを終え、日本に帰ってからもその感覚は消えることはなかった。

ぼんやりと、「ああ、あの街に帰りたいなあ。」などと呟きながら、リリックを書き始めた。

その時にはじめて本気で英詞にチャレンジしてみた。なぜなら、やはりR&Bには、英語の言語そのものが持つグルーヴの方が絶対的に合うからだ。

せっかくなのだから、と気軽に挑戦してみたものの、なかなかうまく進まない。
普段、日本語の歌詞でさえ、言葉選びやメロディーへのマッチング、メッセージとビジュアル感のバランスなど、完成度を追求すると、出来上がるまでにどうしても時間がかかってしまうようなタイプの私だ。
ボキャブラリーの限られた英語での作詞は不可能に近かった。



結局、バイリンガルの友達たちに手伝ってもらってなんとか仕上げたものの、くすぶるものがあった。

私の中で歌詞はとても重要で、私が音楽を通してやりたいことである『エネルギーの交流をみんなと行う』上で、歌詞のメッセージや表現はその鍵となるパートだ。

それに、頭の中でいちいち翻訳していると、実際歌うときに、時差が生まれてしまう。それではいつものようにうまくエネルギーを伝えられない。
そういう理由もあって、orange pekoeでもほぼカバーなどはやってこなかったんだ。


そこで、私の中にこんな願いが生まれてしまった。


英語を喋れるようになって、自分の言葉でいい歌詞を書けるようになりたい。


そしたら日本語がわからない世界のみんなにも、直接私の伝えたいことを伝えられるんだし。



燃え尽きていた私に、ちいさなちいさな火が少し灯った瞬間だった。



さあ、そこからがこの長年の沈黙につながる日々の始まりであった。

ニュージーランドへホームステイしたりして、短期留学を体験した。オンラインでも毎日レッスンし、必死で勉強した。できなすぎて、キレそうになることも何度もあった。日本で大学まで勉強していたのに、一体なにを教わってきたんだろう。普段喋られてる英語は、学校で教わったものとは全く違った。

それでも少しずつ上達していったり、後退しているような気分になったりもしながら続けていた。

それと同時に、私は小さい頃に少しだけエレクトーン、中学の時に少しクラシックギターをしていただけで、楽器がちゃんとはできなかったので、幼い頃に憧れだったピアノも独学で学びはじめた。

ピアノと私

また、卵巣嚢腫の手術をしたこともあって、歌うための筋肉がストンと落ちてしまっていたので、2002年くらいから細く長く続けていたヨガをこの期に本格的にやり始めた。

はじめてやったときから好きだったけど、深く知ること、深くプラクティスしていくことによって、よりヨガのことも大好きになっていった。
身体と精神の両方に作用してくれるところが好きだった。
すると自然と、もっとヨガをきちんと学びたい!という気持ちが高まってくる。

そこで、ヨガを完全に自分の生活の一部にしてしまうために、ティーチャートレーニングを受けることにした。
インドに行こうか迷ったけど、たまたまNYでの1ヶ月のプログラムをみつけ、ああ、またあの街に行ける!とすぐさま申し込んだ。

セントラルパークでシルシアーサナ(ヘッドスタンドポーズ)のプラクティス

そのティーチャートレーニング期間中にNYから、相方の一馬に連絡して、街の様子を話しているときに、彼もずっとアメリカの音楽学校に行きたかったという話になった。

彼もまた、プロとして活動していく中で、いろいろな葛藤を抱えていた。音楽学校へ行きたかったという思いも、ことあるごとに出ていた話だった。


何かがカチンとはまって、急激にピンときてしまった。


住んでしまえばいいんじゃない?
一馬は学校に行って、こっちで活動してしまえば!と。

この自由な街は、短期で訪れるところじゃない、住んでなんぼだ、と思いはじめていた私は、その願いを叶える!というアイディアにすっかり魅了された。



…そして。

気づいたらニューヨークに降り立っていた。
今度は、本当にここに住むために。


怒涛のように様々なプロセスを終え、日本の家を引き払い、行ってきますライブでファンのみんなに温かく見送ってもらって。

導かれるように理想的なお部屋もブルックリンにみつけ、ワクワクの大冒険がはじまった。


(来週につづく)

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