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読後感想 カズオ・イシグロ著「わたしたちが孤児だったころ」

私たちは人生の中で頻繁に、理不尽さや憤りを感じる。
そして、それを心に留めながら、日常生活に戻って行ったり、ブチ切れて今の生活を壊してみたり、いつの間にか記憶が薄れるのに任せて、騙し騙し生活していったりする。

人はとかく白か黒か、左か右か、上か下か、都会か田舎か、環境保全か高度成長か、と2つの相反する選択肢を用意しがちだ。

そして、どっちが正義なのか、どっちが好きか、どっちが趣味がいいかと、どちらかの選択をすべく、自分で自分を追い込んでいく。

私も長い間、そういった攻防を繰り返してきた。
結果、そういった二者選択の攻防は、自分が美しいと感じたようにはならないことがわかった。

「充されざる者」

カズオ・イシグロの小説は、本作で4作品目だったと思う。

最初は「充されざる者」を読んだ。正直、辛い小説だった。
読者の期待(まぁ、往往にして予定調和だけど)を裏切り続ける。
どこに辿り着くか全くわからない。

夢の中で、行かなきゃいけないところがあるのに、場面がコロコロ変わって、邪魔もいっぱい入って、最終的に自分は何してたっけ?となるのと似ている。

でも、読後感としてはなんというか、手をグーにしてずっと力一杯握りしめていたあげく、手のひらをゆっくり恐々開いたときみたいに、あぁ、なんだか生きててよかった!と思える感覚だった。

手のひらを握っていたかどうかもよくわからなかったけど、開いてみたら「あ、そうか、緊張して握ってたんだな。で、その分筋力ついてるな」という感覚。

改めて考えてみると、読書に求めるものって、予定調和のロマンスとか、最後には正義が勝つ、といった具体的かつ表面的な物語の清々しさではないような気がする。

むしろ、「なんとなく生きててよかった」という生存実感だったり、「今の私って色々あるけど、まぁまぁ幸せだわ」といううっすらした安心感だったりが、じわーっと湧いてくる感慨のようなものなんじゃないだろうか。

そんな意味では、「充たされざる者」ってまさにそんな話で、自分の中のスノッブな部分をさりげなく全否定され、いかに自分が色々な既成概念に縛られて不自由に生きているか、さらに、その不自由さを「安心感」と捉えてきたかをまざまざと知らされる。

「わたしたちが孤児だったころ」


「わたしたちが孤児だったころ」も、「充されざる者」ほどハチャメチャな感じはないにせよ、やはり同じように薄ぼんやりした記憶をたよりにし、さらに、主人公もよくわからないままに、なにか大きな予定調和のようなものに巻き込まれようとする。

そして、記憶が頼りにないにも関わらず、なぜか「それを自分が正せば、世界は変わる」という確固たる確信を持って行動している主人公がいる。

ストーリーは、1910年代の品のあるイギリス人の上流家庭の子どもの記憶のなかにある上海から、第2次世界大戦に突入する直前の戦場になりつつある切迫した上海、そしてその20年後の上海、と展開していく。

子ども時代の美しく幸せな記憶。

それが、戦場と化した上海で、実は記憶の欄外の世界は、薄汚れたものに塗れていたことがわかってくる。そして、美しい記憶を共有していたはずの幼馴染までがしまいには薄汚れていく。

描かれているのは、ある特定の時期、地域に起こった悲劇ではあるが、それは、誰もが人生で経験してきた自分自身の感情・感覚のありように重なっていく─。


読後すぐ、そんなふうに自分のことと重なってきたわけではなかった。
日常生活の中で、ふと思い当たったのだ。

「許せない」という感情


いつも自分の中でどうしても抑えられない感情があった。
なにかにつけ、「善か、悪か?」と白黒つけたがる癖。
その結果、今目の前で展開していることが「悪」と見做された場合に、湧き上がってくる負の感情。

悪なら、悪だといって糾弾したり、善に変えたりすることは、言うは易しで、実際にはそう簡単に行かない。

だから、そういった中途半端な状態を、どうにか善に持って行こうとする自分の価値観と、その都度格闘してきた。

そこで湧いてくる負の感情は抗い難く、吹き出してくるに任せれば、それなりの快はある。それはコントロールできたとしても、時折思い出しては嫌な思いを倍加し、倍加したらしたなりの快があり、やめられない。

長いこと、人生を無駄にする困りものだった。

言葉が意味を隠してしまう


「言葉が意味を隠してしまうことに興味がある」

と、どこかでカズオ・イシグロは書いていた。

言葉が、隠す?言葉は、顕すものではないのか。

正直、驚いた。
小説家とは、てっきり言葉が「顕す」可能性にかける職業だと思っていたのだ。

私たちはどこかで、言葉が全てを明らかにする、言葉にすれば伝わると思ってきた。

けれど、言葉が全てを顕すことはできない。何かが現れれば、そのものはたちまちその言葉にとらわれてしまい、その分隠れて見えなくなってしまう「意味」がある。

そう思ってみれば、カズオ・イシグロの小説には、語り手の曖昧な記憶であったり、唐突とも思える反応であったり、とにかく読む方が「なぜ?」と意味を考えざるを得ない場面が随所に仕組まれている。

書き手側が、意味を隠すために言葉を使うなら、自然、隠された意味を探し、どう意味付けするかは読み手側に委ねられる。そこに書き手と読み手による偶然の産物が生まれる。しかも、読み手の読み方次第で、十人十色、一期一会の産物になる。

読み手がサボって、テキストに委ねれば、読書はそこで終わる。
だからこそ、隠された意味を嫌でも考えないと読み進められない私たち読者は、ある種クリエイティブに読書できるのかもしれない。

例えば、これが絵画なら、色を塗り重ねて、なるべく忠実に描くのではなく、むしろ色を重ねるごとに対象物を隠していく。

きっとそれは抽象画でもなく、具象画でも心象画でもない。

音楽なら、間に意味を持たせるような音数の少ない、もしくは演奏すればするほど、静寂が広がっていく武満徹のような音楽かもしれない。

隠された意味を考える稽古

読書する中で、隠された意味を考える稽古を繰り返し繰り返しさせられた私たちは、小説から離れたある日、ひょんなことからその稽古の成果を見つけ出す。

私の場合、読んですぐではなく、3日後だった。

イシグロ小説に出てきた状況や主人公の曖昧な記憶から導き出されるもの、現れるものと、隠された意味が、言葉にならない感覚になってふいに我が身に迫ってきたのだ。

「あ、そうか。自分の人生もまた、バンクスの人生のようなもので、美しいと思っていたものは実は裏があるし、もうちょっとでうまくいきそうなのにわざとのようにタイミングを外すといった間の悪さの連続だった」と気がつく。

そのときに、なんとも言えない安堵の感覚が身体の中に広がっていく。


これでいいんだ。


悪い事や物を排除できなかったことで、自分を責め続ける人生もあっておかしくない。

正義が必ず勝つわけじゃないし、そもそも「正義と言われているものが正義かどうかもわからない」ことだってある。
それは、残念かもしれないが、絶望することではない。

結局「生きる」って、こういうモヤモヤの連続なのだ。
何一つはっきりしていないし、状況は刻一刻と変化していく。
それも理不尽に。

そういった気づきが、少なくとも、明日もまた生きて行こうかな、というような、ささやかな前向きな気持ちにさせてくれる。

カズオ・イシグロを体験して4作目でようやく、その凄さが身に染みてきた気がする。それだけ「稽古」の成果が出てきたという事だろうか。

長年の困りものだった二項対立の感情からも、少しずつだけど逃れられつつある。真っ向勝負じゃなくて、全く意外なところからじわじわと湧いてきた。そういった偶然の産物も、読書の愉しみの一つだし、人生の福音だと感謝している。
































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