【アニメ映画】「窓ぎわのトットちゃん」

一人の著者による発行部数がギネス世界記録に認定されてるという黒柳徹子さんの「窓ぎわのトットちゃん」。確かウチの母も買ってたと思う。

「君たちはどう生きるか」に続いて、八鍬新之介監督の、2023年公開のアニメ映画も観たのだ。

俺は、原作を読んだことはないのだが、「君たちはどう生きるか」よりは面白かった。

子供のやることを否定せずに、自由に思ったようになるべくやらせるという方針の“特殊学級”(?)が、あの時代に存在したことが驚きだが、戦争に突入する前の、子供達にとっても暗〜い時代に、小児麻痺(今は見かけなくなったね)を含む障害・問題のある子供たちを積極的に受け入れていた学校に入ることのできた黒柳徹子さんはとても幸せだったよね。

彼女は、今でいうところのADHDだと思うが、とにかく秩序を守るという名目のために、いわば“個性”をも病気とされて、押さえつけられてきた訳だから。

まあ、映画は、悪徳も一切ない(悪徳は社会の方だ)、どちらかといえば子供向けだと思うが、戦後77年経って、いつの間にか、(一部の)子供たちが満足に食べれないという社会状況が復活して来たように思えるね。昔は、イデオロギーによって、今は大不況という経済状況とクソみたいな政治によって。

こんな時、大衆は必ず保守化するもので、ADHDのような個性的な人間は、理解はあっても生きづらいということになろうと思う。

前半は明るくて良いのだが、後半は泣いて暗くて、やっぱり子供が悲惨な目に遭うのは辛いよね。理解のあった先生たちと学校は、その後、どうなったのだろうか?

しかしながら、教育とは子供の成長を促すようなものだと思うけど、社会における個というものを確立させる働きをするものなのだろうか。結果的に、それは矯正となったり、訓練であったり、個の放棄に繋がるものだったりするかもしれない。社会がそれを求めるからだ。

俺の時代は、教師は“悪い大人”“なりたくない大人”の見本であって、子供は、そこから理不尽な人間社会を学ぶものだった。

学校の一番の意義は、知識等の習得よりも、狭い人間関係から社会を学ぶものであろう。学習からは、具体的な事柄よりも、そこから派生する見方や方法、感情、意見、コミュニケーション…、人間のあらゆる行為のベースとなるものを育てることにあると思う。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。