グラマラスパンティー恐るゝに足らず!
人目を気にして生きている
「これをしたら、あの人に悪い気がする」「こんなこと言ったら引かれるかなあ」「とりあえず、ここは遠慮しておこう」…。人を喜ばせる“おもてなし”の反面で、気遣いに狂わされている国、ニッポンへようこそ。諸外国から訪れた皆々様はどうぞごゆるりと見物していってください。
“日本人”と一括りにするステレオタイプはあまり好きではないのだが、しかし日本という国のカルチャーとして、この気遣いなるものは、ずいぶん馴染んでしまっているんじゃないかと思う。我々は気を遣いすぎている。それは他者への配慮、優しさによるものだろう。もしくは他人から見た自分の演出のためかもしれない。が、それが他者意識にせよ、自意識にせよ、時に我々を疲弊させるものであることに変わりはない。私たちはどうしたって人目を気にしてしまう生きものだ。
さて今回は、海外で経験した珍事件から、私たちが気にしてしまう人目とは一体何なのかを紐解いていきたいと思う。では安全ベルトを締めて、離陸に備えていただこう。
遠く離れたメキシコの地で
かつて私は単身、中南米を訪れたことがある。学生の時分だ。限られたお金と時間でせっかく海外に行くなら地球の裏側まで行ってみたい、という非常に単純な動機で目的地は決定した。物理的に距離が離れた分だけ、大きなカルチャーショックがあるに違いないと、期待もしていた。日本国内で育んできた私の中の固定概念を、是非とも破壊して欲しかったのである。そしてカルチャーショックは、最初の目的地であるメキシコシティに到着して間もなく、まだ何の心の準備も終えないうちにやってきた。
空港に着いて近場のレストランで一息ついていたところ、大柄な若い男が私に近づいてきた。そして目が合うと、カウンター席に座る私の隣に腰掛けた。男は私に熱烈な視線を送り続けている。たじろぐ私の腰元に、すっと男の手が伸びてきた。こいつは全く…こんなところで異国ロマンスの幕開けか?と期待に胸を膨らませる私。ものの数秒の間に、男の手は私のズボンのポケットの中へ。そして私の最新型iPhoneを握りしめると、男はそのまま立ち去っていった。
「スリじゃん。白昼堂々、スリじゃん」
彼が立ち去ってから数分後、私は日本語でそう呟いた。つまりそんなことさえも、数分、できずにいた。目にはじんわりと涙が浮かんでいた。正直な話、信じられないくらい怖かった。男の目はスマホを盗み取る瞬間、「大声を出したら殺す」と確かにそう言っていた。今でもその目を、私は鮮明に覚えている。こうして私の旅路は、期待していたものとは随分違うが、途轍もないカルチャーショックからスタートしたのだ。
これから南米へと下っていく長い旅路のあまりにも序盤で、スマホを持たざる者になってしまった私は、ホテルの予約やら何やらはすっかり諦めて、道ゆく人に助けを求め、とかく話しかけまくっていた。百戦錬磨のナンパ師も目を見張るであろう、勇猛果敢な不審者の姿がそこにあった。そして努力の甲斐あり、不幸なアジア人を憐れんだある青年が、私を家に招いてくれたのである。信心深さに欠ける俗人たる私も、この時ばかりは救いの神に心から感謝した。
青年はアネストルと名乗った。アネストルは、両親と高校生くらいの弟と四人で暮らしており、その家は、広大な畑と家畜小屋のある立派な邸宅であった。彼の家族は、アネストルが連れてきた私を、嫌な顔一つせず温かく迎え入れてくれた。かくして私は、そこで家事や家畜の世話を手伝うことを条件に、しばらく住まわせてもらう運びとなったのである。この時から、私の環境適応能力は凄まじい勢いで開花し、三日目には家畜小屋で、それまでやったことのない兎の屠殺を手伝っていたほどである。自らを食わすため動物の命を絶つことに抵抗がなかったわけはない。しかし、生きるとは本来そういうものなのだと学んだ。学びに溢れた日々だった。
メキシコでの生活で、自分は大きく変わってきているという自覚があった。慣れない暮らしの中で新しいものと出会い、自分の器が少しずつ大きくなっていき、何でも許せるような感覚がしていた。だがそんな私も、こればかりはどうにも許容できないと思う事柄があった。それは何を隠そう、パンティ問題だ。
洗濯物は、私のものも含め一家族分をまるごと同じ洗濯機で一度にアネストルの母(通称マム)が行っていた。しかし部外者である私が、彼女に下着まで洗っていただくのは面目無いし、そもそも下着を人目に晒すのが恥ずかしかったので、私はいつも風呂場で洗い、自分が借りている部屋の窓際で干していた。しかし、ある時それを見つけたマムが、「もう、洗濯物はちゃんと出してよね」と言って、干してあった生乾きの下着を持っていってしまったのだ。それは当然のように洗濯機の中へ投げ入れられ、お庭の物干し竿に吊るされることになった。家族のパンツは仲良く横並びで、太陽の光の下、そよそよとお庭を泳いでいる。左から、ダディの大きなパンツ、アネストルのこれまた大きなパンツ、弟くんの巨大なパンツ、そしてマムの大きなグラマラスパンティー。その横に、小人のパンツかしら?と思うほどの小さな、まったくそそられない無地のパンティーが所在なさげに揺れていた。ショックだった。なぜかこの瞬間、小さきことは恥ずかしきことのように感じられた。完全なる敗北だった。グラマラスとは程遠い自身のプロポーションを呪った。
私はマムにこの気持ちを伝えた。恥ずかしいので自分の下着は自分で洗わせてくれと、拙い言葉と身振り手振りで一生懸命頼んだ。しかし再三のお願いも聞き届けられず、私の下着は毎回生乾きの状態で私の部屋から回収され、その度に私はマムから「なぜ部屋に下着を隠すの?洗濯に出しなさいよ」と叱られていた。私の気持ちは、最後まで理解されることはなかった。というか、下着を部屋に隠す変人扱いだった。オー!サンタマリーア!(ああ!聖母様!)
なるほど、遠く離れた異国の地で自らを解放し、そこでの暮らしに着実に適応していた私だったが、己の小さきパンティを他人に洗われ、あまつさえメキシコ標準型グラマラスパンティと並べて干されることの恥ずかしさは消し去ることができないのだな、と私は悟ったのであった。「一体何がそんなに嫌なのよ?」とマムに聞かれた時、私は脊髄反射で「恥ずかしいからだよ!」と答えていた。しかし何が恥ずかしいのか、それを説明しろと言われれば、確かに難しい。私なりにその恥ずかしさの源泉を探し求めていった結果、実は存在しない他者の目を気にしているだけというなんとも不可解な結論に至った。
というのも、庭に並べられたパンツを目にした時、私はグラマラス大会初戦敗退を余儀なくされたような気がした。そしてそれはきっと他の人の目にも同じように映っているに違いないと考えた。だからそんな不名誉な称号を手に入れる前に、自ら即刻大会棄権を名乗り出たのだ。もしそう思っているのが自分だけで、他の全員が全く気にしていないと分かれば、たぶん私も気にならなかったであろう。しかしその確証はなく、手がかりは自分の感覚だけ。みんなも私と同じような感想を持ち「情けないパンティね、履いてる女も情けないに違いないわ」とでも思っていたら…。そう考えると恥ずかしくていてもたってもいられなかったのだ。
しかしどうやら、そんな不安も杞憂に過ぎないらしかった。同じことを考えている人間は、その町はおろか、メキシコ全土に恐らく一人もいなかったであろうことが大人になった今なら分かる。彼らは絶対に他人のパンティを嘲笑しない。というか興味がない。ありもしない他人の目に怯えるとは、なんとも馬鹿馬鹿しい話であった。
ありもしない他人の目が気になるのは
というわけで、私たちが気を遣い過ぎる原因は、ありもしない他人の目を脳内で作ってしまっているからだという結論に至ったわけだが、自分の脳内で作られるということは、少なくとも私たち自身が、それなりに厳しい目を他の人に向けているということなのではないか。だから、そういう自分の感覚を、他者の意識にまで敷衍して物事を考えてしまうのだろう。それが、されもしない批評にさらされるのを恐れて行動するということに繋がる。
我々は元来、批評家気質というわけだ。他人のすることで気に食わないことが沢山あるから、自分はそれをしないようにする。そしてそれが暗黙の了解として周囲に広がっていく。他者意識が縛り始めた自分の行動が、他者の行動まで縛り始める。自意識が先か、他者意識が先かは、最早分からなくなるほどに複雑に絡み合い、私たちは気遣いに疲弊している。そんなところだろうか。
兎にも角にも日本の外に出てみたら、驚くほど他人の目を気にしないで奔放に振る舞う人が幾らでもいる。そしてそういう人は大抵、他人のすることにもあまり関心がなさそうだ。しかしどちらが良いとは全く考えていない。神経質な人にも、無頓着な人にも、それぞれの配慮と優しさがあるからだ。それはお国柄、カルチャーに過ぎない。ただ、もし気遣いに疲れたという人がいたら、その気遣いの対象はあくまで自分の中で作り上げた自分そっくりの偶像に過ぎないと考えてみてほしい。他人は所詮他人だ。あなたの気遣いをありがたがるかどうかは分からないし、案外適当にやり過ごしても全く問題ない相手かもしれない。とりあえず、グラマラスなパンティの隣に自分のパンティを並べられても平気だという輩には、気を遣わなくて結構!
ちなみにメキシコから始まり、中南米をアンデス山脈沿いに南下していったこの旅の続きはまた今度、どこかで話そうと思う。コロンビアで知り合ったパウラという女の子や、ロープウェイから貧困街を眺める謎の観光スポット、歴史ある麻薬カルテルの盛衰、執拗にアジア人を追いかけ回す怖いおじさん、チリで登った雪山のことなんかを。ではさらば。
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