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友田とんが勝手に九州も歩く DAY2

「友田とんが勝手に九州も歩く」DAY1 のつづきです。

2018.9.17

熊本

熊本のホテルも温泉があった。というよりも温泉のあるホテルを選んでいるのだった。このホテルの温泉は二階にあった。入浴して着替えると朝食に行った。朝食会場が混雑していたので、ロビーのソファーで『本を贈る』の藤原隆充さん(藤原印刷)の章を読んだ。心刷(しんさつ)という言葉が生まれた経緯をはじめて知った。と思って部屋に戻ったら、ちょうど、昨日『本を贈る』を開くといい香りがすると書いたことに対して、Twitterで藤原さんからリプライをいただいたのに気づき感激した。昨晩、箱崎で呑んだくれているときに版元である三輪舎の中岡さんからもいただいていた。『本を贈る』が松本の藤原印刷で印刷されていた時、偶然にも拙著『『百年の孤独』を代わりに読む』の重版が印刷されていたことを知った。

こないだからこの本はとても気になっていて、それは校正者の牟田都子さんが寄稿されていると知ったからであり、その牟田さんが荻窪の本屋Titleでアップルパイにかじりつく姿がドキュメンタリー番組「7RULES」で取り上げられていて、私はそのドキュメンタリー番組「7RURES」を繰り返しみた。

チェックアウトをしてホテルのロビーで旅行記を書いていると、satomiさんが迎えに来てくださった。熊本はほんとうに心強い。行商の旅は時折、心が折れそうになることもあるけれど、今日はsatomiさんのおかげで大丈夫な気がしている。

長崎次郎書店の外観

10:30の開店とほぼ同時に長崎次郎書店に入店して、ご挨拶すると齊藤さんが出迎えてくださった。すぐに見本を見ていただいて、取引条件の資料をお渡しすると、すぐに置いていただけることが決まった。誠光社さんのインスタでご存知だったらしく、直接来てもらって実物が見れてよかったとのことだった。外国文学の棚を見せてもらい、ガルシア=マルケス全作品の版になってから『百年の孤独』は数十冊出ているのだとか。棚を見ると、とてもいい選書だなと思った。知っている本ばかりでもなく、知らない本ばかりでもない。並んでいる本は同じようなものだったりもするのに、その書店書店でそこから感じられる雰囲気が随分と異なる。ただ今の私にはそれをうまく伝える言葉がない。これを読んだ人に見てもらうしかない。とにかくいい棚だなと思った。satomiさんは齊藤さんに外国文学のおすすめを尋ね、今ならパワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』かなと薦められて、satomiさんはそれを買った。私は文庫の棚を眺めて、円城塔の『シャッフル航法』を買った。店を出て、通りの向かい側からお店の外観の写真を撮っていたら、齊藤さんが出てきてくださって、大きく手を振ってくださっていた。私はお辞儀をした。

長崎次郎書店の丁寧にならべられた棚

熊本限定のIC乗車券をsatomiさんからいただいた。「トモダトン」の名前入りだった。やったーと思った。市電に乗って、数駅先にある橙書店を目指して歩いて行ったが、臨時休業の貼り紙がされていた。今回こそは訪問したいと思っていたが、またその希望は叶わなかった。しかし、私はこう思うのだ。また熊本に来る理由ができたのだと。

橙書店は残念ながら臨時休業でした

トモダトンと刻印されたくまモンのIC乗車券

お城の近くの土産物エリアみたいなところへ向かう途中、ちょうど市民ホールの前を通りかかると、黒い服装の若者が、中にはベビーカーに小さい子供も連れて、たくさん行列をなしていた。向こうの方には「詩吟 熊本大会」とあったので、こんなに若い人たちが詩吟するのかと内心驚いていたら、satomiさんが
「あっ、KODA KUMI!」
と声をあげたので、よくみたら詩吟の入り口とは違うところに、倖田來未のライブの入り口があった。私はどちらかというと、詩吟大会の参加者の姿が気になったが、辺りには詩吟大会関係者は見当たらなかった。

歩きながらずっとsatomiさんとお話していて、なんの話の流れだったのか、「甘いものも好きなの?」と聞かれて、「甘いものもお酒もどちらも好きです」と答えると、「それは危ないね」と笑われた。「餡子は何餡が好き?」と聞かれたので、「うーん、おまんじゅうの種類によるんですが、あんころ餅のこしあんも好きだし、おはぎのつぶあんもいいですよね」という日和見的な回答をした。satomiさんはどちらかと言えばつぶあんが好きなのだそうだ。

私はこの日和見的な立場こそが、世界を平和にすると思う。つぶあん原理主義、こしあん派や、それほど多くはいないであろううぐいす餡党であったとしても、それが原理主義化していくと、それは相手を排除することになる。実際のところ、菓子職人はそれぞれを美味しく食べて欲しいわけであって、粒あんこそが神!というような崇め方、あるいはこの粒あんを理解できない人間はダメ!みたいなことを思ってほしいわけではない。私の父はかつて菓子職人だったし、祖父も上生菓子は作らないが菓子職人だった。彼らにはこのことを聞いたわけではない。どちらかといえば、それは家であんこを炊くのを小さい頃から見て知っていたといえばいいだろうか。おはぎにする餡と、最中に詰める餡、などなど、どれもそれぞれにちょうどよい炊き方があり、それらはみんなちがったのだ。だから、粒あんというものがあるわけではなく、粒あんと言っても、おまんじゅうにとってそれがベストであるように炊いている。だから、どれかが優れているとかいうことではないのだ。

そういえば、亡くなった祖父は戦争中は小豆や砂糖が手に入らず、親戚のところで電気工事の仕事をしていて、奈良や三重の方まで行っていたと小さい頃に聞いた。戦争が終わってしばらくは電気工事の仕事を続けていた。小豆や砂糖がなかなか手に入らなかったからだ。それで祖父が当時思いついたのが、サツマイモで作った芋餡というものらしく、近所でそれは評判になり、菓子屋を再開する景気付けになったらしかった。という話はこの夏に実家に帰った時に母に聞いた。

えりみさんがtwitterで教えてくれた、県外不出の明太子とあとアナゴ焼きを買った。陣太鼓ソフトという、求肥とあんこでできた陣太鼓というお菓子が中に入ったソフトクリームがあるらしかったが、それは空港でも食べれるよということだったので、別のソフトクリームをご馳走になった。

ソフトクリームと明太子

町の人通りが休みの日なのに、昨日お祭りが終わったせいか、あまり多くないらしい。その後、町の中を通って、それで蔦屋書店熊本三年坂店を見て、なかなかいい感じの書店だなあ、文庫がぎっしり揃っていて、やはり文庫というのはこうラインナップがある程度揃っているのがいいよなあなどと思いながら、棚を見ていった。唐突に村上春樹の色紙が飾られていた。

お昼にはお肉をご馳走になった。ステーキ丼と、あと太平燕(タイピーエン)というちゃんぽんみたいな麺のミニを頼んだ。これはSNS映えるなと内心思った。口にも出したかもしれなかった。お肉はやはりどうしたって元気になる。太平燕の麺はカロリー0っぽく、ダイエットとかにも良さそう、と思ったが、ステーキ丼と麺のミニを食べると、まったくそんなことは意味がなく、お腹いっぱいすぎて苦しかった。美味しいお昼が食べれて幸せだった。感謝。

ステーキ丼と太平燕(ミニ)のセット

幅が随分とあり、どこまでもつづくアーケードを行くと、まず金龍堂書店があった。自動ドアを入ると、目の前には池があり、そこには河童がいた。河童が可愛いので、池の底にはお賽銭が投げ入れられていた。それから、すぐ近くに長崎書店上通店があった。選書がいい。外国文学も充実していた。珍しいシリーズや叢書も並んでいる。奇をてらうというか、どーんと目につくようなものはないのに、特色がある。ちゃんと読んでる人がいるということなのだろう。最近行く先々でやたらと栗原康さんの本が目に入って来る。出たばかりのピンク色の対談本が面だしされていた。一度気になりはじめると、出会う確率が高くなる。それはつまり、その一方でいろんなものに気づかないまま、私は通り過ぎているということだった。

長崎書店

その後、古書店を順に案内してもらった。河島書店、汽水社、そして天野屋書店。河島書店はとても立派で、高い天井近くまで全集が積み上げられていたりした。伝統的な古書店という印象。一方、汽水社は落ち着いていて、本もしっかり棚に並んでいるけれど、レコード屋にでも迷い込んだような気分になる。

汽水社の店先

最後に、天野屋書店を訪ねた。satomiさんはこちらの店主さんとはお知り合いらしく、それで紹介してもらった。『代わりに読む』の紹介を手短にしてみたら、「なんとなくやってることはわかりました」とおっしゃり、「預かると大変だから、5部買い取ります」と買い取っていただいた。コーヒーを飲みながら、椅子に座って、伽鹿舎から出ている本や、本を書いた著者・訳者の話を伺い、伽鹿舎の人たちのことを聞き、私は九州の行商の話をしたりした。

そもそも熊本で行ってみたい場所を考えていた時に、その頃、紀伊国屋書店で見かけた九州限定の版元である伽鹿舎さんの住所を調べたら、一階が天野屋書店さんだということに気づき、これはどういうことなんだろうか?と思ったのだった。それで、satomiさんにお願いして、天野屋書店さんに立ち寄ってみることにしたのだった。だったら、なぜ伽鹿舎さんに直接連絡を取ってみなかったのかについてはよくわからない。私はなぜそういうことをしたのかよくわからないことばかりだ。もちろん、偶然伽鹿舎さんのビルの1Fに天野屋書店さんがあるというだけではなく、ここが結節点なのだなという気がして、探偵小説かミステリーを読んでいるようだと思った。

伽鹿舎の本の装幀がとても凝っている。

さらに、CHAIR BOOKSに行って、見たことのない本を見つけて、それからand coffee roasterに入って、コーヒーを飲みながら、satomiさんと好きな小説の話をして、とても楽しかった。夕方まで私は原稿を書きながら、過ごしますといって、感謝を伝えて別れた。

長崎書店の向かい側のseatle's bestでコーヒーを飲みながら、なぜかwifi繋がる!と思いながら、メモを書いて、あとは取り扱い書店一覧の入った画像とかをInDesignで作っているうちに、時間になって、ホテルに荷物を取りに帰って、バスセンターから空港バスに乗ったのだった。

開発が進む熊本バスセンター近く

思い返せば、一年前の八月に熊本を初めて訪ねたことを思い出した。あの時は、震災後の熊本の町やお城の修復工事を観ておきたいと思ったのだった。そして、長崎次郎書店を訪ねて、とてもいい土地の料理屋さんで食事して、よくしてもらって、また、熊本には来たいと思ったのだった。今回、あらためて熊本を訪問して、この本屋さんの充実ぶりは、文化というか、本を買って、それを支えている熊本の人たちがいるということだなと思った。

今回の熊本のツイートをして、今回の旅を振り返りながら、空港へと近づくにつれて、心の中で何かを打つ低い音が聞こえるような気がして、よく耳を澄ませてみると、おそらくそれは陣太鼓まんじゅうの太鼓を叩く音だった。もちろん、私は陣太鼓まんじゅうも陣太鼓もまだ見たことがない。餡子の中にお餅が入っていて、というsatomiさんの説明から、陣太鼓まんじゅうのことはわかっても、陣太鼓の音はわからない。代わりに心の中に鳴り響いていたのは、ウェス・アンダーソンの『犬ヶ島』の冒頭で叩かれる太鼓の音だ。

空港でチェックインを済ませると、お土産売り場に急いだのだった。陣太鼓まんじゅうよりも、陣太鼓ソフトが食べたくて、それで横に立っている人が食べているのが間違いなく、覗き込んだら、まちがいなく陣太鼓ソフトだとわかった。私は陣太鼓ソフトというものを見たことがないのにそれがわかるとはすごいなと思ったが、どこで頼めばいいのかはわからなくて、店員さんに聞いてみたら、奥に聞きにいってくれたのだった。ところが、向こう側で担当の人らしき人とひそひそと話している様子から、なんとなく結論は見え隠れしていたのだけれど、
「今日はもうおわってしまいました」
と言われるとやはりしょんぼりしてしまった。やっぱり遅かったかあ思って、それで陣太鼓だけを買った。

気を落としていたが、鶴屋百貨店のエリアで、去年そういえば、味噌がたいそう美味しかったことを思い出し、辛子蓮根もたいそう美味しかったことを思い出したので、それぞれを買って幸せな気持ちになった。レジで、「去年美味しかったから」と伝えたら、店員さんがそれはよかったですとおっしゃった。よかったものはよかったとなるだけ伝えるようにしているのである。

保安検査を通り抜け、私はやはり搭乗ギリギリまで旅日記を書いていた。以前ならいろいろ思い浮かべるだけで、ぼんやりしていたかもしれないが、今はこれがとても楽しい。こうして書きとめていけば、とにかくその時のことが手に取るように思い出せる。1週間後だったとしても、案外どうでもいいことは忘れてしまうものだ。私がいま一番大切にしたいことこそ、そのどうでもいいことなのだった。飛行機は東京の豪雨の関係で、離陸が遅れた。帰りの電車を少し心配していたが、到着はほぼ定刻だった。機内では『本を贈る』のつづきを読んだ。取次の川人さんの話を読んでいると、自分も大量の本をトラックに載せたり体を動かしているような気になってくる。

東京

機内でとても重たい荷物をFAさんに頼んで上に入れてもらっていた女性から「降りる時に下ろしてくださる?」と頼まれたので、「もちろん大丈夫ですよ」と応えていた。しかし、到着して降ろそうとすると、
「とっても、とっても重たいので、大丈夫ですか? とっても重たいので」
とその女性がおっしゃる。私もビール1杯分だけれど少し酔っ払っていたので、不安がなかったと言ったら嘘になる。それで絶対に落としたりしないように、その重たい紙袋を抱えるように下ろしながら、一体この重たい中身は何なのだろうか?と想像したのだった。持った感触が硬いものではなく、何か形が少し持つことによって歪む。新米だろうか? それとも......。いや、わからない。「重いですけど、何ですかこれ?」と聞くわけにもいかない。

羽田空港から乗り継いで家に帰った。家にたどり着いた頃には日付がちょうど変わった頃だった。駅からの帰り道はアン・サリーの歌を適当にまた放歌していた。雨がポツポツと降り出した。スーツケースを必死に引き、家へと急いだ。傘なしではちょっと辛いような降りかたになった。折りたたみ傘を出してさした。家にたどり着いたが、もう荷解きする気力も起きない。とりあえずカーペットに座り込んだ。もうこんな時間だから、コーヒーなど飲んではいけないとはわかっていても、湯を沸かした。湯を沸かしても、疲れ切った私はやはりぐずぐずとして、コーヒーを一向に入れず、ただ何かそのまま眠りたくなくて、必死に眠たい目を擦りながら、保坂和志『ハレルヤ』を読みはじめた。もちろん、ちっとも頭になど入ってこないのに。それでもそのまま眠ったら大切なものがなくなってしまうような気がして、ただただそのページをめくっては、旅のことを思い出していたのだった。

(おわり)

『『百年の孤独』を代わりに読む』は以下の書店でお取り扱いいただいています。


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