「池の水ぜんぶ抜く」は良いこと? 2/3(後編) 人工物は自然物!?
こちらは後編になります。
「池の水ぜんぶ抜く」は良いこと? 1/3(前編) 自然は存在しない!?
「池の水ぜんぶ抜く」は良いこと? 2/3(後編) 人工物は自然物!?
「池の水ぜんぶ抜く」は良いこと? 3/3(展望編) 処理水も自然物!?
今回はタイトル2を扱います。
前編では、過激な論調で話を進めましたが、後編は温和に行きます。
どうか少しでも見て行ってください。
注意
以下の3点に注意されたい。
筆者は生物学にも行政学にも無学な門外漢
素人のいい加減な意見
過激な言い回しがある
これでも問題ないと思う方には、ぜひ読んで欲しい。
1:新たな思想で考えてみよう
前編では、「人間は自然の一部ではなく、生態系を傍観する存在である。」という思想のもと、環境保全とは何なのかを考えた。
その結果、本当の「守るべき自然」は存在しないのではないか、という話になってしまった。しかし、そんな訳がない。私たちが思い偲ぶ自然は必ずあるはずだ。
それを新たな思想で考えよう。それは、、、
「人間は自然の一部であり、生態系に属する。」
というものだ。これを聞いて、「農業とかもそうだよな」などと考えた方は注意してほしい。これは断じて、そんな生半可な主張ではない。
この思想の真意は、
「ビルや道路、車や船さえも自然である。」
ということだ。すなわち、「人工物は自然である」ということになる。
ここで重要なのは、「すべての自然は人工物である訳ではない」ことだ。つまり、「人工物は自然の一部である」ということになる。まだ解りづらいので、ゆっくり解説していこう。
2:「アリ工物」?「ビーバー工物」?
あなたは「アリ工物」をご存知だろうか。知らない方のほうが多数であろう。なぜなら、姑息にも今さっき造った言葉だからだ。(もし他所で見たことがあったら教えて欲しい。)
この言葉の意味は、アリの巣である。様々な種が存在するが、日本では地中に芋づる状の巣を造る種がよく見られるだろう。その巣が「アリ工物」である。あなたは「アリ工物」を自然だと思いますか。
続けて問おう。あなたは「ビーバー工物」をご存知だろうか。これも知らないのも無理はない。「ビーバー工物」とはビーバーの巣であり、大量の木の枝で造られるダムのことを意味する。あなたは「ビーバー工物」を自然だと思いますか。
そして、最後に問う。あなたは「人工物」をご存知だろうか。ほぼすべての方が知っていよう。では、あなたは「人工物」を自然だと思いますか。
したがって、この思想の正体は、「人工物」は「アリ工物」や「ビーバー工物」などと同列の存在であり、「人工物」だけを特別視してはならないということだ。
3:「池の水ぜんぶ抜く」意味とは
ここで、題意の「池の水ぜんぶ抜く」を見直そう。そもそも、なぜ池の水を抜かなければならないのか。
そのおおよその目的は、かいぼりや廃棄物の除去などによって、池の水質や生態を改善することだろう。ではそのメリットは何であろうか。それは2つ考えられる。
1つ目は、池の生態系を整え、外の生物にも好影響を与えることだ。参考文献1にあるように、「イノカシラフラスコモ」や「ツツイトモ」という水草だけでなく、「カイツブリ」という鳥の復活も観測できたようだ。
これは、減少していた生物が息を吹き返したことになる。つまり、「元の生態系」に戻り、周囲の生態系も安定することにつながる。
2つ目は、ため池に限るかもしれないが、水災の防止となることだ。ため池には雨水を一時的に貯めることで洪水を防いだり、土砂流出を防いだりする機能がある。そのため、かいぼりで泥や廃棄物を掻きだすことで、貯水能力を維持し、災害を防ぐことができる。
上記の理由から解るように、適切な「池の水ぜんぶ抜く」は人間にとって有益となる。
しかし、その整備された池は果たして「自然」と言えるだろうか。そもそも、その企画の対象となる池は、人々の生活圏に近い「人工池(人の手が入った池)」であろう。つまり、最初から「人工物」は自然に紛れていたことになる。
したがって、我々は今も昔も、自身の利益となるように自然を改造していたことになる。平野も森林も池も海岸も、人間の都合の好いように変えているだけなのだ。なぜ池を守るのか、なぜ森林を守るのか。その理由は、その先に人間の利益があるからだ。
4:「人間の手」は本当にいいの?
しかし、ここまで「人間の手」を肯定してきたが、「人間の手」によって外来種を放つことは許されるのだろうか。曖昧な返事になるが、「場合による」としか言えない。
例えば、アメリカザリガニのような、天敵が少ないが故に爆発的に増加する外来種は許されない。
しかし、もともと池に居たが、外来種によって滅ぼされた「在来種(今の池からすれば外来種となる)」はどうだろうか。水草のような水質浄化、生態系の正常化をもたらすような生き物であれば、許容できるかもしれない。
また、すべての外来種は滅ぼすべきなのだろうか。これも「場合による」としか言えない。先述のアメリカザリガニは排除すべきであろう。しかし、参考文献4のように、外来種である鯉とウシガエルが競合することで、在来種であるツチガエルを守ることに繋がっている可能性が示唆されている。
したがって、この思想は外来種を駆逐するための「錦の御旗」では決してない。前編でも述べたように、「環境への影響を考慮すること」無くして、手を加えることは許されない。
5:争うことも「調和」?
この思想が目指す理想は「調和」である。陳腐な言葉に思われるが、これの本質は「外交」と同様である。
互いの国がそれぞれの最善を目指して、時に強欲に、時に温和に振舞っている。同様に、生態系とは他の生物と競合し、自身の最善を目指すものであると考えられる。
例を見て行こう。畑で農業をしていると獣害に悩まされることがあるだろう。このとき、人間とイノシシやタヌキのような獣が一つの生態系に「同居」しているのだ。
当然、作物をめぐって攻防戦が始まる。人間は網を張ったり、柵を設けたりし、最適な環境づくりを行う。獣は抜け穴を見つけたり、壊したり、ターゲットを変えたりするだろう。
また、この水面下で共存している者もいる。分かり易いのが益虫であろう。クモやテントウムシなどがそれにあたり、名前の通り「人間にとって有益」なので、農家から敵視されることはないだろう。
これが私の考える「調和」である。すなわち、競争的・融和的に互いが雑多に交わり合うことを「調和」と呼んでいるのだ。当然、人間もその競争・融和に参加している。
6:人間は「自然の形を知る」べき
これを基に「池の水ぜんぶ抜く」を見てみると、幾分か冷静になれるだろう。
在来種も外来種も自身の最善を尽くそうとして、今の生態系を作っているに過ぎない。そして、それを見て不都合になると考えた「人間という生物」が介入を強めただけなのだ。それによって、整ったり、崩れたりしても、生態系は常に「自然」であり続けるのだ。
しかし、留意すべきことがある。それは我々人間の影響力である。池すらも作れる我々は自然を変える「権利」を持つと同時に、自然を変える「責任」も持つ。
先述の通り、環境への影響を考慮せずに介入するのは、人間にとっても危険である。
我々に必要なのは「自然の形を知ること」だろう。形を持たない自然ではあるが、確かな有り様が垣間見えるはずだ。その地に特有の生物相互作用性を理解せずして、人間の影響力も、それがもたらす功罪も理解できるはずがない。
その「自然の形を知ること」の具体例を、展望編にて「処理水」の事例を交えて考えてみたい。
参考文献
1.
2.
3.
4.
余談
後編も読んでくださり、誠にありがとうございます。
結局、過激な論調になってしまった気がしますが、いかがだったでしょうか。展望編では最近物議を醸す、「処理水」について考えたいので、温和に話を進めます。どうぞ最後までお付き合いくださいませ。
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