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おいしい会。

チリトリのレジ前で、「あかりやの角谷くんと、壱岐の鰆を料理してみませんか?」
といわれたのを覚えている。


その時に、鰆は、料理の世界では、その繊細さで、どのようなアプローチをするかでまったく違うものになる。
時間、温度、表現のメモリがかなり細かい繊細な世界な気がする。
角谷くんならその細かいメモリをよく知っているんでしょうね~、、、


その会話の延長で、野菜の蕪もそんな繊細さがあるように思います。
みたいな話フワ~っっとした。


後日、鰆と野菜を持ち寄ってささやかな会を催すことになったのである。


一本釣りのサワラ

料理のアプローチや組み立ての発想には、大きく分けると二種類のアプローチがあると思う。
どこまでも広がりのある世界(文化)で、ひとつのお皿に、アイデアや、フレーバーを自由にもちよるもの。



もうひとつは、今、あるものの(食材)の中に美味しいを深く尋ねていく行為だ。


自然のものだった食材の理をこわさず、活かしきり、美味しくお皿に乗るまでの道のりを、探求する。
それは自然に、ひとつの食材としてのいのちに最大限そいたいとゆう、想いや、知恵や経験を要する。
料理するとは、時に理を料る(おしはかる、考えるの意)
ものだと語られる。
料理人とは、理を料る人だと。

多分、角谷くんは後者の人。

私は前者の人で、角谷君の世界でちょっと探求と勉強をさせてもらおうとおもった。

自然は、理が、描く世界は美しい。

芸術が自然をたずねてはじまったように、素直に。


わたしの料理の発想には(スパイスカレー)、ひとつのお皿の中に常に10ー30のフレーバー(風味や香味)や要素(文化)を盛り込んである。
この会では、3-5くらいのフレーバーや要素でどれだけ美味しいものをつくれるか。を考えることにした。主役は鰆。そして野菜である。
少ない要素で、どれだけ美味しい一皿をつくれるか。 うそがつけない仕事。

角谷くんが食材の状態をコントロールしてくれるので、わたしは、なにを出会わせるか。
切り出されたものを、火を入れてくれたものを、野菜を、ソースや副菜にして盛りつけた。

(う~ん、、、)
あらためて想いのすべてをカタチにするのは難しいということと、自分の拙さを痛感した。
けれど、食材そのものをたずねてねていくという時間そのものがとても有意義なものになりました。

この日の料理の中で、一番美味しかったのは、角谷くんの炭火の焼き鳥でした。
炭で焼くときは、火と対話しているらしいです。
カルシファーの表現って、よくできているよねーと、ひとりごとのようにつぶやいていました。


角谷くんの想いと知恵と技術のおかげで、この日

なにより、食べてくださった方たちから満足!喜び!の声をいただけてこちらも不思議に満たされた時間でした。
ありがとうございました。

いのちが終わるとき、それは不幸で悲しいことだろうか。と自分によく問います。
いのちが命へ紡がれていくとき、手渡されるとき歓びがそこにないだろうか。
料理人としては、あると信じていたい。
黒澤明の、映画、夢の中で、華々しく葬式が祭りとして描かれているが、そんな会にしてみたかった。
伊藤若冲が描く、野菜涅槃図のように。静かなユーモアと禅に。
食材と自分の感性を頼りに寄り添ってみた。
自分の憧れている芸術の世界に、決して届かなくても、にじり寄っていきたいという想いを、美しいものを生み出したい!
への執着もとりあえず。

はじめて勝本漁協で出会ったとき、たしか角谷くんは、医療機器で魚の脳髄を吸引していた。
(ぱっと見ヤバい人w)
魚の現地の処理で最新の技術を追いかけ、努力を惜しまないんだなぁ。
こういう仕事人がいるから東京の料理人は仕事ができるんだよな。と、深く了解し、感心したことを覚えている。

壱岐島で角谷くんから魚を受け取り、壱岐島で、ならではの表現ができる。
カントクがつないでくれた友情に感謝。

2023.3.31 momoにて。

角谷くんはその後、2023年3月31日で港酒場あかりやを卒業、角谷くんは魚の目利きのみならず、料理も素晴らしいので、
惜しむ声は多かったけれど、魚の仕事一本にして歩んでいく道も楽しみだ。(全国で壱岐島、角谷くんの魚をまっている)
角谷くんにしか歩めない道、振り返った時に素晴らしい道が描かれているだろう。
友人として、とても楽しみだ。


港町酒場あかりやにて。

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