見出し画像

ショートストーリー『赤いバラは殺しの香り』

  《赤いバラは殺しの香り》


「ねえ、…人を殺したこと、ある?」

他愛のない会話が途切れ、
しばらくの間(ま)の後、彼女が言った。

「……いつだったか、ずいぶん昔、
誰かを殺してどこかに埋めた。
どこかの家の庭だったような気がする。
そしてそれが見つかり警察に追われている。
……そんな夢を見たことがある。
だが、目が覚めた時、
それが夢だったことに心底ホッとした。
“よかった。まだ見つかっちゃいないんだ”ってね。
どっと冷や汗をかいていた」

俺は彼女の質問にそう答えた。

無論ホッとしたのは、
まだ発見されていないからというのではなく、
誰かを殺して埋めたということも含めて全部が夢だったからで、
イヤな夢を見たことに混乱していて、
現実と非現実の境目がわからなくなっていたのだ。
本当には誰も殺してなどいない。……多分。
だが、

「あたし、…いつかあなたに殺して欲しい」

次に彼女がそう言った時、一瞬、
「もしかして有り得なくもないか…」と思い、
少し背中が寒くなった。

彼女は深入りしてはいけない女だった。
本気で惚れると何かよからぬことが起きる。
そう思わせる魔性を秘めていた。
彼女のそんな言葉も、
その性(さが)による苦しみから逃れたい気持ちの
表れかも知れない。

彼女自身に罪はない。
自分ではどうにも出来ない運命に支配され、
その素直さ、優しさゆえに、
男たちの心を狂わせる。
彼女は今、そんな自分に気づき始めている。

「でも、そうしたらあなたは“人殺し”。やっぱり迷惑ね」

そう、彼女は常識を知っている、素敵な女なのだ。

“常識的な魔性の女”。

わかるだろうか、この謎が。
もっとも俺自身、
正直なところ彼女のことなどよくわかっていないのだ。
きっと俺以外の誰かにも、
「あなたに殺して欲しい」などと言っているのかも知れない。
そうやって男たちの心を惹きつけているのだろう。

謎めき、男どもの群がる女は、それ故に美しい。
そして、危険だ。
触れると棘(とげ)にやられる。
彼女は、真赤なバラのような女だ。

ある男にとっては、素手でそいつを引っ掴み、
しゃれたガラスの一輪差しから引き抜いて、
そこに鏡でもあればそいつに叩き付けてしまいたくもなるような、
そんな美しいバラだ。

その形容の言葉は、彼女自身が本当の意味での素直さを知り、
運命に支配されるのではなく、運命と同調した時、
もしくはそれを切り開く術を知った時に、
おそらく返上されるだろう。

だが、彼女自身それを求めているのか否か、
所詮俺にはわからないし、関係もない。
俺は単なる傍観者に過ぎないのだから。

バーを出て地上へ出ると、
新宿の夜の空気は、初冬だというのに肌に優しかった。
多少の酔いも体を温めるのを手伝っていた。
幸か不幸か、彼女を抱き寄せて歩く理由はなかった。
ただ並んだまま大通りまで来ると、俺はタクシーを止めた。

彼女一人が乗り込み、
運命の支配から脱するべく、運転手に行き先を告げた。

果たして今夜、
彼女はその黒い糸を断ち切ることが出来るだろうか。

彼女の乗ったタクシーの赤いテールライトが
他の流れに紛れてしまう前に、
俺は踵を返した。

「バイバイ、俺の大嫌いな、赤いバラ」

俺は一人、深夜の大通りを反対側へと歩き出した。


               End

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?