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ショートストーリー『禁じられた遊び』

     『禁じられた遊び』

 
         1

「ダメッ、……帰れなくなってしまう」

ホテルルーム。No.1011…。
ドアを開ける前にもう一度うしろから抱きしめた時、
今にもくずおれそうになりながら、
か細い声で彼女は言った。
オレは、ついさっきひき直したばかりの彼女の
ルージュの上にオレのくちびるを重ねた。
しかし彼女は、すぐに強い意志を取り戻し、
オレを振り切ると、ドアを開け廊下に飛び出した。
そして、一瞬立ち止まったが、
しかしもう振り返ることはしなかった。

彼女が逃げるように立ち去ると、
廊下の外れでエレベーターの動く音がして、
やがて何も聞こえなくなった。

心が、いや、体中が締め付けられる思いがし、
呼吸が勝手に大きくなり、吐く息が震えていた。
ドアを閉め、力の抜けた足取りで寝乱れたベッドに
戻ると、オレはそのまま倒れ込んだ。

ぼんやりと開けた目に映る、
窓のカーテンの隙間から覗く、
今にも消えてしまいそうな星ひとつ…。
それは、
白み始めた空にまるで抵抗しているかのように、
か弱くもしっかりと瞬いていた。


         2

彼女と再会して2年になる。
この西の街でずっと昔に愛し合い、
結婚まで考えた年上の女性。
しかし、互いの見る夢には大きな隔たりがあった。
そして別れて、オレは一人東の街へ。

それから数年が過ぎ、2年前のある夏の日、
オレは懐かしい西の街へ旅をした。
そしてたまたま立ち寄ったコーヒーショップ…。
それは偶然にも彼女の店だった。

「ここ…キミの…?」
「ええ…」
「そうか…。よかった…あの頃の夢が叶ったんだね。
 おめでとう」
「ありがとう。理想には程遠いけど…。
 あなたもがんばってるのね、たまにテレビで見るわ。
 ずっと応援してるのよ」

彼女は、まだまだ無名俳優のオレを、
今もちゃんと見ていてくれた。あの頃のように…。

愛し合いながら別れた二人。
焼け木杭には簡単に火が付いた。
以来、年に2~3度の“逢いびき”が続いている。

だが、オレのほうは今だ独り身でも、
彼女はすでに夫も子供もある身。
オレは、これはただの“遊び”なんだと割り切っていた。
それでも彼女と逢う度に、心のどこかに真剣な気持ちが
芽生えてくるのを覚え、
この関係を続けることを恐れ始めているのも本当だった。


         3

「はい、もしもし…」
「あの、…私です」

夜、オレのホテルルームにかかってきた彼女からの電話。
ゆうべ久しぶりに一夜を共にし、
早朝に彼女はベッドを抜け、
まだ眠っているオレを残して一人帰って行ったのだった。

「今朝は、ごめんなさい。
 子供の学校があるし、
 お店も開けなきゃいけなかったから…」
「うん、わかってる。
 オレのほうこそゆうべ、引き止めてしまって…。
 家のほう、大丈夫だった?」
「ええ、あの人、やっぱりいなかったし、
 …今日も帰って来ないわ、きっと」

その言葉は、
今の彼女の夫婦生活のすべてを物語っていた。
夫には、他に女がいるというのだ。
しかし彼女は、
自分自身の女としての幸せなどはとっくにあきらめ、
子供の成長のほうに幸せを見出していた。
朝早く起きて二人の子供を学校へ送り出し、
家事を済ませると、コーヒーショップの開店準備。
一人で夜まで店を切り回し、また家事に戻り、
一日の終わりは深夜になる。
そしてまた、同じ明日を待つのだ。

昔から病弱でもあった。
か細い体でそんな毎日をくり返す彼女は、
本当に幸せなのだろうか…。
オレは一体何をしてやれるのだろうか…。
だが、そんな思いも、
オレの独りよがりに過ぎないのかも知れない。
彼女の幸せや生き甲斐なんて、
所詮他人にはわかり得ない。
彼女自身が考え、感じているものなのだ。
そうだ。
オレはオレで彼女との束の間の逢瀬を楽しめばいいのだ。

そのあとオレたちは、電話で他愛のない話をした。
彼女の声音は、いつになく明るく感じられた。
オレは、それがだんだん気になり始めた。
彼女の様子はいつもと違う。どうも妙だ。
すると突然、彼女が黙り込んでしまった。

「もしもし、……ねえ、どうしたの?」
「………」
「もしもし、何かあったの?」
「………」


         4

沈黙は、やがて微かなすすり泣きに変わった。

「何か、大事な話があったんだね? 
 それで今夜、電話してきたんだね? …何?」

彼女はすすり泣くのを一生懸命こらえようとしている。

「さあ、落ち着いて…、話してくれ」
「……ごめん、…ごめんなさい。私、どうしていいか
 わからなくて……」
「うん、…どうしたの?」
「……あの、私……赤ちゃん、できたの…」

男にとって女のこの言葉は、心中どんな思いであれ、
衝撃的であることに間違いはない。

「えっ?! …も、もしかして…オレの?」
「…そう。…だって、うちの人とはもうずっと
 そういうこと、ないから…」

女にとっては喜びの極みとも言える懐妊の知らせ。
だが、彼女の声は不安と悲しみに打ち震えていた。
三ヶ月だと言う。
彼女は夫とのことから子供のことで悩み、
その上に過労がたたり、精神的にも肉体的にも
疲れ果てていた。
オレと逢うのが唯一の安らぎだと、オレの肩に頭を
もたせかけながら言っていたのも、三ヶ月前だった。

「ごめんね。言わないでおこうと思ったけど、
 …私…」
「いや、いいんだ、言ってくれて。
 キミだけの問題じゃないんだから。
 …それはオレの……、でも…」
「私、…ごめんなさい、心配しないで。私、大丈夫
 だから…。…堕ろすわ」
「そんな、だめだ!」
「どうして? …産めって言うの? 
 私だってそうしたい。
 だって、あなたの子だもの。
 …でもだめ。あなたの子だから、
 私やっぱり産めない。
 …ごめんね。
 …私、もうどうしていいかわからない!」

彼女は電話の向こうで泣き出した。
しかし、子供が眠っているからだろう、
彼女の嗚咽からは号泣さえ出来ないつらさが
伝わってきた。
オレに逢いたい、もう死んでしまいたいと
彼女は泣き続けた。

「ねえ、すぐ行く。キミのご主人に話そう。
 だから…」
「もういいの! そんなことできない……」
「とにかくすぐ行くから待ってるんだ。いいね!」

彼女が何か言う前にオレは受話器を投げつけるように
置き、部屋を飛び出した。

彼女が自殺などしないことはわかっていた。
子供をおいてそんなことが出来る女ではないのだ。
だが今、彼女はオレを必要としている。
オレは一刻も早く彼女のところへ行ってやりたかった。
エレベーターで地下の駐車場へ下りて、
自分の車に飛び乗った。
キーを差し込むのももどかしくエンジンをスタート、
タイヤを軋ませながら車を出した。
駐車場の出口から大通りへと出たその時だ。
突然目の前がパッと明るくなり、次の瞬間、
オレはまるで太陽が落ちてきたような
激しい光と衝撃の中に突入していた。


         5

それから一年が過ぎた。
しかし、
彼女の暮らしはそれまでと変わってはいなかった。
相変わらず家に寄りつかない夫。
その夫との間の二人の子供。
朝早くから夜遅くまで働き詰めの毎日の繰り返し。

結局彼女はオレの子どもは生まなかった。
「すぐ行くから」と言って、
とうとう現れなかったオレを、
そしてその後プッツリと連絡の途絶えたこのオレを、
きっと彼女は恨んだに違いない。
ひどい男だと……。
そしてオレとのことは、
やっぱりただの遊びだったんだと
思い込むことにしたに違いない。

そう…、
彼女は、あの時の事故のニュースは聞かなかったのだ。
しかし、オレはこれでよかったのだと思う。
彼女はこれで心迷うことなく、
子供たちのために一生懸命
生きてゆくことが出来るだろう。

そしてこのオレも、そんな彼女を誰はばかることなく、
すぐそばで見守ってゆくことが出来るのだ。
一年前のあのホテル…1011号室の、
窓のカーテンの隙間から見えた、
明けの空で瞬いていた星のように……。


                      ~ 終 ~

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