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新島襄旧宅を訪れたときの話。

以前、noteの別アカウントで、テキスト記事を書いていました。主に写真撮影の際のエピソードと、歴史的建造物の紹介などです。
僕は、写真撮影や絵画調作品の制作などとともに、文章を書くことも基本的には好きです。ですが「文章を定期的に投稿し続けること」が何とも億劫になり、程なくして挫折。当該のアカウントも閉じてしまいました。
今にして思えば、無理に気負うことなくマイペースで書けばよいだけのことなのですが…。
なぜか、その頃の原稿が一部、残っていましたので、今回ちょっと再掲載してみたいと思います。
群馬県安中市の新島襄旧宅を訪れたときの話(一部改訂)です。
ご笑覧いただければ幸いです。(トミウラ)

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大半の群馬県民は新島襄(1843~1890)を知っている。いや、現在は群馬県民でなくとも、学童期を群馬で過ごした人であれば知っている。

平和の使徒(つかい) 新島襄

群馬で知らない者はいないであろう郷土かるた、「上毛かるた」の読み札のこのフレーズは、口髭を蓄えた肖像画の絵札とともに多くの人の心に残っているであろう。学童期を群馬で過ごした人にとって新島襄は、たとえ「何をした人物なのかよくわからない」という人でも、名前は知っている、という人物だ。

1843年、安中藩士の子として、江戸の安中藩江戸上屋敷で生まれる。
十代の頃に聖書に触れ、21歳でアメリカに渡航しキリスト教を学ぶ。
10年を経て帰国後、布教と学校(同志社)設立に尽力する。
1890年、46歳で死去。

ごく簡潔であるが、これが新島襄の経歴だ。

安中の町で、カメラを手に新島襄の面影を辿ってみた。
(撮影は、OMDS OM-1 / M.ZUIKO DIGITAL ED 20mm F1.4 PRO [35mm換算:40mm])

新島襄旧宅。安中市指定史跡。アメリカから帰国した新島襄は故郷・安中を訪れ、両親とも再会。そのときに滞在したのが、この家である。

このときの安中滞在が、わずか3週間であったことはよく知られていると思う。そして短い滞在の後、安中を離れた襄は、同志社設立と布教にまい進することとなる。

僕は、偉人の「もしかしたら、故郷には、二度と戻らないかもしれない」というエピソードに触れると、柄にもなく、どこかセンチメンタルな気持ちになる。野口英世が上京すべく猪苗代の生家を出る際、柱に彫ったという「志を得ざれば再び此地を踏まず」なんかもそうだ。(偉人の評伝というのは色々な側面があるとは思うが、ここでは、そのあたりの話は避ける)

もっとも、襄はその後も、安中を訪れていたようだ。

ところで旧宅では管理人さんが色々と教えてくれたのだが、管理人さん、説明の際に新島襄のことを実にさりげなく「ジョー」と呼ぶ。

「ジョーが安中に着いたとき…」
「八重という女性は、ジョーにとって…」

この管理人さんの、さりげない「ジョー」が何だかカッコいい。ちなみに襄というのは本名ではない。

旧宅は、街道を外れて細い路地を入っていった住宅街の中にある。このアプローチが何ともいい雰囲気だ。

旧宅へ繋がる路地

日本基督教団安中教会。1878(明治11)年、襄の洗礼を受けた30名の求道者たちによって設立された。日本で初めて、日本人の手によって創立されたキリスト教会だ。

日本基督教団安中教会

安中には新島学園中学校・高等学校という中高一貫校がある。その名前のとおり、新島襄の理念に基づく学校であるが、襄自身が直接設立に関わったわけではなく、襄の教えに導かれた地元有志たちによって設立された。ちなみに設立は戦後(1947[昭和22]年)である。

組織的にも、同志社とは別である。同志社には、大学と同じ法人が運営する中学校、高校が、関西を中心に複数あるが、新島学園は、それらの学校とは運営する法人が異なる。

新島学園中学校・高等学校

群馬県内では新島学園はよく知られているが、全国的にはどんな感じなのだろうか?

僕は大学時代を1990年代前半の京都で過ごしたのだが(但、僕の母校は同志社大学ではない)、当時友人だった同志社の法学部の女子学生(近畿地方出身)が、僕の出身地が群馬県と知るやいなや、間髪を入れずに新島学園の話を持ち出した。

彼女にとって「群馬といえば新島学園」で、それ以外の草津温泉や伊香保温泉、あるいは出身総理大臣、はたまたBOØWYやBUCK-TICK等々は思い浮かばないようであった。「ハラダのラスク」などは、まだメジャーになる前だった。新島学園は、同志社関係の人たちの間では、おそらく全国区で知られているのだと思う。

BOØWYといえば、新島学園はギタリスト・布袋寅泰氏の母校でもある。とりわけ、教師から長髪を咎められた布袋氏が「イエス様のほうが、僕より髪が長い」と切り返したという逸話は、たぶん有名だろう。

滞在期間が短く、その後もほとんど安中に来ることはなかった襄の理念が、これほどまでにこの町に根付いているということは、やはり人間としての魅力に溢れていたからこそだろうな、と思った。(了)

作品をご覧いただきありがとうございます。コメントなどもお気軽にお寄せいただけましたら嬉しく存じます。(トミウラ)