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ねがひ[短編小説]

◎登場人物

・植上 慎(まこと):この話の主人公。根はしっかりしているが、少し面倒臭がりな一面もある。
・石野 賢三:県会議員で、かなりの豪邸に住んでいる。
・石野 夏織:慎より一歳年上で、賢三の娘さん。慎とは仲良くなり、色々と親切にしてくれるなかなかの美人さん。
・シェパード:石野家の飼い犬。人間のような名前がついている。


◎注意書き

本作品はフィクションであり、登場人物・地名・団体名などは全て架空のものであり、一切、関係ありません。
 
 

    【1】



「春日ヶ丘団地の建設反対署名に、ご協力お願いしまーす」
 ああ……まただ。
 ウンザリしながら、俺は片手に持つコンビニサンドイッチを、トマトだけ残して口に放り込んだ。
 駅の改札を抜けた通り沿いで、今日も朝から例の市民団体は頑張っていた。たすきを斜め掛けしてチラシを配るのに汗を流している。何人かの人間は、俺も顔だけ知っていた。確か俺ん家の近所に住んでる連中だ。
 ちらっ、と振り向いたのが不味かった。年配の女性と目が合ってしまう。
 彼女は目敏く俺を捉えると、
「署名、お願いしまーす」
 と叫びながら小走りでこちらにやって来て、目の前に大きなクリップボードを突き付けてきた。
「あのう、俺、出勤中で急いでるんですけど」
 俺はそう突き返したが、
「またまたぁ。学生さんってとこなんでしょ。嘘ついて逃げようったって駄目よ」
 ニヤリとした笑みを浮かべながら、俺の姿を舐めるように見えてくる。
 ああ、このオバサン、社会人は皆スーツか制服だと思ってる訳か。おめでたいな。そりゃあ、仕事だって分かっていて迷彩柄のパンツ選んできた俺も俺だけどさ。本気でムカムカ怒りが込み上げてきて、口調が自然と厳しくなる。
「本当に急いでるんだって」
「そんな事言わずに、ね、名前だけここに書いて。ねっ」
 オバサンは粘る。俺が露骨に表している嫌悪感、分かってるんじゃねぇのか?
「あのさオバサ……」
 ふと言いかけてぐっと言葉を呑み込んだ。周りに漂う変な空気に気がついて、もはや逃げられないんだと悟ってしまった。仕方なく俺は溜め息をついて、オバサンの指差す所にペンを滑らせる。
 書き終えてペンを返すと、オバサンは更に深くシワを寄せて笑った。
「有難うねぇ」
 そして何事もなかったかのように立ち去ろうとする。でも俺はどうしても一言、言っておきたくなってオバサンの肩を掴んで振り向かせた。
「あのさ、俺ん家はとっくに立ち退き命令もらってんだよ。今更イイ迷惑なんだよね」
 そう言って思い切り不快な顔を見せてやった。さすがにオバサンも言葉を失って一歩後ろに下がる。
「じゃあ俺、大邸宅でお庭弄りのお仕事があるので、失礼しますね」
 オバサンをじろっと睨み据えながら、俺は商売道具のデイパックを背負い直した。


 ……そりゃあ、確かに、団地建設はあまり歓迎したくないけどさ。
 でも決まったもんはしょうがないじゃん。
 潔く諦めて、世間はそういうもんだと割り切っちゃえば、俺ん家が立ち退き対象になったってことも、国からカネ貰って新しい家が建てられるんならまぁいっか、って思える。
 ただ──
 あの公園がなくなるのだけは、やっぱり悔しい。


 俺ん家の隣の春日ヶ丘緑地公園、通称・ハルヒ公園。
 一年を通じて花と緑に溢れて、そりゃあもう、凄く綺麗な公園。
 花といえば、四季のうちでもやはり、春。その季節になれば、やれ花見だの遠足だので客足が途絶えない。実は市内有数の名物スポットなのだ。
 俺自身も、結構気に入ってる場所だったりする。まあ、普段から仕事場がそういう類いの所だから、嫌いなはずかないって訳で。
 ──だけど、この公園がもうすぐ無くなってしまうんだ。
 今度、ここを取り壊して、でっかい団地を建設しよう……だなんて話が沸き上がって以来、この公園を巡って近所がやたらに物々しい雰囲気と言うか、とにかく毎日が落ち着かない。俺の家庭内でも、この話題が少しでも出ないなんて日はなかった。
 特に、オヤジ。
 唯でさえこの不況の煽りで仕事も減ってるってのに、貴重な大規模の仕事場が一つ潰れるとなると、もう酷く落ち込んで、仕事が碌に手につかなくなっちまって……見てるこっちも辛いんだよ。
 仕事場として、だけではない。ハルヒ公園はオヤジも俺も、小さい頃からずっと遊んできた思い出のある場所だった。
 何でも明治時代よりもずっと昔から立ってる樹があるとかないとか言われてる程、年季入ってる公園らしいのだ。その分だけ、公園内にある遊具なんかはかなり古くなって、今の時代からはちょっと遅れるところも否めない。名物スポットではあるけど、客足が年々減っているのも事実だ。
 それから古い公園はとっとと潰して住宅にする……っていうのは、やっぱり時代の流れってやつなのかな。
 もう一つ、俺の家族にはほんのちょっとだけ、この公園に所縁があるんだけども。
 でもオヤジはともかく、俺は、もうこればかりはしょうがないと思うようにした。俺達は家まで取り上げられる立場だから、そうじゃなきゃ、やってられねぇんだからさ。


 駅から徒歩十分。今日の仕事場、県会議員・石野賢三氏の豪邸に着く。コテコテの日本家屋って感じで、いかにも金持ちですっていう雰囲気がそこかしこから漂ってくる。
 『猛犬注意』と書かれたプレートの勝手口を潜り抜けた。
 個人の家の庭に手を付けるのは、やっぱりまだ慣れていない。でも一応、オヤジの看板背負ってんだから、真面目にやんないとね……
 本当は俺なんかまだペーペーだから、そこらの児童公園の樹木を弄るくらいしか任されていないのが普通なんだけど、オヤジがあんなだから、年が明けてからはオヤジの代理、いや、歴とした五代目として、お得意様のブルジョワなお宅に出入りする機会も増えてくる。何だか切ないよな。
 そんな経緯で、ここ石野家はすっかり顔馴染みになってしまった。『猛犬』シェパードも、今では俺にもなついて友達みたいな関係だ。
「ほらシェパード、トマト持ってきたぜ」
 さっきのサンドイッチの残りを差し出すと、シェパードは嬉しそうに飛び跳ねる。こいつはまだ子供犬だ。
 その時、奥から透き通るソプラノ声で呼び掛けられた。
「あ、植上さん。来てたんですか」
 振り返ると、開け放たれた縁側にすらっとして色白の女性が立っていた。
「……夏織さん」
 夏織さんはニコッと微笑む。僅かに首を傾げて、サラサラのロングヘアがふわっと風に靡いた。 彼女は石野夏織。ここん家の一人娘──つまり、ご令嬢様って訳だ。確か、俺より一歳だけ年上だったはずだ。
「こんな朝からご苦労様。暑いでしょ? すぐお茶出しますね」
「あ、お構いなく」
 そう答えて一礼すると、彼女はまた穏やかに微笑んだ。そして体を翻して部屋の奥に消えていった。さすがに身のこなしも鮮やかで、俺は思わず見とれてしまった。
 ああ、いいよなぁ、夏織さんみたいな彼女が居たらなぁ。
 心の中で密かに思ってるけど、俺なんか全然釣り合わないって分かってるから、きっと憧れだけで留めておいた方がいいんだろうな。
 ……でもやっぱり、もう少しだけ仲良くなっておきたいよなぁ。
 ぼんやり俺は庭先に目を向けた。結構雑草も目立ってきてるのに気がついた。早く仕事に取り掛からなきゃ。気を取り直して、デイパックを足元に降ろす。
 ふと見上げた空に、垣根を越えて伸びる銀杏の緑が、眩しい陽射しに綺麗に透けていた。


 大体の庭の手入れを施して、さあ帰ろうとした時、丁度玄関で夏織さんとばったり会った。薄いワンピース姿で、更に綺麗に纏められたヘアスタイルがいかにもお嬢様っぽくて、ドキッとする。
「あ、植上さん、これから帰るの?」
「ええ、夏織さんは今から学校?」
「そうよ。あっ、じゃあ駅まで一緒に行きましょ」
 うっそ、マジで。
 俺は二つ返事で了承した。駅までの退屈な道程が、まるでデートに誘われたみたいだ。やったね。
 ここぞとばかりに色々話しておこうと思った俺は、手薬煉を引いた。こういうチャンスだからこそ、何とか彼女のプライベートな話に持ち込みたかった。でも、俺の意に反して自然と話題は大学の事に誘導されていく。
「最近ね、講義がなくても学食だけ行くのよ。今日も学食ランチ」
「だからこの時間なんだね」
「植上さんも来てみる? 関係者じゃなくても入れるよ」
「あっでも俺、場に合わねぇから」
 誘ってくれるのはメチャメチャ嬉しいけど、夏織さん所の学校の敷地なんか平気で跨げる訳がないよな。夏織さんはちょっとだけ淋しそうに眉を顰めた。
「……植上さん、どうして進学しなかったの?」
「ああ、うちの兄弟、男は俺だけしかいないから。家業継がない訳にいかないしね」
「ふーん。偉いなぁ」
 夏織さんは何度も大きくかぶりを振った。
「まあ、元々ベンキョーはそんなに好きじゃなかったし。高校も、途中で辞めっちまったけど後悔はしてないよ」
「へぇ……」
 そうこうしているうちに駅に着いてしまった。ああ、もっと沢山話がしたかったのに。
「じゃあ、私はこっちだから。また来月よろしくお願いします」
「あ、ハイ、よろしくお願いします」
 恭しく頭を下げられて、俺もつられて同じようにしてしまった。その時、ふと思って、
「あ、あのぅ、夏織さん」
「はい?」
「あの、俺のこと、苗字で呼ばなくても、下の名前で──」
「えっ」
「“慎”って。“さん”付けも何か性に合わねえからさ、せっかくもう知り合って半年経つんだし、よそよそしいの、どうかな……ってさ」
 ちょっと恥ずかしくなって語尾が弱々しくなってしまう。
 すると、夏織さんは嬉しそうに顔を綻ばせて、
「そうよね! ずっと仲良くしてもらってるのに、いつまでもお客様みたいにしてるのも変だもんね。じゃあこれからもよろしくね、慎くん」
 そう言って、夏織さんは手を振りながら改札口を抜けていった。
 おお、やった!駄目モトだったけど、言ってみるもんだな。
 俺は俄然ヤル気になって、思わず拳をぎゅっと強く握り締めた。




    【2】


 夏織さんとの関係を深めるのに、時間はかからなかった。
 月に一度、庭の手入れ目的で石野邸に通う以外にも、俺達は個人的に連絡をとって会うようになっていた。
 とは言っても、俺は仕事の都合があったから、あまり大したデートみたいな事は出来なかった。その代わり、彼女が休講の日に偶然近くの公園で仕事があった時は、彼女に公園まで来てもらい、仕事の様子を見てもらったりした。
「凄いね慎くん。何か職人さんみたい」
と感心されると、俺は、
「そうじゃないよ、職人なんだってば」
と返す。
 夏織さんも、案外植物とか好きだったみたいで、秋の花咲き乱れる公園は、正に俺達には打ってつけのデートスポットだった。
 ただ、俺はどうしても今一歩彼女に踏み込むことが出来ずにいて、それは多分、夏織さんも同じだったと思う。微妙な距離感を保ったまま時は過ぎ、季節は移ろいでいく。石野邸の庭先に一際高く聳えていた銀杏の木も、すっかり落葉して淋しくなっていた。
 そんなある日、夏織さんから一本の電話がかかってくる。
『慎くん、今お仕事忙しい?』
「あ、いや……今日は臨時で休みなんだ。もう明日から年明けまで休めないからさ」
『本当? 丁度良かった。今から会えない?』
 そう言ってくる彼女の声が少しいつもと違って、元気がないように聞こえた。


 俺は駅前のカフェテラスで、いつもみたいに夏織さんを待った。
 待ち合わせ時間よりちょっとだけ遅れて現れた夏織さんは、真っ赤なロングコートに身を包んで、ヘアスタイルもバッチリきまっていた。正当派のお嬢様ファッションで、俺はさすがに気後れしてしまう。
「ごめんね、急に」
「いいけど……どうしたの?」
「あのね、慎くんにお別れを言いに来たの」
 ──お別れ!?
 俺は思わず、はっと息を呑み込んだ。
「どういうこと?」
 俯く彼女が、躊躇いながら小さく応える。
「……お父様に、留学を薦められたの。卒業まで待ってられないんだって」
 留学……そんなバカな。
 じゃあ、もうこんな風にして会うことが出来なくなっちまうのか。俺は震えそうな声を抑えて、恐る恐る問い質した。
「どちらまで……ですか」
「ロンドンなの」
「げぇっ」
 メチャメチャ遠いよ。それじゃあ多分、半永久永却的に会えなくなっちゃうかもしれない。
「だからね……凄く淋しい。もっと一緒に遊びたかったな」
 小さく洩らした夏織さんの言葉は、あまりにも切なくて、でも、どうすることも出来なくて、俺はただ奥歯を噛み締めていた。
「……たった一年だったけど、楽しかった。本当にありがとう」
 そう言って、今までもそうだったように、ニコッと優しく微笑みかけられて、俺は堪らなくなった。
 不意にその時、俺の中で一つの考えが天啓のように閃いた。
「夏織さん」
「はい」
「あのさ、俺、夏織さんに見せたいものがあるんだ」
 彼女の応えを待たず、少し強引に手を引いて店から連れ出した。


 俺達はハルヒ公園に来ていた。
 俺自身もしばらく来ていなかったから、半年前からがらりと一変した状況に、思わず目を見張ってしまう。
 入り口の向こうを覗き込むと、あちこちに黄色と黒の看板が並べれられていて、何だか物悲しさが募る。
 夏織さんに尋ねたら、彼女は一度も来たことがないと言った。意外だった。
「実はね、俺ん家、すぐそこなんだよ、さっき通ってきた道の」
 早足に通り過ぎてきた場所を顎で指し示すと、夏織さんはちょっとびっくりした様子で、喰い入るように見つめる。
「あれがそうなの? でもあそこも、工事の看板が掛ってたよ」
「そう。あの家も潰すんだ」
「ええっ」
「大丈夫。引っ越し先は決まってるから」
 俺は詳しい身の上話は後回しに、彼女を連れたまま公園の敷地に踏み入った。
 遊歩道を迂回して、公園の奥に誘い込む。やがて少し景気が開けた所までやって来て、一本ぽつんと立つ大木の前に、俺達は立った。もうほとんどの葉も枯れ落ちて、枝だけが風に靡いている。
 その時一瞬、俺は来る場所を間違えてしまったのかと思いかけた。視界に飛び込んできた巨大な幹から、以前まであった生命の輝きみたいなものが失われていることに、俺は愕然とした。
 早まる気持ちをぐっと堪えて、夏織さんに向き直った。
「これ、この公園で一番デカい桜の樹」
「桜?」
「周りに生えてるのも、ほとんど全部桜なんだ」
 そう言って見渡すと、夏織さんも同じようにぐるりと辺りに目を向けた。
「だから、こいつは言わば、桜の中のボス。ボス桜」
「ボス……ふふっ」
 ずっと表情を堅くしていた夏織さんだったが、ようやく少しだけ顔を緩ませた。ボス桜をぽんぽんと叩いてみせながら、
「実はね、この樹にはちょっとだけ物語があるんです」
 と、やや大袈裟に抑揚をつけて語り始めてみせた。夏織さんが頷くのを見届けてから、
「ここ見てみなよ」
 俺はゆっくりボス桜の幹を探って、腰の辺りに小さな目印を確認すると、指差してみせた。目を凝らしていた夏織さんも気がついて、その傷跡を左の人差し指でなぞった。
「あっ、何か彫ってある」
「これは俺のオヤジが若い頃につけた落書きさ」
「そうみたいね。この日付、1976年ってなってる」
 それは夏織さんが見つけた通りで、日付の隣にはオヤジの名前とおふくろの名前が刻まれている。
「実はな、俺、信じられないんだけどさ、この樹、何でも願い事が叶うんだって」
「えっ、本当?」
「ここに願をかけたその年に、めちゃめちゃ綺麗な花をつけたら、その願いは成就するんだってよ。アホみたいだろ。でも、俺のオヤジが神頼みしたら、桜が咲いたのと同時に見事、結ばれちゃったって話らしいんだ」
「へぇ……それって素敵じゃない」
 夏織さんがぱっと顔を明るくすると、目をキラキラさせてきた。こういう類いの話が好きなんだろうか?
「ついでにオヤジはその話を自分のオヤジ……つまり爺ちゃんから聞いたっていう訳。だから多分……」
「そうか! お爺様も同じように試したってことなのね」
 俺が大きく首を縦に振ってみせると、夏織さんは益々嬉しそうに笑ってくる。
「で、慎くんは?」
「ははっ。残念ながらまだ何もしてません」
「何だ、つまんないの……じゃあこの傷は?」
「それは俺が小さい頃、姉貴がつけた背比べの痕だよ」
「ああそう」
 少し残念そうな表情だ。何だか変に後ろめたくなって、俺は必死で話題を逸らした。
「でもさ、ホントは樹の幹に傷なんかつけたりしたらいけないんだっけ。器物破損罪とかっていうの? ま、もう10年以上も前の話だし、ちょっとの落書きなら平気だろ。よく街で落書きとかあっても誰か捕まったって聞いたことないしな」
「まあね……」
 夏織さんはしばらく幹をゆっくり確かめるようにあちこちを触っていた。そうしていると、今度は幹の根元から天井に向かってボス桜を見上げる。ずっと黙って確かめていて、やがて彼女はふっと小さく溜め息をついた。
「それにしても、何だかこの桜の樹、ちょっと元気がないみたいに見えるよね」
「あ、夏織さんも分かる? そうでしょ、俺も気になってるんだ」
 多分、ここの取り壊しが決まってからまともな手入れをしてもらってない所為なんだろうなと思う。それに、きっとボス桜自身も、引っこ抜かれるのを知ってるのかな。案外、植物っていうのはそういうことを鋭く察したりするもんなんだよね。
 俺は更に続けた。
「本当は、夏織さんに一度、こいつが花をつけた所を見てもらいたかったんだけどね」
「えっ?」
 彼女は軽く驚いて、俺の方に振り向いた。その顔を見たら突然火がついたように恥ずかしくなって、慌てて照れ隠しのつもりで笑ってみせた。
「今まで色んな花とか樹とか見せてあげたけどさ、やっぱ俺の中じゃこいつに勝てるもんはない訳よ」
「そんなにスゴイの?」
「ああ。この辺では多分一番綺麗だと思うよ。それにこいつがあったから、俺はオヤジの後を継ぐ気になったんだよね。マジな話」
 マジな話、とか言いながら、冗談めいた語り口調になってしまった事に、余計に萎縮してしまった。
「まあその、何だ? いつかこいつに手を施してやりたいなって思ってたけど、叶わなくなっちまったな」
 フォローのつもりで一言付け加えたつもりだったが、何だか益々冗談っぽくなってしまったような感じだ。でも夏織さんは、ずっと真剣に聞いてくれて、それだけで俺は救われたような想いだった。
 その後は、どういう風に過ごしたか、よく覚えていない。


 そして──
 まもなくすると、夏織さんはロンドンに渡って行った。
 俺は、急にぽっかり心に穴が空いたような、そんな気持ちを抱いていた。
 
 

  【3】


 夏織さんが発ったのとほぼ同じ頃、俺も家業の傍らで引っ越し準備を進めていた。転居までもうそろそろというある日の夕食時、オヤジ宛てに電話が掛ってきた。
「ハイ、植上です……おお、ヤっさん、明けましておめでとうございます。何、どうした……え、来週?」
 どうやら仕事の話らしい。でもオヤジ、最近元気がなくて、ここん所ずっと枝切り鋏の一つも握ってない。またどうせ『慎を行かせるから』って応えるんだろうな。そう思いながらオヤジの動向を見守った。
 すると……
「おお、そうなのか! 分かった。じゃあオレが行くよ。ヨロシク言っておいてくれ」
 と言って電話を切ると、俺に向かってニッコリ笑った。
「慎。来週の月曜日から三日連続で出てくるから、他の予定は全部任せるな」
「ええ、マジで?」
「頼んだぞ。確か杉本さん所と長谷川さん所の予定が入ってるだろ、忘れるなよ」
 何かメチャメチャやる気モードじゃん、オヤジ。急にどうしたんだろう? 呆気にとられてしまう。
 でも久しぶりにオヤジの姿が、昔憧れたカッコイイ頼れる男に見えて、俺はくすぐったいような、そんな気持ちを抱いていた。


 オヤジが突然元気になってから、我が植上家には少し前の頃の活気が戻ってきた。ほぼ時を同じくして、俺達は隣街に構えたピカピかの新居に移り、心機一転新たな生活がスタートした。
僅かな正月休みを消化した後は、今までよりいっそう輪をかけて多忙な毎日が続き、仕事に追われる中で少しずつ以前の街の思い出は薄れていく。
 最初は戸惑っていた夏織さんのいない日常にも、徐々に慣れてきて、気がついた頃にはあれから二年と少しの月日が流れていた。


 石野邸には、夏織さんがいなくなってからも仕事の為に通っていた。夏織さんの父上とは、あまり会話を交さなかったけど、それでもずっとイイお付き合いをさせてもらっていた。
 ある晴れた日の朝の事だった。この日は一段と暖かく、その柔らかな陽射しに春の気配を感じていた。庭の手入れをしていた所へ、夏織さんの父上がやって来て俺に呼びかけてくる。
「植上くん」
「はい、何ですか?」
「ちょっと頼まれてくれないかね」
「えっ」


 俺は言われるがままに駅前のロータリーに向かった。そこで20分くらいだっただろうか、ぼんやりタクシーを数えながら過ごしていると、突然視界に真っ赤なロングコートの女性が映った。改札口を抜けて、こちらに向かってくる。
 思わず俺は、息を殺して魅入ってしまった。
「慎くん、久し振り」
「夏織さん……」
 高い位置で結った長い髪に、淡いピンクの唇。以前よりぐっと大人っぽくなって、そりゃあもう、メチャメチャ綺麗になっていた。何だか、育ちの良さだけじゃない、もっと違うオーラみたいなものを纏っているように見えて、俺とのギャップが益々広がったような感じがする。
 俺なんかいつもと同じニッカズボンにスウェットっていう格好なのに、酷く申し訳ない気持ちで一杯になった。でも夏織さんはちっとも気にしない様子で、上品に微笑んでくる。
「今日は暖かいのね」
 と言って赤いコートを脱ぐと、静かに口を開いた。
「ねぇ慎くん、今から少し時間とれる?」
「え、これからですか……ま、まあ一応、大丈夫ですけど」
「そう、良かった。一緒に来てくれないかな」
 夏織さんは軽く首を傾げて、嬉しそうに目を細めた。


 彼女に付き添ってやって来たのは、あのハルヒ公園だった。
 無論今は公園の面影は全く無く、何棟もの高層マンションが整然の入り口から近未来的な造りで、こうまざまざと見せつけられると、なる程こういうのも良いもんだなと思わずにいられない。
 俺は、二年前にこの街を離れてから、もう二度とこの場所に戻ってくることはないと思っていた。こんな風になっていたんだ。改めてその変わり様に目を奪われた。
「こうやって見ると、昔ココがどういう景色だったのか、忘れちゃいそうだね」
 夏織さんがぽつりと洩らした。俺も黙って頷く。すると、
「ね、ちょっと中に入ってみない?」
「えっ、でも」
「良いじゃない、どう変わったのか確かめてみようよ」
 ええ、どうして……?
 何故か強引に手を取ってくる。その誘い方が尋常じゃない雰囲気だ。俺は彼女が何を考えているのか見当がつかず、ただ無心で首を縦に振るしかなかった。
 先を急ぐ夏織さんの背中を追って、団地の敷地内を真っ直ぐ奥へ奥へ進んでいくと、やがて大きく開けたエントランスに辿り着く。
 そこで俺の目に飛び込んできたのは──
「あっ……」
 天を貫くように大きく聳え立つ、大きな樹の幹。
 まるで燃えるように、枝全体にビッシリと、眩いばかりのピンクが咲き乱れていた。
 そして、 大樹を円状に取り囲む、青々とした芝生。二つの色のコントラストが綺麗に映えて、そこだけ切り取ったかのように美しい光景が広がっている。何事にも例えようのないくらい、見事で、素晴らしかった。
 俺は言葉を失くした。あまりにも信じられなくて、俺は何度も彼女とその樹を見比べた。
「びっくりした?」
「どうして」
「あら、聞いてないの? この樹を柵で囲む作業をしたのは、確か慎くんのお父様の筈よ」
「えっ」
 うそ、そうなの? 全然知らなかった。
 というより、どうしてそんな事まで夏織さんが知ってる訳?
 慌てて尋ねると、彼女は声を上げて笑った。
「だって慎くん、私に見せたいって言ってたじゃない」
「そ、そりゃあ言ったよ、言ったけど……」
「でしょ。だから私、ロンドンに発つ前に、お父様に相談したの。どうにかならないかなあって」
 ……ははあ、成る程。それは巧い事やるなぁ。
 多分県議を通じて自治体や建設会社に直談判でもしたんだ。さすが、庶民とはやり方が違うな。
「お父様、慎くんの仕事振りずっと見てきたから、彼の為なら出来る限り頑張ってみるって言ってくれたんだよ」
 そうか。日頃の行いっていうのはこういう場面で跳ね返ってくるもんなのかな。ちょっと嬉しくなった。まあ彼女が言うに因れば、県議の方には実の所『建設反対』よりも『桜をなくさないで』っていうような署名が結構来ていたみたいだから、取り敢えず丸く収まったって訳だ。
「でもよくこんな、一本だけ樹を残すなんて出来たもんだね」
「うん。お父様も言ってたの、この樹、かなり弱ってるから、残すのはどうかなって」
「……」
「だけど私、諦めたくなかったんだ。慎くんがこの樹にスゴイ想い入れがあるの、分かってたから」
 えっ? 分かってた?
「どういう……」
 そう言いかけた時、突然彼女は俺に向かって手招きすると、樹の裏手に回って、幹の少し凹んだ辺りを指差す。
「ほら、だってここに沢山書いてあるもの。私、見つけたのよ」
「ああ──」
 瞬間、俺は顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなって、思わず俯いてしまった。そこには細い油性ペンで書かれた小さな文字があった。
 『僕はオヤジと一緒に庭師になってやる。慎』
 『上の姉貴が大学受かりますように』
 『どうか……なくならないで下さい』
 彼女は、その文字を下から順に指し示してきた。俺は背筋が凍りつくような、妙な感触を覚える。
 それ、全部俺の文字。一番古いのは俺が小学生の頃のヤツだよ。まだ消えないで残っていたなんて。それだけでもビックリだ。
「何だか結構慎くんって可愛い所あるんだなあって」
 さすがにそう来られるとは思ってもみなかった。焦って応えた声が、裏返る。
「てゆーか、こんな誰も見つけられねぇだろうって所なのに、よく分かったよね」
「あら、おネエさんをなめてない?」
 夏織さんが意地悪っぽく微笑んだ。それがあまりにも可愛くて、鳥肌が立ってしまう。緊張に膠着して黙りこくった俺に、彼女はふっと真剣な面持ちで囁いてきた。
「本当、諦めなくて良かった。こんなに咲いてくれるなんて、慎くんも思ってなかったんじゃない?」
「………」
「これで、もし今後チャンスがあれば、慎くんもこの樹を手入れ出来るかもしれないね」
 まだ、目前に広がっている状況が夢みたいで、俺はただ息を潜めて眺めているしか出来なかった。
 と、夏織さんは俺の肩にぴったり寄って来て、小さく呟く。
「それより、慎くん」
「は、ハイ」
「慎くん、ひとつここに書き忘れてることあるでしょう」
「え、あ……何?」
 何の事だか一瞬分からなくなって、間抜けな返事をしてしまった。すると、夏織さんは軽くウインクして、肘で俺の腕を小突いた。
「分かってるくせに、そういう風に誤魔化すんだ」
 仔猫みたいな、拗ねた声で言われて、俺は益々焦燥に駆られた。変な脂汗が額に滲んでくるよ。堪らず一歩後退してしまう俺に、夏織さんは小さくはにかんだ。
「私ね、今度ここで一人暮らしすることにしたから」
「え、う、うそ……ホント?」
「そういう事で慎くん、待ってるよ。ちゃんと書きに来てね。私も書いたんだから」
 ──!!
 彼女のセリフに、俺は驚くよりも先に自然と頬が綻ぶ。
 こいつの……ボス桜の伝説は、まだしっかり生きていたんだな。嬉しくて、柄にもなく涙が出てきそうだ。
 ああ勿論だ。約束するよ、夏織さん。
 俺の心の中にも、桜は満開に咲き誇っていた──。


【ねがひ  完】
 
 

【あとがき】


 実は『ねがひ』を最初に書き上げたのは中学二年の頃で、それを元にして今回書いたのがこの作品でございます。当時のタイトルは『ねがい』でした。今では懐かしい記憶ですね。
 それで、その当時の話なのですが、話を書き終えた後、田舎の叔父さんと叔母さんが懐かしくなり実に六年ぶりに逢いに行きました。
 そこの田舎にあった木造建築だった小学校がコンクリート造りになっていて、叔父さんがよくザリガニを捕りに連れて行ってくれた沼地(池?)も埋め立てられ、アパートになっていました。
 元々は、小学校は田畑の真ん中に建っていて、自然に囲まれた所でした。ところが、今ではマンションや家々に囲まれ、当時の面影はありません。だけど、ふと見ると狭い路地が……。それは、土手に通じる近道だった。それが、なんと当時のまま残っていました。入ろうと思いましたが、すごい狭さ。この狭い路地を小学校低学年の頃の自分が走っていたのかと思うと、とても懐かしい気持ちになりました。
 この土地でも、毎年夏になるとお祭りがあって、当時はよく叔父さんと叔母さんに連れられて行ったものです。まあ、縁日に近いような感じですかね? あまり詳しくは覚えていませんが……。


 そんな懐かしい気持ちで胸いっぱい腹いっぱいのH_Itaruです。こんにちはーっ。っていうか、初めまして!ですね。
記念すべきnoteの処女作『ねがひ』を最後まで読んでいただいて、本当にありがとうございました。
学生のころは、毎日のように歌詞や小説を書いていたのですが、社会人になってからは全く書かなくなってしまいました。書けなくなったっていうのが正しいかもしれません…。
また、小説と同時に作曲なんかもしていて、音楽活動は現在も進行形です。
 プロフィールに、音楽専用で使ってるnoteのアカウントを貼っておいてあるので、そちらもぜひ覗いてみてくださいね♪

 それでは、長くなってしまったのでこの辺で。ご愛読ありがとうございました。

H_Itaru
2018.4.20.

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