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廃仏毀釈とは・・・

 2018年(平成30年)、NHKは大河ドラマ「西郷せごどん」を明治維新から150年に当たることで企画・制作をしました。明治という時代は西郷隆盛の他にも多くのヒーローが誕生しています。
明治維新という国の大変革事業はさまざまなスローガンが掲げられました。「文明開化」「富国強兵」などで、各分野においてそれまでなかった政策が進められていきました。華やかな時代の変化の影では信じられないような事実もあるのです。それが「廃仏毀釈はいぶつきしゃく」で、そのようなことがあったことを知る人は多くはないかもしれません。

 廃仏毀釈はいぶつきしゃくとは、1868年(明治元年)に出された神仏分離令によって派生した仏教への迫害・破壊行為のことです。1870年(明治3年)をピークに、1876年(明治9年)頃まで続きました。

 聖徳太子によって作られた日本初の憲法「十七条憲法」が施行されて、それ以降は神道と仏教が混じり合っていきました。祈禱きとうをし、念仏を唱え、おはらい、雨乞いもする・・・。神社とお寺が同じ境内にある。神道であるはずの天皇が出家をして、寺の住職となるというような時代が長く続いたのです。
このような宗教形態であったのが、明治維新を迎えたとき大きな転換を余儀なくされました。

明治天皇

明治政府は天皇を強力な精神的支柱としました。国民を統制する目的のためにです。そして、日本を神道国家(天皇崇拝国家)としていきます。そのため、神道と混ざり合って存在していた仏教が邪魔な存在となったのです。
政府は「神仏分離令」(神と仏を分離せよ、という法令)を出します。神社にまつられていた仏像・仏具を排斥はいせき。僧侶は還俗げんぞく(僧侶になった者が、戒律を堅持する僧侶であることを捨て、在俗者・俗人に戻る事)を迫られました。

 政府は神と仏の分離を命じたのですが、これを拡大解釈する者が現れました。また、長い期間を経過していく中で神社と寺院の関係は、仏が神を守るという上下関係が築かれて神社が寺院に支配される状態、僧侶が神官をしいたげていたのです。そして、江戸幕府の後ろ盾により寺院は地域住民を管理支配していました。農民(小作人)たちは重い年貢を収めることに大変なストレスを寺院へ持っていたのです。仏教を中心とする檀家制度のもとで、ときに寺院は怪しげな儀式を行い人々を惑わす存在になっていました。
つまり、神官たちと地域住民は僧侶に対して長年反感を燻らせていたと考えられます。

 政府は「神仏分離令」を1868年(明治元年)3月28日に布告。その四日後の4月1日に、比叡山のふもとにある日吉大社(滋賀県大津市)で宗教クーデターのような事態が起きました。

日吉大社 西本宮本殿 (wikipediaより)

 日吉大社は「日吉」「日枝」「山王」と名前のつく全国に3,800以上の神社の総本宮。崇神天皇7年(紀元前91年)創祀そうし。平安京の表鬼門(北東)にあることから、災難除けの神様として祀られていました。平安時代の僧侶最澄により比叡山延暦寺が開創されてからは、日吉大社は延暦寺の守護神と位置付けられました。
 その日、神官たち約40名と神官から雇われた農民100人が武装をして積年の恨みを晴らすかのように日吉大社へ乱入、本殿に火を放ち多くの仏像や経典を焼き払ったのです。

 日吉大社での暴動は全国に知れ渡ります。そして各地にこうした暴動が広がり、廃仏毀釈はいぶつきしゃく運動が展開していったのです。

 明治政府は仏教を弱体化させるための政策をさらに推し進めます。1872年(明治5年)、「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事 但法 用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」(今より僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事、但し法要の他は人民一般の服を着用しても苦しからず)という布告(「肉を食べる」「妻をめとる」「髪を生やす」を解禁)を出しました。これは江戸時代には寺院諸法度によって禁じられていたことを、僧侶へ一般の人々と同じ生活習慣を許可するというものです(浄土真宗は肉食妻帯を禁止していませんでした)。そして、住職の世襲も認められていきました。幕府から与えられていた特権的地位をこの布告で奪い取り、一般の人々のように戸籍登録をさせて、徴兵の義務を負わせます。葬式の時だけお寺を必要とする「葬式仏教」化していくのはこの頃から始まっているのです。

明治時代、興福寺に置かれていた破損した仏像

 日本各地へ飛び火した廃仏毀釈はいぶつきしゃく運動は、奈良や京都にもその波は押し寄せました。奈良では「文化財破壊」が激烈を極めたのです。興福寺では相当な量の宝物、文化財が破壊されました。そしてその影響は、興福寺周辺に生息していたシカもターゲットにされたのです。

白鹿に乗った武甕槌神 (鹿島立神影図)

768年(神護景雲じんごけいうん2年)に春日大社創建。その時に、祭神である武甕槌命たけみかづちのみことが鹿に乗ってやってきたと伝えられて、それ以降、シカは神の使いであると保護されてきました。しかし、鎌倉時代になると奈良のシカは「仏の使い」と変化していきます。興福寺が廃仏毀釈はいぶつきしゃくによって荒廃したと共に、シカが野放し状態になりました。後年「廃仏知事」と呼ばれる初代奈良県令の四条隆平しじょうたかとしは、シカは神仏の使いという迷信の払拭のためにシカ狩りを行いました。シカはすき焼きにされて食べられたり、馬の代わりに馬車を引かせられたのです。

四条隆平 藤野彦次郎編『明治肖像録』より

 興福寺五重塔は高さ50メートル、京都・東寺の五重塔に次いで2番目に高い塔です。巨大なこの塔は解体費用がかかることから、民間へ売却されました。当時の金額で25円(現在ではおよそ10万円程度)。五重塔の購入者は塔に使われていた金属が目当てだったそうです。塔を倒して壊そうと頂上に綱をかけて万力で引き倒そうとしました。しかし、ビクともしなかったことから、火をつけて燃やそうとします。事前に「塔を焼くので、火元に気をつけよ」と通達したところ、周辺の住民から反対されて破壊を免れたのです。

興福寺五重塔

 京都では1871年(明治4年)と翌年に出した府令によって、五山の送り火、地蔵盆、盆踊り等が禁止されました。さらに「仏教的な民間信仰」として正月の門松、ひな祭り、端午の節句、七夕も禁止。1882年(明治15年)まで送り火禁止措置は続いたのです。

 仏教は鎌倉時代から江戸時代の間、武家社会に用いられ守られながらその力を増していきました。檀家制度という江戸時代のキリシタンを禁制した制度は、町や村の社会において寺院に権威を生じさせることになりました。それは仏教が神道よりも立場が上という関係になり、僧侶が神官を虐げるという事態になっていたのです。

 キリシタン(キリスト教徒)を迫害した歴史は有名ですが、明治政府は仏教をも迫害し、文化遺産の多くが破壊され、海外へ売られて流出していったことは事実です。   
 国家権力は時として宗教を利用し、都合が悪くなれば排除しようと企てます。これは、日本に限らず世界中の国々で行われてきたという歴史があるのです。

 聖書にはこのような記述があります。

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。
【ローマ人への手紙 12章17節】



悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
【ローマ人への手紙 12章21節】

聖書 新改訳2017

 正義であられる神様が悪を裁かれる。クリスチャンはそのことを聖書を通して確信しています。だからこそ、理不尽と思えるような出来事に対しても、善を行いながら日々希望に満ちて過ごすことができるのです。

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