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ものがたり 『住み・分ける』  政治権力者(パワーエリート)に群がるモノたちの生活とその意見。

 * いっけんある物の考え方や思想がわれわれの生活を決め、それに順じて行動しているように思われている。でもじっさいは、われわれ周囲環境の生活の要因が、われわれの物の考え方や思想を決定づけている。



1. 飼いならされる野生動物

 銀河系が誕生してから、どれくらい量り切れない時がたったことでしょう。その中の隅っこの1部に、太陽がありました。またその太陽を中心として、その回りを廻っている惑星というものもありました。惑星には、子分みたいに衛星なるものが付き添っています。
 この話は、大いなる宇宙にしてみれば、塵(ちり)みたいな存在。でも、そこに住んでいるモノにとっては大きな、とても大きな存在でもあった、ひとつの惑星に住んでいるモノたちの話です。



 その頃、ヒトと呼ばれる集団が、他の生物群との長い闘いのはてに、やっとその惑星で覇権を握りました。ヒトは我がもの顔でふるまって、他の生物たちを寄せ付けません。もし他の生物がヒトに危害を与えるものなら、ヒトは怒って、集団で復讐するのでした。正義という言葉をあみだして、彼らに鉄槌を与えました。
 他の生物たちも悩んでいました。ヒトが惑星をひとり占めしていたので、端に追いやられてしまいました。食べ物をさがすために、危険な森とか水源にも立ちよらなけれなりません。それでも食べ物があればいいほうです。いつも空腹で、食べ物をさがしていました。

 らちが立たず、彼らは話しあいました。
 ここはどうだろう、食べ物がいっぱいあるところで、我がもの顔にふるまっているヒトにお世話になってみないか、という提案が出たのです。

「バカやろう、いままでさんざん奴らにひどいことされて隅っこに追いやられたのに、なんで今さらどのツラ下げて、頭下げにゃあかんのや」

「でもそんなこといっても、このままじゃ生きていけないよ。子供たちも腹すかしているし、理想だけでは生きていけない。もっと大人になろうぜ。いつまでもガキっぽくいられない」

「アホか。しっぽを振って、ゴマすって、おれたちに太鼓持ちをやれっていうのか。そんなもん、できるか」

 (現在、本職の芸を忘れて、お金の実入りがいいテレビ局でのトーク番組の司会や、ニュース番組のキャスターばかりに精を出している芸人にたいして、芸という牙をなくしていった芸人にたとえて、いう人がいます。けっしてそのことをさしていないことを銘記しておきます)



 とうとう、最後にはふたつに決裂してしまった。再び、険しいジャングルに行くもの、そしてヒトに近づくもの、それぞれ言い分がありました。これは、するどい牙を持ちながら、なんとでも言えといって、ヒトに近づいていった集団の話です。


 その一派にオオカミがいた。雄壮な彼らにも、険しい現実があった、苦しい生活事情があった。彼らはヒトに近づいて、なんとか折り合いをつけた。オオカミの闘争心と鋭い牙に目をつけたヒトは、じぶんたちの縄張りを荒らす敵から守るための番をさせて、その代わり、きちんとエサが与えることも忘れなかった。
 オオカミはヒトには従順で、ヒトに敵対する輩に敢然と立ち向かっていった。そのおかげで、ヒトから信頼され、一番の仲良しとなった。でも彼らは知っていた。ひとたびヒトに逆らうとどんな残酷な仕打ちを受けるか、知っているのだった。

 いつしか闘いの牙は小さくなった。その頃には危険なオオカミと区別するために、イヌという名がヒトから授けられた。あるいはジャングルの険しい道を選んだものからの蔑称だともいわれている。
 食べ物を安心して与えられているぶん、そのジャングルに分けいったものたちには引けめを感じていた。現在にもなっても、子孫のものたちは山の中で、ふとオオカミに出会うと、さっとわき道を通っていくとある生物学者が話していた。

 それでも血を分けた昔の仲間を思ってか、同胞をもう一度呼びかけるためか、ひとり小高い丘に登って、悲しいとも感じられる呼び声が、ときおり山の中で響きわたるのだった。


 その次に、ヒトの前にあらわれたのがイノシシだった。オオカミ同様、鋭い牙でヒトに敵愾心を持っていたけれど、食べ物を得るきびしい生活 は困難をむかえていた。やがてヒト周辺に近寄り、ヒトの食べ残りをあせり、排泄物からその栄養分を取っていた。お尻をペロペロ。ジャングルやけわしい荒野で獲物を取るより、楽なエサを得るようになった。

 彼らは考えた。どうやったらヒトの気にいれられるか。ウマみたいに耕作できないし、ヒトを乗せて走る身体も持っていない。またウシみたいに同じように力仕事も向いていないし、ミルクも出ない。
 彼らイノシシが考えるまえに、すでに運命は決まっていた。ヒトの食料になるための家畜となって、養われていた。肥えるようにたくさんエサを与えられ、得意になって、たもとを分けて荒野に行ったものたちから、ヒトと妥協して御用イノシシといわれても、なんとでも言えといって無視していた。

 その功績でヒトから、ブタと命名されて公民権と得るのだった。ただその生態から不潔なところを好み、清潔感がなくブヒブヒと声を出すのであまりヒトから好ましい対象ではなかったようだ。一度きれいに洗われたブタは、もう一度泥の中で転がりまわるといって、呆れられたそうだ。
 そしてその死をむかえるまで、たくさんの肥えるようなエサを与えられ、きれいに洗われ身を滅ぼすまで、与えられたエサを食べることだけに専念する人生を送るのだった。いちど養豚場のブタのエサを食べるところ見たことあるけど、ビールとエサを交互に与えられ、太らされている情景は異様だった。

 けれどもブタさんたちはブヒブヒいいながら、得意そうにがっついていましたね。当然イノシシの持っていた鋭い牙は必要でなく、とっくに外から見えていないし、自然につかわないもの、用がないものは退化していくのだった。


 そしてたぶん最後に、鋭い牙を持ってヒトから恐れられた集団のなかで現われたのがトラとかジャガーとかいったものだった。彼らも生活能力の困難からくる妥協の産物だった。ご存じのように、いかにヒトとつきあっていくにも、すでに住み分けはオオカミやイノシシたちに取られていたので、あとは残されたのはただひとつ。ヒトから気に入れられるには、愛玩物になるしかなかった。
 悲しい存在でも生きていくにはしようがなかった。それでもヒトからあきられないように、オオカミやイノシシとちがって手練手管が熟練していなければいけないことはもちろんだった。ネコかわいがりされる存在ともいわれた。

 おわかりのように牙もいらないし、獲物を取る大きな体もいらないので、むしろヒトより小さく可愛い存在をめざしていった。生きていくには必要不可欠なものだった。もちろんオオカミ、イノシシたち同様、ご主人様のヒトに牙をむいたり反抗したら、どんなひどい目にあうか心がけていた。



 このようにさまざまな野生の動物が、この惑星で覇権を握っているヒトとどう折り合いをつけ妥協していき、じぶんの生存権を維持していくか試されていく過程の歴史でもあった。妥協と非妥協。

 これはじつに、ヒトにぎゅうじられた野生動物ばかりではなく、同じ動物でもあるヒト社会でも例外ではなかった。むしろこの動物生態の性格はヒトにおいてけんちょに現れていたことが、ヒトの歴史やいまでも社会生活において興味深くみられるのだった。
 ヒトは何か、というときに最初に疑問に思い、もっとも身にしみて問いかける対象となった。それではあるひとつのモノにしぼって、考察してみよう。



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2. お墨付き

 この惑星のなかにヤーパンという国があった。
 この国でも他の国と同じく、宗教なるものがあった。しかしこの国ではいっぷう変わった感じで存在していた。


 宗教的なもの。若いひと、健康で元気のいい人はあまり必要でないようで、悩みのない人はなおさらそうだろう。
 先日ボクは、車が一方通行しかできない小道のわきにあったお地蔵さんに、おばあさんが供え物をして、ていねいにお願いをしているのをみました。何か悩みごと、あるいは身内親族の健康安全をねがっているとか、見ているボクにもなにかを考えさせるものでした。

 いったい神や仏をおがまなくても過ごしていけるヒトはいいだろう。でも生まれつき迫害され、不幸や災難におかされ、じぶん自身の力でどうしようもないものもある。われわれとちがって強い人はいいだろう。でもほとんどのひとが強いヒトとはかぎらない。むしろ後者のほうが圧倒的に多い。
 また強い弱いにかぎらず、心が安らげばいいこともある。災難のある場所に神仏をかざって落ちつかせるとか、交通安全のためにお札を買うとか。だからといって、お札買ったのに効き目がなかったと怒るヒトはたぶんいない。このようにさまざま庶民大衆にとって、拝んだだけで、心なごみ慰められるならけっこうなことだろう。


 しかし庶民大衆とちがって、政治権力者(パワーエリート)たちとはいったいどういうものか、宗教に対してちがった視点をもっていた。コンスタンティヌス大帝とか、アショカ王、徳川家康は宗教家ではなかった。すぐれているから、その宗教を取りいれるのではなかった。利用できるから、国民をとり込めることができるから採用したのだった。権力者は、けっしてお人好しではなかった。

 コンスタンティヌス大帝が神の予兆を見たから、キリスト教を採用したなどとはだれもが信じるはずがない。たしかにそういうことはあったかもしれない。だからといってそのまま信じたいヒトはいても、またコンスタンティヌス大帝がじっさいそうであっても政治的に好意的でなければ、受け入れるはずがない。その後統治がどうなっていくかみれば、わかることだろう。


 じつは政治権力者には個人的に、宗教をとりいれる理由があった。心の問題があった。むかしチャップリンが映画のなかで、ふつうの生活のなかでヒトを一人殺したら殺人者だが、戦争でたくさんヒトを殺したら英雄だ、などといった。
 さらに同じヒトを残虐にたくさん殺しても、戦争で負けたドイツのアウシュヴィッツ収容所は犯罪で、戦争に勝ったアメリカの原子爆弾降下は許される行為だった。戦争を終わらせるに意義あるものだったと、敗戦国のヒトビトは、18禁教育の学校で洗脳されたのだった。

 でもいくら戦いに勝てば、ものごとは正当化されるといっても、勝てば正義だとアメリカ合衆国みたいなことをいっても、やはりヒトをたくさん殺していい気持ちはしない。


 インドのアショカ王は、例にもれず苦労して、たくさんのヒトを殺して全国統一した。勝ったから、もちろん処罰されるわけもなく、負けたほうの処罰にいそがしかっただろう。負けた相手にたいして、戦争犯罪人などと、いまの政治家と同じフレーズをいっていたかもしれない。
 けれどもヒト、同じヒトを殺していい気持ちしない。頭のなかで、いろいろいいわけをしても心やすまらないこともある。宗教信者と同じく、心をやすらぐものがほしいし、それによって心を浄化したいはずだった。拝むことで浄化したかっただろう。

 それにもうひとつ、むしろこちらに方が本当のメインで、仏教を公認することで、いつの時代も悩める国民はいるのでそれを慰めるものと同時に、国民を一つにまとめるためにも国家宗教が必要だった。
 やがてコンスタンティヌス大帝と同じように、国家公認の宗教を定め、教義をまとめさせて、ひとつの宗教に国民を統一していくのだった。ほかの宗教は締め出される形になっていった。


 さらにヤーパンといわれた国でも、いわずがな徳川家康なるものが同じような宗教対策をとっていたことが知られている。仏教宗派の反抗に手を焼いた織田信長は、そのために天下統一事業が数年おくれてしまったという。
 そこで後からやってきた、かしこい家康は考えた。信仰を許すことで、反抗を許さなかった。さっきも言ったように、悩めるヒトはいつの時代もいるし、拝むことで救いを求めるものに例外はなかった。

 信仰の自由は許したけれど、いちど決めた仏教宗派は変えることは許さないで心のなかに閉じこめておくことで、キリスト教のコンスタンティヌス大帝、インドのアショカ王と同じく、ヒトビトを統一していった。
 それゆえヤーパンといわれる国では仏教国といわれても、本人も仏教徒なんだよねと思っても、親にいわれて初めて実家の宗派を知ったり、葬式のときにああそうなんだと気づくヒトがおおく見られた。


 このように信じている国民に慰めをあたえ、
 宗教団体には保護をあたえて、
 また国王たち権力者は、国民を反乱しないように心を一つにして宗教を盾にしながら、しかもじぶん自身の戦争行為を正当化して、みずからの心を浄化するのだった。


 ヒトを殺して神に祈り、神に祈りながらヒトを殺す。ヒトを殺して念仏をとなえて、念仏をとなえながらヒトを殺すのだった。


(あたかも現在の政治イデオロギーに似ていた。宗教が政治イデオロギーに変わっただけだった。キリスト教が逆立ちしているような現在の資本主義や共産主義の国家だった。宗教が政治経済のイデオロギーになっただけで、国内の締めつける統一化はどこにも変わったところはなかった。

 一度政治権力者(パワーエリート)が国家宗教を決めたら、政治イデオロギーを決めたら、進んで国民はそれに従うのだった。

 だからいまの国内の少数主義者は、むかしの宗教信者とおなじで、どこの国もカタミの狭い思いをして、国内の統一された主義【資本主義あるいは共産主義】を信じきっている国民信者から、冷たい視線を感じるのだった)




(上記のソーチャル・チェーンの中で、遺憾なと思いながら進んで自分の手足にチェーンをつけて、なるべくなら大きい組織、国家とか大会社の鎖工場で、安心安定のため縛られたい。そんな人々の生活と意見を描いています)



3. 太鼓持ち

 そしてかんじんの宗教の活躍する場面も、野生動物のテリトリーと同じように住み分けられていった。

 ここヤーパンでは古代から神聖なる山の信仰があって、祈る対象だった。そこに神社を建てたから、けっして神聖なものになったわけではなく、その山や麓に神聖なパワースポットがあったから霊験あらたかなもの、神社を作った。

 不可知な自然現象を拝んで、自然のめぐみを祈り、いまでも身体を清めたり、正月や学校受験、交通安全のために神社にお参りするのだった。拝むとなぜか身体が清められた気がして、心が安心するのだという。

 いつしか政治権力者に取り入れられ、気にいれられる存在となって、大きな神社も建てられて、第イチバンに権力者に近づいた宗教団体だった。


 次に権力者に近づいたのは、仏教なるものだった。

 新旧政治勢力の対決の道具にされ、やがて仏教が国家容認になり大きな寺を作ってもらったのに、まわりを見渡すとかんじんの活躍する場所がなかった。ご存じのように、古株の神社団体に祈願場所のテリトリーを取られてしまっていた。
 だから残るのはまだ占められていないところ、いやな場面場所だけど、そう、生死にかかわるところで葬式やお墓を仕切って、宗教団体をしのぐしかなかった。


 そして最後にこの国に近づいた宗教は、いわずもがなキリスト教だった。

 古代のやまと住民、中国、欧米。
 言葉の漢字、アルファベットにも似て押し寄せる波。明治以降の欧米の政治パワーの威光で国民に受け入れられたけど、パワーが弱いときは惨めだった、悲惨だった。
 江戸時代、権力者に取り入れられなかったので迫害され、川のそば、橋の下で、ほそぼそと暮らしているバテレンのカッパといわれるマントをはおり、鼻が高く、頭のてっぺんを剃ったクリスチャンは河童のようだった。

 だからいまキリスト教のテリトリーはいうまでもなく、神社、お寺にしのぎを取られているので、あたかもヒトに近づいた野生動物のように、あとに残されているのは猫類と同じ運命だった。
 一部の信者を除いて多くの国民のヒトビトにとって、キャピキャピした愛玩されるところに限定されていた。クリスマスにバレンタインデー、そしてハロウィ〜ン。


 それゆえ、ここヤーパンではいち時期国民の宗教意識にたいして、おおいに議論が闘わされたされたものだった。神社やお寺、教会などの宗教にたいする節操のなさが問われていた。
 とりわけ有名な文芸評論家の雑種的な宗教観、あるいは高級官僚出身で政治にも進出したヒトが言うような、いくつかの宗教をいいところ取りした宗教観がいっぱん的な意見だった。どれも当たっているように思えるのだった。

 でも国民のひとりひとりは、そんなえらいヒトたちのえらい言葉よりも実感として、おぼろげにわかっていた、じぶんなりに承知していた。
 この惑星を仕切っているヒトにも似て、野生動物に接する態度と酷似していた、おどろくほどに。


 たとえば神社のお札を思わず足で踏んだ時、あっ踏んじゃったと思い、これによってバチがあたって死ぬとは思わないし、じゃお札を踏んでみろといわれたら、べつに踏まなくたっていいじゃないか、バチがあたるぞと思う。
 さらに神社まいりをしたのに受験や交通安全に効果がなかったから、ダメだとか裁判してやるとかいわない。すなおに神や仏に祈願したり拝んでいても、こんなもんだろうと思うようなフトコロの大きな国民でもあった。

 このようにこの国ヤーパンのヒトビトは、宗教に対して鷹揚な精神を持っていた。拝むことで心が救われ、たとえ儀式でも結婚式で形ができ、葬式してお墓に入って野ざらしになるより、本人も親族も安心する。
 儀式として、割り切っっていた。たとえ深く信じていなくても天皇とかあるいは宗教にまとまることによって、国民としてアイデンティティを感じるのだった。


 このヤーパンの国民は近づいてきた野生動物に接するヒトのように、他国で宗教を信じている国民を導く権力者(パワーエリート)と同じように、宗教に対して主従関係のように、国民ひとりひとりの考えでふるまっていて、側から見たら無節操でもうまくバランスを保っていた。
 まるで無意識でも、結婚するヒト、恋人、遊ぶだけのヒトと選んでふるまっている、したたかな女性のようです。

 それに国外に進出したことがあっても、国内の反乱を取りしまっても、じぶんたちの宗教やイデオロギーを掲げて、相手国に侵略したり、国内で魔女裁判や自己反省させて粛正はしなかった。
 他国のように、キリスト教のためにイスラム教徒を排撃したり、資本主義のために共産主義を打倒するといった邪教扱いにして、海外進出のために政治利用することはなかった。国内で、公認された宗教や政治主義を柔順に従っていれば、身の安全は保てるのだった。

 一神教的なものの考えをおのずと好まなかった。ひとつの理路整然としたものに、なぜか内心まで支配されていなかった。不合理なものなのに、なぜか不自然なくまとまっていた。「不合理なるゆえに我信じる」。


 たとえばあるテレビで訪れた外国人が、この国は資本主義国なのに共産国みたいだといっていた。


 アメリカの名門大学ハーバード大、コロンビア大は私立なのに、この国では国立が仕切っている。
 アメリカのテレビ三大メジャーは民放で、こちらはNHK。
 あちらは国民健康保険はないのに、こちらは国家の国民健康保険がちゃんとあって守られています、もちろん年金もね。年金はどこの国もあるかな。さらにできれば、国家公務員になれたらいいな。

 また共産主義国ほどでもなくても、みんな仲よく和を持って協調しながら、学校や企業の制服が好ましく見えて、心地よく感じる。オカミには弱くて国宝とか国家のお墨付きをそれこそ重宝し、むしろじぶんから進んで近寄り、個人や私企業よりも、国家の威光がまぶしく感じるのだった。
 時代が変わっても情況に応じて、天皇も国民にとってそこはかとなく、先に述べたように、じぶんたち国民のアイデンティティをまとまって感じる好ましい存在となっていた。


 ねっ、おもしろい国でしょう。ヒトに近づいてくる野生動物に対するように、宗教も、政治イデオロギーの資本主義や共産主義にも、万事こんな調子なんです。



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