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好きな偉人の話

だいぶ前の話になるが自民党総裁選挙まえの菅氏、岸田氏、石破氏での
共同記者会見で尊敬する偉人についての質問があった。

この質問を僕はライブで見ていて、非常に面白い質問だと思った。
それはエンターテイメントとしての面白さではなく
総理大臣として、あるいは人としてこのような人でありたいという考えを
知ることができるからだ。

で今回は僕の好きな偉人である徳川慶喜のことを書きたい。

どのような人物だったのか

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徳川慶喜は徳川家の将軍の中でも有名な方であり多くの人が知っていると思う(多分)
なぜ有名なのかと言えば江戸幕府最後の将軍であるからだ。

そんな徳川慶喜は1837年(天保9年)に水戸藩第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれた。
水戸徳川家(水戸藩)は“天下の副将軍”と呼ばれる御三家の一つである。

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そして徳川慶喜は水戸藩校弘道館で水戸学を学びながら育った。

そして少し話が飛ぶが1947年慶喜(七郎麿)は一橋家の当主となった。
一橋家の当主になったことで慶喜は次の将軍候補になる

その後黒船が来るのだがこの時慶喜は開港には反対はしないものの朝廷の許可を得て外交を行うべきという考えを持っていたようだ。
しかしその時大老だった井伊直弼は朝廷の許可を得ずにに日米修好条約を調印してしまう

またその後井伊直弼は独断で徳川慶福を将軍世嗣とすることを発表した。
その後井伊直弼が桜田門外ノ変で死亡し、
次の将軍は諸藩の評価も高かった慶喜になる。
また慶喜は諸外国の情勢から日本も欧米の植民地になるのではないかという危機感を強く持っていたようだ。そのため慶喜は国内で争いをすることは国力の低下につながり、欧米列強に負けてしまうという思いがあったという。

慶喜政権は朝廷との密接な連携が特徴であった。
その頃薩長武力倒幕路線に進むことを予期した慶喜は慶応3年(1867年)10月14日、政権返上を明治天皇に奏上し、翌日勅許された。

その時慶喜は朝廷に政権を返上したものの朝廷の政権でも徳川家が中心となって政治をすることを考えていたようだ。

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しかし実際は薩長藩らが新政府に慶喜を加えなかった。

その後戊辰戦争で慶喜は新政府軍と戦い、朝敵となり、徳川家の政権は終わった。

そしてその後慶喜は政治には全く関わらなかった。

潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/徳川慶喜#余生

徳川慶喜の尊敬するところ

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徳川慶喜は明治以降政治にに全くと言っていいほど影響を出していない。

慶喜は日本の将軍としてできるだけ国内での内戦が国力の低下につながり、
国民が苦しむことを危惧したのではないだろうか。
そのためさまざまな決断ができたのだろう。

僕は慶喜の日本のために尽くしたことが素晴らしいというよりは、
国のトップが一番守るべきものを徳川家の地位・自分の地位、権力と交換してくれたような気がしてそれが非常に素晴らしいと思うし尊敬できる。

僕が何かのリーダーになることはそんなに無いと思うが自分をただ優先するのではなく、その組織の「人」を守るという考え方(もしかしたら慶喜はそんなこと思ってないかもしれないけど)は僕も見習いたい。


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