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「繋ぐ」ということ

これまでも梅について何か自分にできることはないか、ってずっとずっと考えてきた。

物心ついた時から鹿児島のおじいちゃんおばあちゃんのお手伝いで梅拾い。。。いや、お手伝いなんて可愛いもんじゃない。

それはもう過酷で修行?鍛錬?もはや、罰ゲームじゃないかと思うほどの肉体労働で、この時代にこんな効率の悪い仕事はあるのかと疑問しか出てこなかった。

毎年6月初旬から収穫時期の1カ月、毎朝毎夕梅拾い。完熟梅のみを取り扱う西郷梅は、傷が付かないように、除草していない草の上にネットを張り、そこに落ちた梅を、ただひたすらウサギ歩きをして、ひとつひとつを素手で拾う。

完熟した梅の爽やかで芳醇ななんとも言えない香りと朝露でキラキラ反射する光が畑を包む。

おじいちゃん、おばあちゃん、母、私。

トン単位の梅を4人で拾う。ひたすらに。

拾い終わった箇所には熟れた梅が「ぼとん」と音を立てて落ちる。戻って拾うか拾わないか、永遠のループのような気さえしていたものだ。

どんなに効率化を考えて提案しても、首を縦に振らないおじいちゃん。

あれから相当な時が流れて、おじいちゃんとおばあちゃんがこの世を去った今でも、全く同じやり方で梅を育て、ひとつひとつの粒をこの足と手で拾っている。

無口で不器用なおじいちゃんが言葉にはしなかった大切な想い。家族みんなで大事にしてきたやり方。

機械化が進む中、西郷梅は「手」から人の「手」に渡る。

いや、渡ってない。渡っていないのだ。

だから、私が人の手に渡すんだ。

おじいちゃんの想いを繋ぐんだ。

おじいちゃんが守ってきた梅が父の代に、そしてカタチを変えずに私がそれを改めて考える節目にきた。

私ができることは何か。

さぁ、梅を人の「手」に届ける旅に出発しよう。

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