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「あなたの全部を愛してる」vs「あなたのここが素晴らしいから愛してる」

こんにちは、とこのめです。

突然ですがあなたは、

「あなたの全部を愛してる」
と言われるのと、

「あなたのここが素晴らしいから愛してる」
と言われるの、

どっちが嬉しいですか?
どっちが愛を感じますか?
自由を感じますか?

僕は圧倒的に前者でした。

「でした」というのはつまり今は厳密には違うってことですが。

なぜかというと、
後者だと刹那的だと思っていたからです。

例えば、
「あなたの筋肉が好き」と言われたとしましょう。

じゃあそれって衰えたら好きじゃなくなるってコト・・・?
ってなりませんか?

理由がある愛。
価値があるから愛する愛。
意味があるから愛する愛。

総じて「条件付きの愛」と僕は呼んでいますが、
それらの愛は「限定的」なんです。

お金持ちだから好き
→リストラされたら?経営失敗したら?

背が高いから好き
→爺さんになって背骨が曲がったら?

優しいから好き
→機嫌を悪くしたらアウト?

それらって、
「いつか終わる(かもしれない)愛」なわけです。
それって「刹那的」ですよね?

巨乳が好き
→垂れるで?

若い子が好き
→老いるで?

アイドルだから好き
→卒業するで?

みたいな。

それに対して
「あなたの全部を愛してる」だと、
それは「永久的」なわけです。

それは「永遠の愛」である、と。

だから僕は
「価値あるもの」を欲しながらも、
「価値あるもの」を認め切れないでいました。

「価値があろうとなかろうと存在する価値」
に最も重い価値を置いていたのです。

「意味ある」ってことに
「意味がそんなにない」と感じていたんです。

だって、
万物は流転するから。

諸行無常だから。
変わらないものはないから。
一期一会だから。

意味があったって、

それっていっときだけのコトだよね?と。

虚無感ですね。

何かを手に入れてもむなしい。

そんな風に感じていました。

命の儚さを嘆きまくっていました。

大好きなラーメン屋が軒並み閉店したりして、
「なんてこの世は切ないのだ」とか言ってました。

桜が散るのが切なすぎて悲しかったです。

たくさんのものを手に入れても、
まぁ確かに幸せなんだけども、と。

おそらく「成功」しても気持ちが満ち切らない人は、
僕と同じような経験をした人もいるかもしれませんね。

まぁ僕の場合はこの時

「人生に意味がなくても幸せ」
という領域だったわけなので、

「人生に意味がないから不幸」
な人たちとはちょっと毛色が違ったわけですが。

桜もラーメンも、
その存在が愛おしすぎるがゆえに、
つまりは幸せな存在すぎるがゆえに、
僕は虚しかったわけですから。

多分一般的にありがちな不幸は
「手に入れても手に入れても幸せになれない」
とかだと思います。

キャバクラでお金をバラまくおじさんとかで多いのは、
「愛されると思って成功したし、
お金を払いまくるけどなんか愛されない」
みたいな人たちだと耳にしたことがあります。

寂しい人たちだ、と。

寂しいと虚しいは厳密には違うわけです。

そんな人たちとは違って僕は
「愛されてるかどうか」で言うと、

愛されていたので幸せで
寂しくはなかったわけですが、

「存在して欲しいものが
ちゃんとは存在しない(と感じる)」

もしくは

「存在してもその存在が盤石に
信頼できるほど永久には存在しない」

という意味では同じだったわけです。

「愛される」ということだけでは不十分だ。
と当時の僕は感じていました。

ちゃんと満ちるには
「愛すること」が必要だ、と。

そこに「充実」があるのだ、と。

僕は欲張りなので、

「あなたの全部を愛してる」

も、

「あなたのここを愛してる」

も、両方同時に欲しかったのです。

例えば、

「イケメンじゃなくても愛してる。
けど、こんなにイケメン」

と言われる領域の中で生きたかったわけです。

そうすれば、
「信頼できる価値が盤石に存在する」
ことになりますよね?

「全部」も「部分」も
両方が同時に手に入る社会の中で
生きることを目指したわけです。

社会。

僕はそれを
「自分が選び取った環境」
のことだと思っています。

「領域」と同じ言葉だと思っています。

多くの人は「社会」があると思っているでしょう。

なんかこう、
常識的な何かが普遍的に存在するイメージ
を持っている人もいるのではないかと思います。

だから
「そんなことすると社会で受け入れられない」
みたいなセリフが出てくるのだと思います。

でも実は、人間は「身の回りの常識」
から抜け出すことは出来ず、
「自分の思う社会」しかこの世には存在しません。

だから、
「常識を拡大する」
ということが
「世界(社会)を広げる」
ということに他なりません。

今僕は
「イケメンと言ってくれる彼女たちとだけ付き合ってる」
わけですが。

それは僕の常識(社会)が変わったからです。

昔は
「イケメンじゃないかもしれないけど愛してる」
と言われていました。

今は
「イケメンだよ」
と言ってくれる子たちばかりです。

それは「僕が生きる領域を変えたから」です。

でもそうすることで見えなくなったものがあります。

それは
「イケメンじゃない僕を愛してるかどうか確認できない」
ということです。

「永遠の愛」を感じる機会を失ったんです。

でも今の僕は
「イケメンだから愛してくれているけど、
きっとイケメンじゃなくなっても愛してくれるだろう」
と信じています。

確信しています。
要するに、そんなこと気にしてないわけです。

本当に信じていたら、特に意識にのぼらないのです。

「部分的な愛(理由・意味・価値のある愛)」
が「刹那的」であるという感覚ももうありません。

僕はずっとイケメンです。

ずっとイケメンと言ってくれる人たちに囲まれ続けるから。

お金でも同じような想いを抱いていました。

「お金目当てで愛されても意味がない」
と思って、「お金持ち」になることに
抵抗を持っていました。

「金を持ってなくても愛してよ」
と思っていました。

でも今は
「お金でも幸せにしてくれてるから愛してる」
と言われても嬉しいと思えるようになりました。

そう、

「永遠の愛」と
「刹那的な愛(価値ある愛)」
の統合に成功したのです。

『僕は「永遠」と「完璧
(価値・意味ある愛)」
の融合により、
仮想の質量を押し出した』

のだと思っています笑

「自分には愛せる部分しかない」
「自分には多大なる揺るがない価値しかない」
「自分には愛される意味しかない」

「愛だけがある」

そんな「領域」を僕は
「正真正銘幸せだ」と感じています。

僕は「不幸」も経験したし、
「幸せと解釈できなくもない現実」
も経験してきました。

だからこそ、その乗り越え方も知っています。

もし「幸せが何かわからない」と悩んでいる人がいれば、
参考になれば嬉しいです。

ではまた。

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