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#036 「小説の変遷」で気になるところ

坪内逍遥の『小説神髄』を、第1章に当たる「小説の変遷」まで読みましたが、ここで一度、気になる点と、不満な点をまとめておこうと思います!

まず、気になる点としては…

「逍遥は、儒教をどう思っていたのか?」ですね!

この点について最初に気になったのは、神代史の説明をしている時です。逍遥は、まるで「信仰」や「祈り」などの言葉を避けるかのようにして神代史の隆盛について説明します。特に詩歌などは、その隆盛を述べる時、宗教との関連を抜きにして語るのは難しいと思うのですが、全くと言っていいほど、「詩歌と祈りの関係」については述べません。

逍遥は、1859(安政6)年5月22日、美濃国賀茂郡太田村(現在の岐阜県美濃加茂市)の尾張藩代官役所宅において誕生しました。父親の坪内平右衛門信之は代官所の手代、母親のミチは尾張国の酒造家の長女でした。

つまり、ボンボンですね!w

1869(明治2)年、逍遥が10歳の頃、家族は名古屋郊外上笹島村の実家に帰り、父から漢学を学び、寺子屋に入り、秋頃から歌舞伎に夢中になり、貸本屋「大惣」を利用して滝沢馬琴などの江戸文芸に親しみました。

この頃、儒学の素養も身につけていたに違いないと思うのですが…

しかし、「小説の変遷」の最後で、

馬琴を本尊とし、あるひは春水に心酔し、あるひは種彦を師とし崇めてその糟粕をばなむることなく、断乎として陳套手段を脱し、我が物語を改良し…

と述べているように、まるで幼き日の自分を否定するかのように、『小説神髄』は、これまでの勧善懲悪の物語から脱する事を促します。

勧善懲悪は儒教などを下地にした道徳思想で、これを否定するところから『小説神髄』は始まるためか、宗教的言及を避けている印象があるんですよね。

明治の2大ベストセラー啓蒙書といえば、福沢諭吉(1835-1901)の『学問のすゝめ』(1872-1876)と、中村正直(1832-1891)の『西国立志編』(1871)ですが、この2つの書物の有名な一文といえば、

天は人の上に人を作らず

天は自ら助くる者を助く

ですよ!w

『小説神髄』(1885)だって、小説の新たな道を開くための書物なわけですから

天が人に情を備えたりしこと是れ小説のはじまりなり

なんていう一文をドン!と出してから始めたっていいじゃないですか!w

でも、「天」を主語にした文章なんて、全然出てこないんですよね…

この福沢諭吉・中村正直と坪内逍遥の比較で言えば、前者は留学経験があるけれども、逍遥は留学経験がないんですよね…

それにも関わらず、これまでの儒教的教育を否定するのは、何か大きな出来事でもあったのでしょうか…

だからこそ、気になるのは…

「逍遥の英文学研究において、留学経験がないことはコンプレックスにならなかったのか?」

それと

「当時の日本には、どれくらいの洋書があったのか?」なんですよね!

「小説の変遷」内においても、エドマンド・スペンサー(1552-1599)、ジョン・バニヤン(1628-1688)、ウォルター・スコット(1771-1832)、トーマス・マコーリー(1800-1859)、エドワード・ブルワー=リットン(1803-1873)、アレクサンドル・デュマ(1802-1870)、ジョージ・エリオット(1819-1880)など、イギリスの作家を中心とした多数の外国文学が出てきますが、これらの作品は、日本のどこに、どれくらいあったんでしょうね…

ほかにも、気になる点があるのですが…

それは、また明日、近代でお会いしましょう!



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