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#056 小説脚色の法則

坪内逍遥は『小説神髄』の下巻で、「文体論」のあと、第2章に当たるところで「小説脚色の法則」と題する文章を書いています。

およそ小説は作者が架空の想像に成るものなり。故にその趣向を設くるに当りて些[チト]も原則のなきに於ては、一向[ヒタスラ]写真を主眼として、孟浪[モウロウ]思ひを構ふるまま、前後錯乱して脚色[スジ]整はず、事序繽紛[ジジョヒンプン]として情通ぜず、出来事あまりに繁に過ぎて為に因果の関係の察しがたき事もあるべく、人物あまりに数多くして為に終結[オサマリ]のつかぬこともあるべし。故にあらかじめ法度[ホウド]を設けてその脚色[キャクシキ]を構ふること勿論肝要なる事なりかし。

この出だしを読む限り、下巻の第1章は、この「小説脚色の法則」にした方が良かったような気がするのですが…w

小説を綴るに当りて最もゆるかせにすべからざることは、脈絡通徹といふ事なり。脈絡通徹とは編中の事物巨細[コサイ]となく互ひに脈絡を相通じて、相隔離せざるをいふなり。例へば、実録、紀行等にてはその篇中にしるせる事、元来つくり物にあらざる故、一回毎に一巻毎に、新らしき事物こもごも現はれ、物語の筋の転換すること猶ほ走り行く車の上にて四方の景色を観るが如し。さるからに、前段の事柄は中途にして立消[タチギエ]となり、再びその結果を説出[トキイダ]すべき約束もなうして、他の因縁なき事柄の物語に遷[ウツ]り、又は前回の人物はいかが成り行きしか詳しくは説きは尽くさで、更に他の人に及ぶなど、通篇脈絡離々[リリ]として関係きはめて疎漏[ソロウ]なれども、小説にては之れと異なり、首尾常に照応せざるべからず。前後かならず関係なかるべからず。若し本[モト]と末と聯絡[レンラク]なく、原因と結果と関係なくんば、之れを小説といふ可[ベカ]らず。ただありのままに世上の事実を筆にまかせて、書記[カキシル]せる実録に似て実録ならざる異[ケ]しき仮作[ツクリ]話といはまくのみ。

あまりにもバカ丁寧な説明のため、長々と引用してしまいましたw

でも、だからこそ、未来の小説家へのHOW TOを記した下巻には、この「小説脚色の法則」こそ、第1章に相応しいのではないかと思ったのです!

このあと、ちゃんと、

我が幼稚なる後進者流の向後[コウゴ]の便利に供するため、次第に細則をも弁明せむ。

と言っているんですからね!

で、その「細則」の話を始める前に、逍遥は、「快活小説[コメヂイ]」と「悲哀小説[トラゼヂイ]」との区別を話し始めます。

脚色[キャクシキ]を論ずるに臨みて、まづ第一に弁ずべきは、コメヂイとトラゼヂイとの区別是れなり。……快活小説にてはその篇中の主公[シュコウ]となるもの大団円の場にいたりて身恙[ツツガ]なく栄ゆれども、悲哀小説は之れと異なり、その結局に近づくころその篇中の主人公がはかなき最期を遂[トグ]る由をその趣向とはなすものなり。

で、なぜ、法則を述べる前に、この話を始めたのか、なのですが…

それは、また明日、近代でお会いしましょう!

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