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#312 『小説総論』のビッグバン

二葉亭四迷は、「種々雑多な現象の中にてその自然の情態を直接感得するものが小説である」と定義します。そして、直接感得したものは、直接伝える必要があり、それには「摸写」が適していると言います。

摸写といえることは実相を仮りて虚相を写し出すということなり。

微妙に納得しづらい定義だなぁと感じてしまいます。「虚相を仮りて実相を写し出すこと」なら、納得できるのですが…。だって、我々は、脳でもって築き上げた虚相で実相を理解しているのですから、真の実相なんて感得することはできないわけです…。四迷は、摸写小説の目的を次のように書きます。

実相界にある諸現象には自然の意なきにあらねど、夫の偶然の形に蔽われて判然とは解らぬものなり。小説に摸写せし現象も勿論偶然のものには相違なけれど、言葉の言廻し脚色の摸様によりて此偶然の形の中に明白に自然の意を写し出さんこと、是れ摸写小説の目的とする所なり。

「現実」は「偶然」に覆われていて、「本質」を見出すことは難しい。しかも、脳を経由した「虚相」でもってしか、「現実」を感得することができないのならば、「小説」という表現で写し出すためにやるべきことは、「言葉の言廻し」や「脚色の模様」である、と。

って解釈したのですけど、合ってますかね?w

で、ここで、再び遡ってみます!

偶然の中に於て自然を穿鑿し種々の中に於て一致を穿鑿するは、性質の需要とて人間にはなくて叶わぬものなり。穿鑿といえど為方しかたに両様あり。一は智識を以て理会する学問上の穿鑿、一は感情を以て感得する美術上の穿鑿是なり。

こうして逆から読んでみると、「偶然の中の自然」という表現は、「複雑に絡み合う諸現象を解きほぐした後の個々の本質」という意味で使っているように思われます。で、これを詮索する方法には、知識による学問上の詮索と、感情による美術上の詮索の二つがあるわけです。「摸写小説」は後者になりますね!

で、さらに遡ってみます!

実際にある某の事某の物の中に某の意全く見われたりと思うべからず。某の事物には各其特有の形状備りあれば、某の意も之が為に隠蔽せらるる所ありて明白に見われがたし。

とにかく、「偶然の中の自然」を「摸写」しようにも、各々の事物の形状が、事物の本質を覆っているため捉え難いのである、と。

で、その「形状」とは何なのか。さらに遡ります!

形とは物なり。物動いて事を生ず。されば事も亦形なり。意物に見あらわれし者、之を物の持前という。物質の和合也。其事に見われしもの之を事の持前というに、事の持前は猶物の持前の如く、是亦形を成す所以のものなり。火の形に熱の意あれば水の形にも冷の意あり。

「形状」を知るとは、「視覚」的意識の働きであり、その「形状」に内包されている「本質」を知るためには、「五感」すべてを使って「情報処理の全方位」から探る必要があり、言うなれば、それが「本質」を探る上での人間の限界でもあります。なぜならば、人間が備わえていない感覚でしか知ることができない「形状に内包されている本質の一要素」があるはずだからです。しかし、それを知ることはできない。ただ、いや、だからこそ、ここで重視すべきなのは、「可能な限り、感覚のすべてでもって得た形状の性質を、互いに連関させ、重層的に把握すること」であるのです。

だからこそ、四迷は、はじめに、こんな言葉で『小説総論』を始めたのです!

凡そ形(フホーム)あれば茲に意(アイデア)あり。

ということで、このつづきは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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