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#060 主人公とは何ぞや!

坪内逍遥は『小説神髄』の第4章に当たるところで「主人公の設置」について述べています。

主人公とは何ぞや。小説中の眼目となる人物是れなり。或ひは之れを本尊と命[ナヅ]くるも可なり。主人公の員数[カズ]には定限なし。唯一個[ヒトリ]なるもあり、二個[フタリ]以上なるものあり。されど主人公の無きことはなし。……小説を読むに当りては、その後回[コウカイ]の脚色[シクミ]の如何を問ふよりは、寧ろまづ主公の性質に注意するを常とする者なり。若[モ]し小説の主公にして非凡異常の人質[ヒトガラ]なりせば、読者[ヨムモノ]おのづから之れを景慕し、その将来の成り行きをも十分得[エ]知らまく望むは常なり。故に脚色を巧妙に物する事の外に、読者の注意を促すべき卓越非凡の本尊を設け置くこと必要なり。

脚色の法則のところでも感じていたのですが、「作者への提言」と「読者への助言」が、ごっちゃに述べられている時がありますよね。章立ての段階で、「作者へ」「読者へ」と、訴えかける対象を分けて書いたほうが読みやすかったのではないかと感じる時があります。

才色兼備にして且つ善良なる人物を常に主人公となすを要せず。若しただ読者を感動して非常の注意を促すべき非凡の資格を有したらむには、醜悪奸邪[シュウアクカンジャ]の人物といへども得て主人公となすべきなり。……醜悪奸邪の主公を立つるは敢[アエ]て妨げずといひたれども、奸邪の主公を設けし時には、成るべく之れに照対[ショウタイ]する良主人公を作るを要す。

このあと、逍遥は「主人公の設置」というタイトルらしく、主人公を作り設ける方法を分類します。

主公を造作するに二流派あり。一[イツ]を現実派と称し、一を理想派と称す。所謂現実派は、現に在る人を主公とするにあり。現に在る人を主公とするとは、現在社会にありふれたる人の性質を基本として、仮空の人物をつくることなり。……所謂理想派は之れに異なり。人間社会にあるべきやうなる人の人質を土台として仮空の人物を作る者なり。

で、理想派を作るにも、ふたつの方法があるようで…

所謂先天法(演繹法)と後天法(帰納法)となり。先天法とは、已[スデ]に定断せる理想上の性質をば仔細に分析解剖して、以て篇中にあらはれたる主公の性質を造ることなり。……先天法をば決して非とするにはあらぬものから、唯[タダ]この法もて(時代小説を綴るに当りて)歴史上に已に名を知られし人物をば作るは甚だ不可なる事なり。……後天法(帰納)は前とおなじからず。作者が想像の力もて、この人界にあるべきやうなる種々の性質をば選り集めて、程よく之れを調合して、以て人物を造るの法なり。

現実派はありのままの人情を写すことを主とするため、完美完善の標準を設定する必要がないけれども、理想派はあらかじめ作者の独断で美醜や善悪の標準を作り設けておく必要があります。

逍遥は、現実派と理想派を次のように例えます。

現実派は人間の形を画[エガ]く画工の如く、理想派は天人を画く画工のごとし。人間の形を描き得るものはあまたあれども、画き得て神[シン]に入りたるものは尠[スクナ]し。天人を画き得るものは尠けれども、或ひは画き得て人を感ぜしむる者も多かるべし。

というところで、このあとは、『小説神髄』の最終章に当たる「叙事法」に入るわけですが…

それは、また明日、近代でお会いしましょう!

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