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#147 ちょっとだけ時刻の話

面白い話にも関わらず、常識がズレてしまったため、なかなか醍醐味が伝わらない話というものがあります。

その代表例が、落語の「時そば」でしょう。

ある冬の深夜、男が通りすがりの屋台のそば屋を呼び止めます。男は、ちくわ入りのかけそばを注文します。その後、男は、屋台の看板を褒めたり割り箸を褒めたり、器や汁や、麺の細さや、厚く切ったちくわなどを褒めまくります。食べ終わり、主人から勘定は十六文だと言われます。男は、「細かい銭しか持ってないから、手を出してくれ」と言います。男はテンポよく銭を乗せていきます。「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ」と、ここで、「いま、なんどきだい?」と時刻を尋ねます。主人が「ここのつ(九つ)でさあ」と答えると、間髪入れず、「とお、じゅういち、じゅうに…」と16まで数え上げ、すぐさま店を去ります。一文ごまかしたんですね!これを見ていた別の男、「うまいこと、やりやがる!」と、翌日、真似してみることにしました。勇んで早めに乗り出し、そば屋を呼び止めますが、割り箸は誰かが使ったもの、器は欠けており、汁は辛すぎ、とにかく褒めるところが一つもない!いよいよ、勘定というところで、同じ手口を真似します。「ひい、ふう、みい……なな、やあ……いま、なんどきだい?」「へい、よつ(四つ)でさあ」「いつ、むう、なな…」となり、蕎麦はまずいわ、勘定は余計に払うわ、踏んだり蹴ったりのオチという話です。

時刻の知らせは、室町時代後半から、12時に、鐘を9つ打つのが決まりで、それから2時間おきに8つ7つと減って、4つまでいったところで、また9つに戻って12時間というものでした。これは中国の陰陽の影響で、9が縁起の良い数字と考えられていたからのようです。8つ、7つと数が減っていくのは、9の倍数(18、27、36…)の2桁より上の数字を省略しているためです。ということで、間食の時刻は、「おやつ(八つ)」なわけですね!「六つ」だけは、朝の6時も夕方の6時も、ともに生活活動の時間範囲内だったため、区別するために、「明六つ[アケムツ]」「暮六つ[クレムツ]」と言い分けてました。

つまり、「時そば」の場合、「9つ(午前12時頃)」の前が「4つ(午後10時頃)」なわけで、だから、早めに乗り出した男は損をしたという、当時の時刻の常識を知らないと、オチ(サゲ)の醍醐味が伝わらないわけです。

もうひとつ、時刻の読み方がありまして、主に武士は時刻に辰刻法[シンコクホウ]を用いました。これは一日の始まりである午前0時を起点にして、2時間おきに干支の十二支を当てるというものです。前後2時間の幅を持っており、始まりを初刻[ショコク]、中間を正刻[セイコク]と呼びまして、例えば、真夜中の12時は「子の正刻」、その一時間前の23時が「子の初刻」となります。なので、お昼の12時は、「午の正刻」つまり「正午」となるわけです。

で、2時間おきでは不便なため、1時間で刻む時は「半刻」を用いました。「暮六つ半」となれば、午後七時なわけです。ちょっとややこしい言い方をすると、「丑の初刻」は「九つ半」となるわけです。

西洋式の時法が導入されたのは、新暦に切り替わる1873年(明治6)年1月1日のことです。1884(明治17)年の国際子午線会議で、グリニッジ天文台を通る子午線を経度の基本とし、そこから経度が15度ずつ隔たる毎に1時間ずつ時差を持つ時刻を各国で使用することが決まり、日本もこれを受けて、1886(明治19)年に東経135度の子午線の時を日本標準時とすることを制定し、1888(明治21)年1月1日から実施となりました。兵庫県明石市に「子午線標識」が建てられたのは、1910(明治43)年のことです。

ということで、再び、『当世書生気質』へと戻りたいのですが…

それはまた明日、近代でお会いしましょう!


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