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#308 形は偶然、意は自然

では今日も、昨日に引き続き、二葉亭四迷の『小説総論』を読んでいきたいと思います。四迷は、「形・フォーム」と「意・アイデア」の相関関係から説き始めます。「形」は「意」あってものであり、「意」は「形」あってのものである。しかし、「意」は「形」になる前の「おのれのうち」からあるもので、ゆえに「おのれのため」という目的を、この相関関係に差し挟むと、「意・アイデア」の階層は一段深まり、ゆえに「形の意」ではなく「意の形」をいうべきであると。

形とは物なり。物動いて事を生ず。されば事も亦形なり。意物に見[アラ]われし者、之を物の持前という。物質の和合也。其事に見われしもの之を事の持前というに、事の持前は猶物の持前の如く、是亦形を成す所以のものなり。火の形に熱の意あれば水の形にも冷の意あり。されば火を見ては熱を思い、水を見ては冷を思い、梅が枝に囀[サエ]ずる鶯の声を聞ときは長閑[ノドカ]になり、秋の葉末に集[スダ]く虫の音を聞ときは哀を催す。若し此の如く我感ずる所を以て之を物に負わすれば、豈[ア]に天下に意なきの事物あらんや。

これは「意識」に関わる問題だから、めんどくさいですねぇ〜!w

火を見れば熱を思い、水を見れば冷を思う。ここまでは、少なくとも「人間」にはわかるでしょうね!そして、梅の枝の鶯の声にのどかになって、秋の葉の虫の音に哀を催すのは、「日本人」にはわかるかもしれません。しかし、海外の人たちはどうでしょうね。「我感ずる所を以て之を物に負わすれば、天下に意なきの事物あらん」なんて、ほとんど「意識」の問題です。しかも、これは「意の形」の問題ではなく、「形の意」の問題です。ひとまず、先を読んでみたいと思います。

斯くいえばとて、強ちに実際にある某の事某の物の中に某の意全く見われたりと思うべからず。某の事物には各其特有の形状備りあれば、某の意も之が為に隠蔽せらるる所ありて明白に見われがたし。之を譬うるに張三も人なり、李四も亦人なり。人に二なければ差別あるべき筈なし。然るに此二人のものを見て我感ずる所に差別あるは何ぞや。人の意尽く張三に見われたりといわんか夫の李四を如何。若[モシ]李四に見われたりといわんか夫の張三を如何。して見れば張三も李四も人は人に相違なけれど、是れ人の一種にして真の人にあらず。されば未だ全く人の意を見わすに足らず。蓋[ケダシ]人の意は我脳中の人に於て見わるるものなれど、実際箇々の人に於て全く見わるるものにあらず。其故如何と尋るに、実際箇々の人に於ては各々自然に備わる特有の形ありて、夫の人の意も之が為に妨げられ遂に全く見われ難きによるなり。故曰、形は偶然のものにして変更常ならず、意は自然のものにして万古易らず。易らざる者は以て当[アテ]にすべし、常ならざる者豈[ア]に当[アテ]にならんや。

むずかしい!むずかしすぎる!w

現代では、「偶然」の対比として「必然」を、「自然」の対比として「人工」を当ててしまいます。おそらく、ここでいう「偶然」「自然」とは、「偶々[タマタマ]」と「自[オノ]ずから」という意味で使っているのかもしれません。そういう意味では、ここでいう「自然」とは、今西錦司(1902-1992)の「なるべくしてなる」という進化論に近いものを感じます。そして、気になるのは「常ならざるものは当てにならん」という所ですね。「フォームに付随する意識・意味・意図」は、まず「見る」というところから始まります。赤ちゃんが、色々な所や、親の表情を真剣に観察しているのは、「その形にどんな意味があるのかを、生き残るために知ろうとしているから」かもしれません。そういう意味では、成長した後の「その人のパーソナリティ」とは、「形の意味を探るための事物の取捨選択をした結果」と言い換えてもいいかもしれません。大抵の人は、地面を這っているアリに見向きもしません。なぜなら、「生きる上で、その形の意味を探ることは不要である」と判断し、「探ることを放棄・排除」したからです。しかし、アリの「形の意」を残している人もいます。この「形の意」と「おのれ」の関係は、わかるといえば、わかりますw

四迷が問題にしたいのは、「意の形」、「アイデアの普遍的構図・構成・形状とは何か」ということなんでしょうね。だから、「常ならざるものは当てにならん」と言ったのでしょう。一体、「変わらないものは何なのだ」と…

ということで、このつづきは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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