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#313 そもそも、なぜ、物語が書けるのか

本論は、余の友人にて魯西亜(ロシア)の文学に長ぜられたる冷々亭主人が拙著当世書生気質を評論するとて、其論頭に掲げられしものなり。

二葉亭四迷が『小説総論』を「中央学術雑誌」に発表するとき、坪内逍遥は、上の文章で始まる推薦文を寄せました。冷々亭主人というのは、二葉亭四迷のもうひとつのペンネームです。

そもそも、『小説総論』は、坪内逍遥が「ベリンスキーの芸術論の大意」を自分のものとして、噛み砕いて書いてくれと、二葉亭四迷に依頼したことから始まります。

四迷は、ベリンスキーの『美術の本義』の訳文を執筆したことがあります。なので、それをダイジェストで紹介することは難しいことではないはずです。しかし、逍遥にそう言われたから、それにしたがって執筆しただけなのか、と言われると、どうもいささか疑問が残ります。なんせ、当初の四迷の目的は、「逍遥の当世書生気質を評論するため」だったのですから…。

坪内逍遥の『小説神髄』は、「小説」に関することを漏らすところなく書いてあります。小説の「変遷」「目的」「種類」「メリット」「文体」「脚色」「設定」等々、多方向からアプローチしています。それをもとに書かれた『当世書生気質』は、『小説神髄』の内容の実践に失敗しているとはいえ、それを理想にして、なんとか物語を書こうとしたことは間違いないはずです。しかし、評論しようとした四迷は、なにか、もっと、根本的な「小説」にまつわることが気になったのではないか…。そんな感じがするのです。

その根本的なこととは何かと言いますと…

「小説のネタが浮かぶ浮かばないって、結局、おれの中で何が起こっているの?」

どうも、これが根っこにあるんじゃないかと思えて仕方がないのです。

だから、『小説総論』は、「形・フォーム」と「意・アイデア」から始まるのではないか…。

だって、「ウソの話」を「自分の頭の中」で作るとなったとき、その本質的な材料となったら、「自分の意識」が「外部の世界」を認識することそのものから始まらざるを得ないからです。

このことは、少なくとも、逍遥の『小説神髄』には、書かれていないことだからです。おそらく、逍遥も、この点に関しては、意識的に書かなかったのかもしれません。だって、これを書いてしまうと『小説神髄』ではなく、ただの『神髄』になってしまうからです。

二葉亭四迷は、1886(明治19)年1月25日に坪内逍遥のところを訪問し、それ以降毎週のように逍遥のもとに通い、3ヶ月後の4月に『小説総論』を発表し、翌年の1887(明治20)年に『浮雲』の第一篇を出版します。この一年間は、ふたりの間に相当濃密な時間が流れていたはずです。『浮雲』出版のとき、逍遥28歳、四迷23歳です。やはり、明治は、なにもかもが若いですね!

ということで、いよいよ、『浮雲』を読んでいきたいと思うのですが…

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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