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年齢を重ねるごとに最近の曲の歌詞が覚えられなくなる現象。その謎をひも解いていると、生命の危機に遭遇したじゃないの。『デタラメだもの』

最近の歌がまったく覚えられない。好んで何度も何度も聴いているのに、歌詞は覚えられないし、メロディも難しい。鼻歌を口ずさんでいるときですら、何度も立ち止まってしまう。軽妙に歌って気持ちを愉快にさせる鼻歌でさえ、これほどまでに苦労してしまうのか。

それに比べると、若かりし頃に覚えた楽曲は、いつまで経っても忘れない。忘れようとしても思い出してしまう。歌詞の一字一句まで鮮明に記憶している。きっと、アーティストが急病でステージに立てなくなり、代役に抜擢されたとしても、完全に歌い上げる自信がある。もちろん、上手い下手は別としてね。

この現象は何だろう。単純に脳みそが経年劣化しているという説もあるが、それ以外にも理由があるはずだ。音楽を愛してやまない気持ちに劣化はない。それなのに、鼻歌を口ずさむことに苦労している始末。解せぬ。実に解せぬ。

そういえば、記憶というものは、経験やら刺激やらを伴うことで脳に定着しやすくなると聞いた覚えがある。単なる知識よりも実際の経験のほうが、強く印象に残り、いつまでも覚えている傾向があるというアレだ。要するに、記憶ってものは、感情を含めて脳にインプットするほうが、より深く刻まれるということだね。はははん。なるほど。

確かに、若かりし頃の楽曲の聴き方といえば、恋愛や友情を演出する側面があるため、この曲を聴けばあの人を思い出す、とか、この曲を聴けばあの場面を思い出す、などと、楽曲単体ではなく人や場面とひも付いていることが多いように思う。「この曲を聴けば、あの頃を思い出す」なんてまさにその例だよね。ひとつの楽曲で、自らが生きていたとある時代そのものを思い出してんだもん。そりゃ忘れ難い楽曲にもなるよね。

ん? ほんだら何かい? 今日この日この時代に生きる自分自身は、己の人生に刻まれることのない、印象の薄い、無味乾燥な時間を生きているってわけかい? だから、その合間に耳にする楽曲が記憶に残らないってのかい?

いやいや、そんなワケないでしょうが。毎日必死に生きてまっせ。新しいエピソードを塗り替えながら生きてまっせ。いろんな人と出会い、いろんな場所を訪れ、感情豊かに生きてまっせ。それやのに、なんで楽曲はその人や場所とひも付いてくれないのん? ほら、やっぱり経年劣化説が濃厚やん。

しかしこれまた聞くところによると、脳の可能性は無限大らしい。人間は自身の脳のポテンシャルを持て余しているとも聞く。要するに、本来の能力を発揮できないままでいるというわけだ。あのアインシュタインにして「人間は潜在能力の10%しか引き出せていない」と言わしめたくらいだもんな。となると、脳の能力限界説は否定されるわけだ。となると、やっぱり経験やら感情がうまくセットされていないというわけか。

じゃああれかな、そそり立つ崖の上から半身を投げ出し、生命の危機を感じながら楽曲を聴いたりすると、あり得ない経験がセットされて、曲やら歌詞やらが脳に記憶され、その後の人生、軽妙に鼻歌を歌えるようになるのかしらん。

いや、そんなことをしていたら、ひとつの楽曲を記憶するために、わざわざ崖に赴く必要がある。きっと時間の無駄だろうし、そんな経験とひも付くにふさわしい楽曲なんて、数が知れている。

よし。じゃあこうしよう。経験や感情が貧相だから楽曲が記憶に残らないという脳の仕組みだと仮定し、それを逆手に取り、楽曲が記憶に残るような経験やら感情やらを能動的に掴みに行くというもの。つまりは、軽妙に鼻歌として歌える楽曲が新たに増えないことを、己の経験や感情が無味乾燥化しているバロメーターとして捉え、行動そのものを彩り豊かに変えてやる。

実験をスタートさせ数日、徐々に最近の楽曲が脳に定着している気がしてきたが、そんな折り、記憶の定着を妨げる最大の悪魔を発見してしまった。それは何かって言うと、考え事だ。こいつが諸悪の根源だ。楽曲たちが流麗に脳に彫刻刀でもって記憶を刻もうとしているところに現れ、容赦なく彫刻刀をへし折って回っている。なんという刺客。なんという強敵。

若い頃ももちろん、いろんなことを考えていた。自分の人生のことだって考えるし、勉学のことや恋愛のことも考える。さまざまなことに思考を巡らせ、時に喜び時に悲しみ、笑ったり傷ついたりしながら生きてきた。それは一切において否定しない。

しかしだ、年を重ねるにつれ、考えなければならないことは圧倒的に増えるわけだ。8万円のエアコンを購入し設置しようとしたところ、足場を組んで設置せねばならなくなり、その足場の設置費が10~20万円くらいかかると言われ断念した問題をどうやって解決しよう、とか。

のほほんのほほんと仕事をやっていた結果、得意先様の売上額が前年比45%まで落ち込んでいることが判明しただとか。悩みのひとつである歯ぎしりが、もはや前歯を摩耗し切らんとしている問題だとか。家の外壁の軒下に、アシナガバチが巣を作っていたため、駆除の業者さんを呼ばねばならんとか。バッティングセンターに遊びに行っても、自身の順番を待つネット外の猛者たちの視線が気になってしまい、緊張し大半のボールを空振ってしまい、お金の無駄につながっているとか。税金がどんどん高くなってゆくこととか。

そうなのです。楽曲を聴いている間にも、これらの考え事が脳を支配し、彫刻刀をへし折ってしまうのです。だってだって、若い頃はこんなこと、微塵も考えずに生きてたもんね。雨天の日は湿気で前髪がウネッてしまい、何度も鏡前に立って髪をセットしなきゃならないから面倒臭い。とか、そんなことくらいしか考えてなかったもんね。そりゃ、彫刻刀も鮮やかにその仕事をやってのけられるわけだ。

答えは出た。多くの考え事を抱える年齢になると、楽曲をBGMとして聴いてしまう。つまりは、考え事の背景に流れるサウンド。タイアップ曲ではなく、挿入歌。それゆえ、記憶にも残らないし、軽妙に鼻歌として歌うことすらできない。だって、覚えられないんだもの。

クソう。これほどまでに音楽を愛しているにも関わらず、音楽がBGMに成り下がってしまうなんて口惜しすぎる。革命を起こさねばならん。

そう思い立ち、日中は考え事をするのを止すことにした。仕事中はさすがにそうもいかないし、仕事中こそ、BGM然とした楽曲を聴くべきだ。移動中だったり、ボーッと歩いてるときだったり、そんな時には面倒な考え事を一切やめ、流れる楽曲に集中しようじゃないの。

そう思いながら、家の近所をプラプラと散歩。梅雨の合間に見せた晴れの気候に気分を良くし、雪駄をペタペタいわせながら近所を徘徊する。おお、なるほど、この楽曲はこういう歌詞だったのか。このタイトルには、そんな意味が隠されていたのか。といった具合に、楽曲の魅力を余すことなく味わうことができた。

久方ぶりに音楽を楽しみ時を過ごしていると、あまりに思考を空っぽにしていたもんだから、口をあんぐりと開け、アホ面して歩いてしまっていたようだ。ハッと我に返ると、何かしらが口内目掛けて突進してくることに気づいた。そいつは見事に我が口内への侵入に成功。思わず唾液とともに吐き出すと、そこには小さめのアシナガバチ。危うく死ぬところだった。ん? 経験とセットで記憶するって、こういうこと? たぶん違うだろうな。

デタラメだもの。


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